yubi | ナノ
 今日もいつものように音楽室でピアノを弾いていると、いつもより控えめにドアが開いて私は思わず手を止めた。
一瞬鳴子君かと思ったのだが、彼はいつもバーン!と効果音が付きそうなくらい思いきりドアを開けるからおそらく今のは先生だろう。そう思い、中に入ってくる人物に目をやればそこにいたのは鳴子君だった。

「…あ、あれ、鳴子君?」
「チーッス!」

ふざけたように笑ってピースサインを見せてきた鳴子君に私は拍子抜けしてしまう。ドアの開け方が、いつもの鳴子君とはまるで別人のようで。気にしすぎだろうか、少しだけ違和感を覚えた。

「また忘れものしたの?」
「や、今日はちゃう」
「えっ、じゃあ
「ここ来れば、みょうじさんおるやろな思て!」

なんで、と聞くより先に鳴子君は笑顔でそう言った。ちらりと八重歯が覗いて私は少し嬉しくなる。すると鳴子君は私が弾いていた楽譜をまじまじと見つめて「音符多っ!」と口に出して大袈裟に驚いていた。大阪の人って皆こういうリアクションをするのだろうか。
(だとしたらすごく楽しいんだろうな)

「みょうじさんいっつもこんなん見てピアノ弾くん?むっちゃ目ぇ疲れるやろ!」
「な、慣れればそうでもないよ。ほら、楽譜覚えちゃえば見なくていいし…」

そう言って楽譜のページをめくってみれば、鳴子君はポンっと手を叩いて自慢げに笑う。

「ワイも、ドレミの歌なら弾けるで!」
「えっ、そうなの?」
「どや?みょうじさんが聴きたい言うんなら弾いたるさかい」
「ほんと?じゃあ聴きたい!」
「まっかしとき!」
「ドレミの歌じゃなくて、猫踏んじゃったとか」
「!? お、おお……この際何でも弾いたるわ!」

(あ、ちょっと意地悪だったかな)
何だか自信満々の鳴子君が可愛くて少しからかってみたが、鳴子君の性格上「弾けないので無理です」という返事が返ってくるわけもなくムキになって椅子に座った彼に思わず笑いが零れた。鳴子君はすごく、可愛いところがあると思う。




 しばらく鍵盤を触りながら唸っていた鳴子君だったが、ついに諦めたのか
「だー!やっぱ弾けん!!」
と両手を上に上げて背筋を伸ばした。鳴子君は運動神経が良くてスポーツマンだけど、椅子にじっと座ってピアノを弾く作業は苦手らしい。私はそんな鳴子君を見て横から手を伸ばし、正しい鍵盤を人差し指でポンと押した。

「そこじゃなくて、ほら、こっち」
「!」
「ドの次は、ファで…」
「お、おん…」

鳴子君は私の指を追い、ぎこちない手つきで鍵盤を順番に押していく。

「そうそう。そしたら次は左手を、」

と続けながら鳴子君の左手に触れた時、鳴子君が固まった。一瞬絡まった視線。初めて見た鳴子君の表情に、私は思わず「え」と声を漏らしてしまう。

「な、鳴子君……?」
「わ……分かっとる、み、ミのシャープ…やろ」

なぜか露骨に顔を背けてそう言った鳴子君。しかもミのシャープじゃなくて、ファのフラットだ。私は行き場を失った手を引っ込めて、ぽかんと彼の横顔を見つめた。
(……触るの、嫌だった…かな)
思わず私も少し距離を取り、黙り込んでしまう。

「……」
「……」
「ご…ごめんね」
「…は……?」
「…わ、私、もう行かないと」

私の謝罪に顔を顰めた鳴子君に何を言われるか分からなくて、怖くて不安で逃げてしまった。嫌われたくないと思ってしまった。

勢いよくドアを開けて音楽室を出れば、廊下に誰もいないのを良いことに私は全力で教室まで走る。さっきの鳴子君の顔がまだ頭から離れていなかった。

(……鳴子君が、嫌がることをしてしまったかもしれない)

そんな罪悪感と後悔に押しつぶされそうになっていた私が音楽室に忘れてきた楽譜の存在に気付いたのは、それから少し経った時のことだった。


20150123