yubi | ナノ
 翌日の朝になっても、気分は落ち込んだままだった。もう最悪だ。いきなり手を触ってしまって、あんな態度を取ってしまって。挙句の果てに鳴子君を置いてけぼりにしてしまったんだから、絶対変に思われただろう。

昨日鳴子君に触れた手をじっと見つめれば、何だか指先がじんわりと痺れた気がした。
(……嫌われたら、やだなあ…)
鳴子君、今日は音楽室には来ないかな。それなら私も、行かなくて良いや。
モヤモヤがまたモヤモヤを呼んで、私の気分は底なし沼のように下がっていく。その時だった。

「なまえ!」
「っ…!?」

急に大声が聞こえてハッとすれば、頬を膨らませた友達が私の席の目の前に立っていた。

「あ…」
「またボーっとしてたでしょ」
「ご、ごめん…気付かなくて」
「……何か考えごとでもしてたの?」
「…いや……」

首を横に振ろうとして、私はじっと自分の手を見つめる。それを見て友達は不思議そうに首を傾げてから、小さい声で私に言った。

「鳴子のこと?」
「えっ」

突然上がった名前に思わずどきっとして顔を上げれば、友達は表情を変えぬまま私を見つめていた。当たっているといえば当たっているが、何と答えたら良いのか悩んでしまって無意識のうちに首を横に振ってしまう。
誤魔化しきれた自信は無いが、友達は深く詮索せずに
「そっか。まあでも悩みがあるならいつでも聞くからね」
と言ってくれた。

「ありがとう」
「どーいたしまして」

にっこりと笑った友達だったが、途端に「あ」と思い出したように瞬きをして私の机を軽く叩く。

「次、移動だよ」
「えっ、そうだっけ」
「うん。ほら、廊下行こ」

私は友達に腕を引かれながら教室を出て、そのまま足を進めた。しかしすぐに私の足は止まる。少し向こうに、鳴子君を見つけた。私はその一際目立つ赤髪を見た途端にどうしようもなく嬉しくなった。また彼と話したり、ピアノを弾きたいと思った。
(…鳴子君)
心の中で名前を呼んで、ぎゅっと教科書を握り締める。
(このまま、話せなくなったら…)
そんなの考え過ぎだろうか、被害妄想かもしれない。でもそれくらい、私は……


「な、鳴子君…!」

話したい。また笑ってほしい。笑わせてほしい。そんな思いで大きく彼の名前を呼べば、その大きな釣り目がこちらに向けられた。友達は少し驚いたように足を止め、私と鳴子君を控えめに見つめる。


しかし。


「鳴子ー」

私が鳴子君に駆け寄ろうとした時、鳴子君のクラスから出てきた女子が気だるそうに語尾を伸ばしながら鳴子君の隣に立ったのだ。
(…――あ……)
明るくなりかけた世界が、また、少し、もやもやして。

「さっきの話なんだけどさぁ」

私に気付かず進められる彼女の話に、鳴子君も戸惑ったような顔で私を見た。その視線が少し怖くて、どうしようもなくなった。

「鳴子ー?聞いてんの?」
「えっ、あ……」

私に向けられていたその釣り目は、もう彼女に向けられてしまって。再びその視線が私に向けられる前に、私は友達の手を引っ張りながら走ってその場から立ち去った。また、彼から逃げてしまった。

「…なまえ?」
「っ……」
「なまえ、いいの?」

私を心配した友達がそう問い掛けてきたけど、私は無視して廊下を突き進む。
声なんか、掛けるんじゃなかった。


20150123