yubi | ナノ
 ピアノを弾く度に、必ず思い出してしまう人がいる。
幼い頃から今日までずっと触り続けてきた鍵盤と、飽きるほど踏んだペダル。ピアノは私にとってとても大切なものだった。ある時は気分を楽にしてくれて、ある時は嬉しさを倍増させてくれて。そう、あの日も、ピアノが私とあの人を巡り合わせてくれたのだ。それなのに。


「今の俺にとって一番耳障りなの、多分お前の弾くピアノだわ」

 また、思い出してしまった。確か中学二年生の時だった。冷たい笑顔でそう言ったあの人は、きっともう私の知らない高校の三年生になっているだろう。気付けば私もまた、総北高校の二年生になっていた。


指 と 呼 吸





「それじゃあ私、先に教室戻ってるね」
「うん、ありがとう」

 二年生になった春。学年がひとつ上がっても、私の日課が変わることはなかった。音楽の授業の後は必ず最後まで音楽室に残り、思う存分ピアノを弾かせてもらう。最初は先生も「またですか」みたいな顔をしていたけれど、今じゃすっかり私のピアノを褒めてくれるまでになった。
誰もいない音楽室の扉を閉め切って、ピアノに触れる。するとまた、あの人の言葉が耳に響いたような気がした。
(……耳、障り…)
自然と、指が勝手にピアノを鳴らす。それは二年前によく弾いていた曲であり、あの人に"耳障り"と言われた曲。思い出すだけで嫌になるはずなのに、どういうわけか私はその曲を夢中になって弾き始めた。
 ひしひしと伝わる振動、響き、音色。弾けば弾くほど虚しくなって、私は唇を噛み締めたまま手を止める。馬鹿みたいだ。気付けばもう次の授業まで五分もない。無駄な時間を使ってしまったと思った時だった。

 バタン!
突然ドアが大きな音を立てて、真っ赤な髪をした男子生徒が音楽室に入ってきたのだ。突然のことに私は目を見開いて彼を見つめる。慌てふためいたその顔には、覚えがあった。

「あ……」
「スマン!そこにあるファイル取ってや!」
「えっ、あ、これ?」
「ソレや!」
彼は乱れたネクタイやブレザーなど気にせずに私の元へと走って来る。それに少し圧倒されながらも、すぐ傍の机に置いてあるファイルを彼に手渡した。

「おおきに!いやぁー、次の授業で使うファイルなんやけどついうっかり置きっぱにしてもーた!ホンマ気付いて良かったわ!」
「そ、そうなんだ」

今までピアノの音しか響いていなかった空間に、大きく明るい声が響き渡る。さっきとはまるで別世界のように感じた。そんな私との短い会話も終わり、音楽室から出て行こうとした彼だったが不意にこちらを見て思い出したように言う。

「そういや自分、さっきピアノ弾いとったやろ」
「あ、ごめんなさい、うるさかった?」

てっきり文句のひとつやふたつを言われると思い身構えてしまった。しかし彼はニカッと楽しそうな表情を浮かべる。

「いや、どえらいキレーな曲やな思て」
「…!」

その笑顔に、私は別の意味でドキッとしてしまった。彼の言葉が、笑顔が、出会った時のあの人にそっくりだったから。

「なあ、音楽部かなんかの人なん?」
「う、ううん。帰宅部だよ」
「さよか!ワイは
「知ってる」
「え?」
私は思わず自己紹介をしようとした彼の言葉を遮り、ピアノの周りを片付けながらまた口を開く。彼は不思議そうに首を傾げた。

「知ってるよ。自転車部の鳴子君だよね」
「なんや知っとったんかい!そらおおきにな!」
「うん、…去年インターハイで優勝したって、すごいなって思って覚えてたんだ」
と言っても自転車部の部員は彼――鳴子君と小野田君という人くらいしか知らないけれど。そう言って控えめに笑い掛けると、静かになった音楽室に予鈴が鳴り響いた。

「しもた!!はよ教室戻らんと!」
「わ、私も…!」

お互い、さっきまでの空気が嘘のように大慌てで音楽室を出る。二人して走って向かう先は二年生のフロア。どうやら鳴子君もそれに気付いたらしく、「お前も二年やったんか!」とでも言いたげな顔で私を横目で見つめていた。


「今ピアノ弾いてたの、お前?」
「は、はい。すみません、うるさかったですか?」
「いや、スゲー綺麗な曲だなって思ってさ」



走っている時、ふとあの日の会話が頭に浮かんでまた胸が締め付けられる。しかしすぐに現実に引き戻され、教室に辿り着いた時にはもう時すでに遅し。本鈴が鳴り、クラスメイトたちは授業の準備をして椅子に座っていた。教科担任に苦笑されながら背中を丸めて席に座ると、「次からは遅れるなよ」と軽く怒られてしまった。ふと耳を済ませれば、隣のクラスから大きな怒鳴り声が聞こえてくる。どうやら鳴子君も怒られてしまったらしい。
(って、あれ?)
さっきは慌てていて気付かなかったけど、もしかしなくても鳴子君は、隣のクラスだったようだ。



 20140821