sinkaron | ナノ
 遡ること三十分前、彼が苦しそうな声で言った言葉を私はどうしても忘れることができなかった。
親が帰って来たため無事に家の中に入ることができた私は、夕飯も食べずに自分の部屋に閉じこもってひたすら彼の言った言葉の意味を考える。が、どんなに考えてもどんなに"思い出そう"と頑張っても何も分からないままで。


「…ふざけんな…っ」


「……――」
何で彼があんな顔をしたのか分からない。何で彼があんなに私に突っかかってきたのか分からない。それどころか、彼がいとも簡単に私を家に上げたことさえも分からなかった。



 しばらく椅子に座ったまま考え続けていたが、リビングから私を呼ぶ母の声が聞こえたため私は慌てて立ち上がる。今行く、と伝えて部屋を出ようとすると不意に足元にあった鞄に躓いて転びそうになってしまった。
「もう……」
こんなところに雑に置いた自分を恨みながら鞄を持ち上げる。そういえば携帯を鞄に居れっぱなしにしてしまっていたんだっけ。そんなことを思い出しながら鞄の中に手を入れた時だった。

「……ん?」

指先が何かに当たった時、微かにチャリ、と金属音のような音が聞こえて私は思わず声を漏らす。(…まさか……) 何となく嫌な予感がしてそれを引っ張り出すと、…やっぱり、そうだ。

「…鍵…鞄に入れたんだった……」

私はがっくりと肩を落とす。無駄足というか、無意味というか。学校に戻ろうとしたことも彼の家に上がらせてもらったことも、私の"勘違い"が原因だったという事実にどうしようもない不甲斐なさを感じた。最近、とてもじゃないけど注意力のようなものが足りていない気がする。
(…早とちり、しちゃったなぁ)

「……」

何となく手に持った鍵を握り締めて、私はぎゅっと唇を結ぶ。
ふと鞄に詰め込まれた写真が目に入った。私はただ無言のままそれを一枚手に取って、ぼんやりと見つめる。

写真に映るのは、友達と一緒に笑顔を浮かべている私。もう一枚手に取っては、同じようにそれを見つめた。どれもこれも、みんな私が笑っている写真だ。一体どこから、どうやって撮ったんだろう。シャッター音にも視線にも気付くことができなかった鈍感な私が悪いんだろうか。考えれば考えるほどに気味が悪くて、胸の奥底がぎゅっと痛んだ。
こんな写真を見られて、きっと、彼は私さえも気味悪いと思ったんだろうな。いきなり泣き出した私を、面倒だと思っただろうな。それでも私を家に入れてくれたんだから、やっぱり彼は優しい人なの、かな。

(…でも……)
私は、どうして彼が怒っていたのか分からなかった。どうして自分があんな乱暴に壁に抑えつけられたのか、理解することができなかった。
でもきっと彼は私に対して怒っていたんだと、思う。そこまでは何となく分かるのに、それに至ったまでの彼の気持ちを察することはできない。もどかしさと苛立ちが私の胸をチクチクと苦しめる。


「っ、クソ…!!!」


あんな顔、向けられると思わなかった。
怖かったのに、掴まれた肩も近付けられた顔も、怖くて未だに忘れられないのに。肩に突き立てられた爪の感覚や悲しそうな顔に、私は見覚えがあるような不思議な感覚になって、抵抗できなかった。
私はいつも彼の気持ちが分からないままこうして悩まされてばかりだ。こんな気持ちになるくらいなら今までみたいに彼を避ければ良いのに、関わらなければ良いのに、どうしてかそれができなくて。

そっと机の上に置いた写真を睨むように見つめては、胸の中を掻き回されるような嫌悪感に襲われた。


20150228