yubi | ナノ
 どうしてかは分からないけれど、あの日以来、鳴子君がやけに絡んでくるようになった。
廊下ですれ違った時は必ず声を掛けられて足止めをされるし、これは聞いた話だが何やら毎日音楽室を覗いているらしい。実際に音楽室で会うことが多いのだが、その度に鳴子君は「忘れ物を取りにきた」と言って机に置いてあるファイルやペンを手に取るのだ。それが本当に鳴子君の物なのかどうかは別として、ここまで"忘れ物"が多いとさすがに嘘だということが分かってしまうもので。


 いつもと同じような学校も、授業も、ピアノを弾いている時でさえ、あの日を境に私のあらゆる時間は大きく変わってしまった。
あの人が、今も私と同じ学校に通っている。その事実を知った時、あの人をこの目で見てしまった時、何よりも、嘘だと信じたかった。これは何かの間違いだと。それでもあの人が放った言葉を聞いて、もう後には戻れないのだと気付かされた。

「……なまえ…?」

久しぶりに聞いた声は、中学の時よりも少しだけ低くなっていて。でも喋り方とか、発音とかそういうのは全然変わっていなくて。大好きだったのに大嫌いになってしまった声は、今でも私の耳のどこかにはっきりと残っている。

 ふと、鳴子君に掴まれた腕が痛みを感じた。多分、鳴子君は怒っていた、と思う。私の何かが気に入らなかったんだろうな。それが何かはよく分からないけど。
結局あの日は保健室に行かず、あのまま教室に戻ってしまった。鳴子君が慌てたような顔をして私に背を向けたものだから呼び止める隙がなかったし、別に体調が悪いわけでもなかったから。



(……八重歯…、)
鳴子君の八重歯が好き。あの時とっさに、そう言ってしまった。ぐちゃぐちゃになった頭の中が整理されて、鳴子君が心配してくれて私を笑わせてくれて、思わず出た言葉がそれだった。

「鳴子君」

誰にも聞かれないように彼を呼ぶ。すると少しだけ安心してしまう自分がいて。それでもすぐに鳴子君をかき消して頭に浮かんでくるのはあの人の声。あんな形で、鳴子君に下の名前を知られたくなかったな。

(……そうだ)
ずっとしようと思っていた、拓斗先輩への連絡。私はブレザーのポケットから携帯を取り出して画面を開く。通話履歴から探せば、拓斗先輩の名前はすぐに見つかった。私は迷わず発信ボタンに触れる。


『もしもし』


四コール目で、気だるそうな声が聞こえた。

「なまえです」
『…どうしたの?何かあった?』

拓斗先輩がすぐに私を気にかけてくれるのは、中学の時からずっと変わらない。私は少し間を開けてから、また口を開いた。

「この前、自転車部の子と友達になりました」
『! ……へえ、』
「去年インターハイに出た、鳴子君です。知ってますか?」
『…うん、知ってる』
「……その子の先輩に、私の知ってる人がいたんです」
『!』

ぴたりと、拓斗先輩の声が止まる。生ぬるい風が頬を撫でた。私がぎゅっと携帯を握り締めて、ゆっくりと、はっきりと、拓斗先輩に問い掛ける。


「どうして教えてくれなかったんですか」


返事はすぐには返って来なかった。重たい沈黙が流れる中、私は拓斗先輩の言葉を待たずに言う。

「純太先輩、ちょっとイメージ変わってて吃驚しました」
『……、…ごめん』
「…べつに謝ってほしいわけじゃ、」
『ごめん』

ひどく掠れた声だった。

「……知ってたんですね、拓斗先輩は」
『何て伝えたら良いのか…よく分からなくて』
「…大丈夫です、もう」
『…俺のこと、嫌いになった、って意味?』
「違いますよ」

ちょっと笑いを混ぜてそう返すと、拓斗先輩はまた「ごめん」と零した。
拓斗先輩を責めたって、私とあの人――純太先輩が同じ学校に通っているという事実が変わることはない。そう思うと少しだけ、絶望感に似た"諦め"を感じた。

「そうじゃなくて……もう関わることは、ないと思うので」
『…そっか』
「はい」
『……なまえはそれで良いの?』
「え…?」
『あ、いや。…何でもない』

拓斗先輩の言った意味がよく分からなくて聞き返したけど、誤魔化されてしまって私もそれ以上詮索する気にはならずに薄く息を吐く。

『…ごめん、もう行かなきゃ』
「あ、すみません急に電話して」
『いや、大丈夫だから。それじゃあ…また』
「はい。また」

ぷつっと小さな音が鳴って、通話が終わった。私は耳に当てていた携帯をゆっくりと下ろし、空を見上げる。雨が降りそうな雲が浮かんでいた。
 色んなことを考え過ぎて、せっかく整理された頭がまたぐちゃぐちゃになりそうだ。それでもこの状況から逃げるわけにもいかないし、むしろ、上手く立ち向かっていかないといけないのかもしれない。この先どうなるかなんて私にはまだ分からないし考えるのも少し億劫だけど、今はただピアノが弾ければそれで良い。




 携帯をポケットにしまって地面を見つめると、鳴子君の顔がふと頭に浮かんで、無性に鳴子君の八重歯が見たくなってしまった。そういえば、鳴子君は「見たくなったらいつでも見せてやる」って言ってた気がする。だったら今すぐ見せてほしい。
しかし携帯の画面を見つめたところで鳴子君の連絡先など分からないし知らないし。そういえば私、鳴子君の部活と名前とクラスくらいしか知らない気がする。何かしら聞いたら答えてくれるだろうか。

(例えば、……メアドとか、電話番号、とか)


なんて。


 20140911