sinkaron | ナノ
 ばたんと音を立てて玄関のドアが閉まると、そこに残ったのはあまりに静かすぎる沈黙だけだった。
俺は力任せに握り締めた細い腕から手を離して靴を脱ぐ。その後ろでは、俯いたまま俺を見ようとしない小さな体が逃げるわけでも家に上がろうとするわけでもなく、ただじっと縮こまっていた。


「…靴脱げよ」
「………」
「…おい」
「……、…痛い」

無理矢理引っ張るようにしてまた細い腕を掴めば、か細い声が耳に届く。痛くなるほど強く掴んだ自覚がなかった俺はすぐに手を離して視線を逸らした。まるで痛んだ手を宥めるようにしてさすっている姿を見ては、"ごめん"の一言がどうしても出てこない。
俺は堪らない気まずさに思わず口から零れそうになった舌打ちを寸前で引っ込めてから廊下の隅に鞄を置いた。するとまた、静かな空間にか細い声が小さく響く。

「……何で…」
「は?」
「家…入れたの、なんで?」
「……――」

俺はその質問にすぐに答えることができず、ただ唖然と目を見開いた。
怯えたような視線を俺に向けているのが妙に苛々して、すらっとした細い指先が微かに震えているのもさっきの涙も言葉も今の質問も全部気に食わない。
(何で、コイツは…っ……)


「……鍵ねェんだろ」

それだけ吐き捨てて俺はさっきと同じくらい強引に腕を掴んで引っ張った。すると「ま、待って、靴…!」と慌てたような声が聞こえたため俺は何秒かだけ足を止める。そして五秒後、ローファーが地面と触れ合う音が響き、ようやく俺たちは玄関から洗面所へと移動した。

余所の家で緊張しているのか、視線を下ろしたままのコイツから離れて俺はタオルが入っている棚を開ける。雑な手つきでタオルを一枚引っ張り出し、俺よりもいくらか下にある頭にそれを被せた。

「!……えっ」

急なアクションに驚いたのか、バッと顔を上げて俺を見たその目に思わず息が詰まる。

「え、これ…」
「顔洗えよ」
「!」
「この前よりひでー顔してんぞ」
「…あ……」

改めてすぐ近くにある顔を見つめると、どうやら途端に羞恥心を感じたのか俺の視線から逃げるようにタオルを握り締めて洗面台の方へと行ってしまった。俺はそれを止めるわけもなく、ただ無言のまま華奢な背中を見つめる。
(……ちっせェ)
"昔"と何も変わらない、頼りない背中。だけど髪は随分伸びたと思う。ガキの頃の記憶なんてそんなにハッキリと覚えてるわけじゃあないが、何故だかコイツのことだけは鮮明に覚えていた。


「爆豪君」
「!」

ぼんやりとそんなことを考えていると不意に声を掛けられて一気に現実に引き戻される。すると俺の前まで歩いてきて「タオルありがとう」と笑ったコイツに、どうしようもなく息が苦しくなった。それを誤魔化すように乱暴にタオルを受け取って洗濯機へと放り投げれば、足は無意識にリビングの方へと向かって進み出す。

「あ、あの」
「んだよ」
「この時間帯…いつも、ひとりなの?」
「あ?…そーだけど」
「…そっか」
「……それがどうかしたのかよ」

別にそこで会話を終わらせても良かったのだが、何やらくすぐったそうな表情を浮かべているのが気がかりでそんな質問をしてみたら返ってきたのは思いもしない言葉だった。

「い、一緒だなって思って。私と」
「…!」



"一緒"


その言葉に、指先が痺れたような感覚に襲われた。控えめな笑顔を浮かべて俺を見た顔に、俺は思わず距離をとる。ばくばくと心臓が音を立てて上手く息ができない。こんな気持ちになるのはいつぶりだ。もう忘れかけていた感覚が、また俺を苦しめた。




「かつき君」




「っ……は…」

痛いくらいに両手を握り締めて拳を作れば爪が掌を突き刺して鋭い痛みが走る。しかしそんなの気にならないくらい、俺は動揺していた。
(何も……コイツは、なにも)

「…ば、爆豪君…?」

急に黙り込んだ俺を心配しているのか、不安そうな顔で俺の肩に触れようとしたその手を避けて俺は壁に背中をくっつける。何が何だか分からないと言わんばかりの表情を浮かべてもう一度俺の名前を呼ぶその声に、俺も、何が何だか分からなくなった。
"今"目の前にいるコイツは、俺のことをただの「お隣さん」としか思ってない。むしろコイツが俺を恐れて避けていたことだって気付いてた。なるべく俺と関わらないように、なるべく俺の目に届かないように。そうやって俺と距離を作ることで、コイツは自分で自分を守ってたんだ。だってコイツは喧嘩が大嫌いだから。昔から、争い事とかそういうのに慣れてなくてだから嫌いで避けたくて、そういうの俺は全部知ってるんだよ。



なあ



「どうしたの?大丈夫?」
「ッ……」
「爆豪君、」



――違うだろ



「爆豪く―― ッ、!!?」


ばん、と荒々しく音を立てて俺は目の前の小さな体を壁に押し付けた。
丸っこい目が大きく見開かれて、じっと俺を凝視する。怯えているわけではないのに、どうしてかその目は俺に強く訴えかけていた。
爆豪君、何で?って。

「………ぁ…」
「やめろよ」
「っ…な、なにが…」

華奢な両肩にこれでもかと力を込めれば次第に目の前の顔が歪んでいく。それを見ても、俺はただただ腹が立つだけだった。
俺は人の痛みになんかこれっぽっちも興味ない。それがもし自分が与えている痛みだというのなら、相手よりも自分の方が上だという優越感を得るだけだ。俺は誰よりも強く優位でありたい。幼い頃から周りよりも自分の方が上だった。皆俺より下だった。俺が一番すごかった。
なのに、それなのに。
あの日高校に入って初めて、幸せそうに笑うデクの顔を見た。
コイツと二人でいつの間にか"昔"に戻ったみたいに並んで歩くそれを見た俺は、これ以上になくコケにされたような気がしてならなかったんだ。

どうせコイツは、俺と初めて話したのが数日前だと思ってる。
どうせコイツは、俺よりもデクに心を開いてる。
どうせコイツは、"何も覚えていない"。


「っい、たい……」

自分でも気付かないうちに白い肌に爪を立てていたらしく、また歪んだ顔に俺はひどく苦しくなった。ずっと胸の奥で眠っていた感情が、まるで沸騰したかのように溢れ出してくる。



コイツは臆病で、卑怯で、ずるい



「ばく、ごう君……?」
「…ふざけんな…っ」



俺は、ずっと



「っ、クソ…!!!」



ずっと 覚えてるのに







20150225