yubi | ナノ
「あ」

 放課後、たまたま窓から外を眺めていると自転車部の部室の前で鳴子君が自主練をしていた。周りには誰もいなかったため、思わず「鳴子君!」と呼んでしまう。すぐに気付いた鳴子君は自転車(ロードバイク、って言うんだっけ)に乗っているにも関わらず、大きく手を振って応えてくれた。
しかしすぐに集中モードに入った鳴子君を見つめたまま、私は少しだけ頬を緩ませる。素直に、手を振ってくれたことが嬉しかった。浮かれすぎだろうか。

 私は鞄を持ち直し、昇降口へと向かう。帰宅部は楽だけど、ひとつだけ欠点がある。何もすることがないということだ。まあそれでこそ帰宅部なんだろうけど。
(……声、掛けに行ったら、迷惑…かな)
さっき手を振ってくれたことがあまりにも嬉しくて、そんなことを考えてしまう。いやいや、鳴子君は本気で部活に取り組んでるんだから邪魔しちゃ駄目に決まってる。私は自分を叱り、鳴子君のところには行かずそのまま学校を出た。

 駅への道をしばらく歩いていると、ポケットに入った携帯が着信を知らせたため急いで画面を確認する。と、そこには懐かしい名前が表示されていた。私は迷うことなく通話ボタンを押す。

「もしもし」
『もしもし…久しぶり、なまえ』
「お久しぶりです、拓斗先輩」

機械を通して耳に届いた声は、もう一年振りくらいだろうか。同じ中学で、同じ趣味を持っていたひとつ上の先輩、葦木場拓斗先輩。中一の夏にたまたま音楽室で知り合って、ピアノの話やクラシックの話をして盛り上がったのがきっかけに良く連絡を取るようになった先輩だ。あの人とも、拓斗先輩を通じて知り合った。

「珍しいですね、先輩が電話してくるなんて」
『あー…うん、久しぶりに話したいなって…思って』

戸惑ったような口調でそう言った拓斗先輩は相変わらずで、私は思わず笑顔を浮かべる。
「嬉しいです」
そう言うと拓斗先輩は少し黙り込んでから、「元気にしてた?」と聞いてきた。

「はい、元気ですよ、すごく」
『まだピアノ、やってるよね』
「もちろんです」
『…俺さ、』

急に拓斗先輩の声が真剣なものに変わる。何を言われるのだろうとまた身構えてしまった。すると拓斗先輩は何故かまた黙り込んでしまい、何とも言えない沈黙が生まれる。

『……』
「……拓斗先輩?」
『…あ、ごめん、えっと』
「…どうか、しましたか?」
『……ううん、いや、何でもない』

元気なら良かった、とだけ付け加えてまた黙り込んでしまった拓斗先輩。今日は何だか様子が変だ。具合でも悪いのだろうか、それとも疲れているのだろうか。あまり深くは詮索したくなかったため、「はい。元気ですよ」とだけ返しておいた。

『弾ける曲、また増えた?』
「うーん、まあまあです」
『そっか』
「拓斗先輩はどうですか?ほら、あの、ずっと弾きたいって言ってた難しい曲、ありましたよね」
『今やってるよ。…あともうちょっとって感じ』

ぽつりぽつりとそう言った拓斗先輩に少しだけ安心する。高校が離れてからずっと連絡が無くて、実は寂しかったりなんて思うこともあった。でもやっぱり拓斗先輩は、私とあの人のことを気遣ってあまり頻繁に連絡をしてこないのだと、思う。
(……前は、あんなに…)
弾んでいたはずの会話も、今ではちょっとだけしんみりしたものになってしまったし、"三人"で笑い合うこともなくなってしまった。そんなことを思い返しては、拓斗先輩に対する罪悪感がこみ上げてくる。

「…また、良ければ一緒にピアノ弾きたいです」
『…うん。俺もそれ、言おうと思ってた』
「拓斗先輩、箱根でしたっけ、高校」
『うん、箱根』
「そんなに遠くはない、ですけど…近くもないですね」
『…だよね』
じゃあまた、都合の合う日に。拓斗先輩はそう言ってくれた。私も頬を緩めて「はい」と返す。春らしくない少し冷えた風が頬を掠った。

『……あのさ、なまえ』
「何ですか?」
『何かあったら、聞くから。いつでも』
「…!」

思わず吃驚して目を丸くしてしまう。私、どこか変だったかな。上手く喋れてなかったんだろうか。また心配を掛けてしまった。

「……すみません、拓斗先輩」
『え…いいよ、何で謝るの』
「…すみません」
『……なまえ、俺さ、…』
「?」

また何かを言い掛けて黙り込んでしまう拓斗先輩。今度こそ何か言うのかと思い拓斗先輩の言葉を待ったが、やっと返ってきた言葉に思わず笑ってしまった。

『やっぱ、何でもない』



 20140822