yubi | ナノ
「はぁ……ほんまドエライ目にあったわ…」
「ドンマイだね、鳴子君」

 昼休み、たまたま会った私と鳴子君は廊下の壁に寄りかかりながら話していた。
鳴子君は随分と長い説教をされたらしく、私が"次からは遅れるなよ"とだけ言われたというのを話した時は「何でなん!?贔屓や!!」と叫んでいたが贔屓も何も先生が違うんだから、と心の中でツッコミを入れておく。
鳴子君がだるそうに肩を落としたのを見て、私も少し肩の力を抜いた。廊下を行き交う生徒たちの視線が少し気になったが、鳴子君は全く持って気にしていないようだ。

「せや、名前なんて言うんやっけ」
「え?私の?」
「自分しかおらんやろ」
そう言って笑った鳴子君。笑う度に覗く八重歯がすごく気になった。

「みょうじ、だよ」
「みょうじさんか、よろしゅうな!」
「うん、よろしくね」

また八重歯が覗いて、ぽんと背中を叩かれる。
「さっきのピアノ、また聞かせたってや」
「えっ、」
「ピアニスト言うんやろ、そんくらい上手かったで、みょうじさん」
「そ、そんな……」

鳴子君が素直に褒めてくれているのに、私は何故か上手く笑い返せない。また胸が締め付けられるような感覚。鳴子君には悪いがこれ以上ピアノの話をしたくなくて、少し無理矢理になってしまったが「そういえば」と別の話題に切り替える。

「自転車部、今年もインターハイ出るんだよね」
「あったりまえや!今年も目立つで!!」
「じゃあ応援、行けたら行くね」
「!!………は?ほんまに?」
「え?う、うん」

何かまずかったのだろうか。鳴子君は大きな猫目をぱっちりと開いて私を見つめた。しばらくぽかんとしていた鳴子君だが、途端に私の両肩をガシリと掴んで嬉しそうに笑う。(八重歯、が、)

「そら気張るわ!!ありがとう!応援よろしゅう!!」
「っちょ、鳴子君、」
声が大きいよ!と慌てながらそう言うと鳴子君は「あ、しもた」見たいな顔で私の肩から手を離す。

「すまんすまん…っと、アカンまた忘れとったわ、パーマ先輩のとこ行かんと」

急に何かを思い出したのか冷や汗をかきながら「ほなみょうじさん、またな!」と片手を上げて去って行こうとする鳴子君に「パーマ先輩って?」と最後に声を掛けると、鳴子君は
「部活の先輩や!あ、パーマ先輩ってのは本名ちゃうで、ほんまは手嶋さんな!」
と、そう言った。本来ならそこで「そうなんだ、じゃあまたね」と頷くところなのだが、私はあまりの不意打ちに言葉を失ったまま目を丸くする。

「――…てし、ま……?」

思わず漏れた私の声に、鳴子君は顔を顰めた。しかし時間が押しているらしく、「スマン!ほなまた!」と言って去ってしまう。一人取り残された私は、手に汗を滲ませてしばらくその場から動けなかった。

(鳴子君…今、なんて……)

"手嶋さん"。彼は確かにそう言った。私はその名前に覚えがあるどころの話ではなく、また原因不明の胸の締め付けに苦しめられる。
「っ、い……」
思わず俯いてしまった自分を何とかして宥めようと、必死に頭を回転させた。きっと、たまたまあの人と同じで、たまたまあの人と同じ学年で、そうだ、そうに違いない。手嶋なんて名字の人は、世界中にいくらでもいるんだから。(…だから、……)

「今の俺にとって一番耳障りなの、多分お前の弾くピアノだわ」

違う。絶対に違う。ただの偶然だと、あの人がここにいるわけがないと私はそう自分を納得させて教室に戻った。鳴子君とまた話したい気持ちと、これ以上関わってはいけないような気持ちが混ざり合ってすごく気分が悪い。とにかくもう考えるのはやめよう。
(…そうだ、八重歯、)

鳴子君が笑った時に見えるあの八重歯を思い出すと、どうしてか少しだけ安心した。


 20140821