yubi | ナノ
 放課後になると、私は音楽室に行くことなく帰りの準備をした。
結局あれから鳴子君と話す機会もタイミングも勇気も失って今に至る。靴を履きかえて校舎を出れば突然携帯が震えたためポケットに手を入れた。すっと携帯を取り出してディスプレイに移された文字を読むとそこには"拓斗先輩 着信"と表示されていたため、私は急いで通話ボタンを押す。


「もしもし」
『あ…なまえ?ごめん、急に電話して』
「大丈夫ですよ。それよりどうかしたんですか?」
『…ええと。まだ学校?』
「え?あ、はい、そうですけど…」

いつもとは少し違った質問に首を傾げつつ答えると、拓斗先輩は少し間を取ってから
『俺さ』
と真剣な口ぶりで切り出した。何を言われるのだろうと思いながら拓斗先輩の言葉を待っていると、電話越しに聞こえてきたのは予想外の言葉。

『俺、いま総北高校についたんだけど』
「え?」

ばっと顔を上げて周りを見渡せば、校門の近くに立っている長身の彼をすぐに見つけた。
(ほ、ほんとだ……)
片耳に携帯をあてながらその目立つ体で周りから視線を集めているのは、紛れもない拓斗先輩だ。よりによって今日来るなんて思ってもいなかったから、少しいやかなり吃驚してしまった。
私は携帯を耳から離して、拓斗先輩の元へ駆け寄る。

「先輩!」
「!……なまえ」

ようやく私に気付いた拓斗先輩は何だかホッとしたように携帯をポケットにしまった。そして私を見下ろしながら、少し困ったように言う。

「会えて良かった…。もう先に帰っちゃったと思ったから」
「私もです。というか今日来るなら言ってくれれば駅まで迎えに…」
「あ、大丈夫、俺その…ロードで来たから」
「!」

(あ…そっか) 少し向こうの駐輪場にとめてあるロードバイクを指さした拓斗先輩は、ちょっと自慢げな表情を浮かべてみせた。毎日丁寧に手入れされているであろうロードを見て私は「かっこいいですね」と笑って拓斗先輩を見上げる。いつも思うが、私もそこまで身長が大きいわけではないから拓斗先輩と並ぶと結構な身長差だ。

「そういえば、今日は何をしに来たんですか?」

素朴な質問として聞いてみたのだが、拓斗先輩は途端に少しばかり気まずそうな顔を浮かべる。そして「…ええと」なんて口を濁しながらもはっきりと私を見て答えた。


「純ちゃんに、話したいことがあって」
「!!」


――純ちゃん


そのあだ名を聞いて、私は思わず肩を揺らした。それを見た拓斗先輩がゆっくりと、静かな声で続ける。

「…なまえ……言いたいこと、たくさんあるんじゃないの」
「……え…?」
「純ちゃんに」

拓斗先輩はそう言うと、じっと私を見つめた。責めるわけでも慰めるわけでもなく、その視線に私は耐えきれず目を伏せる。拓斗先輩はそれについては何も言わなかった。ただゆっくりとした穏やかな口調で

「…俺、純ちゃんのとこ行ってくるね」

と残しその場を去って行こうとする。私は小さく頷いて、彼に道を譲ろうと一歩下がった。しかし拓斗先輩は少し黙り込んでから、静かな声で私に言う。

「なまえは?」
「…!……」

そんな問いかけに私はぎゅっと鞄を握り締めて、薄く吐き出すように言いきった。


「…もう、会いません」


私の言葉に、拓斗先輩はどんな顔をしただろう。それを知るのが怖くて、私は「また連絡します」とだけ伝えて拓斗先輩の横を通り過ぎた。私は、逃げてばかりだ。逃げてばかりで何とも、誰とも向き合おうとしない自分に嫌気がさした。



20150219