sinkaron | ナノ
 僕には、好きな女の子がいた。

その子はいつもにこにこと優しい笑顔を浮かべていて、だけど誰かが傷付いた時は一緒になって涙を流す子だった。人の痛みにも自分の痛みにも、そして喜びにも悲しみにも敏感で、少し臆病な彼女は僕とは違い"個性"を持っていたのだ。それは敵と戦ったり何かを壊す個性ではなくて、人を助けることができる個性。彼女らしいとても優しく強い個性だと僕は心からそう思った。
だけど、彼女は自分の個性を周りに自慢したり見せびらかしたり、自ら話すことをしなかった。

その原因になったのが、僕の身近で起きたひとつの事件。それは一人の子供が大型トラックに轢かれるというものだった。しかしそれはただの事件ではなくて、むしろただの事件よりも小さく丸め込まれ世間にも知られることなく終わったのである。子供に大怪我をさせたトラックの運転手が警察に連れて行かれることもなく前科がつくこともなく、事件現場が大騒ぎになることもなく、何より大怪我を負って生死にまで関わったその子供は無傷に"なった"。そんな普通じゃ考えられないようなことを現実にしたのが、まさに僕が恋をしていた彼女だったんだ。
彼女は子供を、一人の男の子の命を救った。だけどもう一人、彼女が救った男の子がいた。そして、その男の子が彼女にとってどんな存在だったかを、きっと僕だけが知っている。

 僕の好きな女の子は、僕じゃない人に恋をしていた。彼女はそれを僕だけに話してくれたんだ。嬉しそうな、幸せそうな顔をして。二人で遊んだり話したりする時は、いつも"その男の子"の名前が出てきたのを覚えている。だけど僕は不思議と悔しくなかったり悲しくもならなかった。だって、素直に"お似合いだ"と思ったから。

だけど今思えばちょっとだけ、悔しいかな。何が悔しいかってそれは、彼女が、


「……私…なにしたの…?」


ぜんぶ、忘れてしまっていたこと。









それはホームルームが終わってすぐに教室を出ようとした時だった。

「緑谷ちゃん最近女の子と一緒に帰ってるみたいだけど」

付き合ってるの?と、平然とした顔で蛙吹さ…―梅雨ちゃんはそう言った。それを聞いた僕は思わずバッと彼女に顔を向けて「ち、違うよ!」と否定をする。確かに今日も一緒に帰る約束をしてるけど、そういう関係じゃないしそうなることもないだろう。僕は苦笑しながら彼女に言った。

「幼馴染なんだ。昔からよく遊んだりしてて…」
「そうなの。二人とも楽しそうにしてるからてっきり恋人同士なのかと思ったわ」
「そ、そんなんじゃないよ。…だって名前ちゃんは……」
「?」
「…あ、いや何でも…」

誤魔化すように笑って「それじゃあまたね」と告げると、彼女は不思議そうに首を傾げたものの何も詮索せずに「ええまたね」と表情を変えることなく手を振った。

 名前ちゃんのところへ向かう時はいつも、足が軽くなって思わず早足になってしまう。気付けば頬だって緩むし、心無しかわくわくする。今日はどんな話をしようかな。まだ少し緊張してしまうけど、それでも名前ちゃんと話すのは楽しくて仕方がない。
名前ちゃんの教室まであと少しのところで、ふと先ほどの蛙吹さんの言葉を思い出してしまった。
(…恋人同士…か…)
僕はキュッと音を立てて足を止める。何となく肩の力を抜けば、名前ちゃんの教室のドアが開いてざわついた教室内から数人の生徒が廊下へ出て来た。その中に名前ちゃんの姿を見つけて、僕は思わず笑顔で駆け寄る。

「名前ちゃん!」


(ホントに、そうだったら良いのに)


「あっ、出久君…!」

彼女も僕を見ると笑顔になって、何だかすごく幸せを感じた。初めて好きになった人を忘れてしまおうなんて思ったことは一度もない。初恋は叶わないというのを聞いた時は納得すらしてしまった。だからと言って諦めようと思うわけでもなく、諦めずに想い続けようと思うわけでもなく。
ただ彼女の幸せを願った。彼女が彼女の好きな人と結ばれますようにって。

それなのに。



「お隣さんだけど遊んだこともないし…あっ、でも出久君はよく遊んでたんだよね」




記憶のまだ新しい場所からぼんやりと浮かんできた彼女の言葉に、胸が締め付けられるような感覚に襲われる。あの言葉を聞いた時、僕はどうしていいのか分からなくなった。
そういえば名前ちゃんが彼と初めて話した日は、彼女が失った"二年分"に含まれていたんだっけ。そんなことを考えながら胸の痛みから逃れるようにぐっと両手で拳を作れば、僕の様子に気付いた名前ちゃんが心配そうに僕を見上げる。

「出久君?どうしたの?」
「えっ…あ、ううん、何でもないよ」

彼女に心配をかけまいと笑顔を作れば、「そっか」と安心したような声が返ってきた。僕は彼女の歩幅に合わせながらゆっくりと家までの道を進んでいく。彼女といる時に余計なことを考えるのはやめよう。そう決めて僕は彼女の横顔を盗み見た。

「そういえば昨日の夕飯、かつ丼だったんだよ」
「そうなの?」
「うん、美味しかった」
「いいなぁ、僕も食べたいや」



彼女の笑顔を見れば見るほど僕は幸せになれるけど、彼女が僕に笑顔を向ければ向けるほど、不幸になる人がいる。それを彼女が知るのは、あとどれくらい先になるんだろう。


20150223
20150225 修正