kirakira | ナノ
 俺は今、他クラスのドアの前に立ったまま動けずにいる。
そもそもの原因は、この折り畳み傘だ。傘くらい他の奴に借りれば良かったのではないかと薄々思いながらも結局名字に借りてしまったのが運の尽き。名字と知り合ってからやたらと絡む機会が多い気がするが気のせいだと信じたい。そんなことを考え始めてからもう二、三分は経っているだろう。

別に名字に会いたくないわけではない、と言うと嘘になるが正確に言うと"大勢の前で名字に会いたくない"。別に傘くらいヒョイと返してしまえばいい話なのだが、きっと、いや絶対にすぐ教室に戻れる気がしないのだ。そんなこんなで最後の一歩を踏み出せずにいる俺の元に、助け舟という名の悪魔が舞い降りた。

「…何してんの?」
「!」

後ろからいきなり声を掛けられて思わず振り向くとそこには見た事のある女子生徒が立っていた。
(こいつは確か……さ、…さや…さやっぺ?)
確か名字が友人だと俺に紹介してきた矢先に喧嘩して無事に仲直りを終えたという噂のさやっぺだ。

「ああ、いや……これ、名字に渡しておいてくれないか」

そう言って俺が傘を差し出すと、さやっぺはしばらくそれを見つめてから何やら口角を上げて「あぁ…」とまるで何かを企んでいるような不気味な笑みを浮かべる。何だこいつは。そう思ったのも束の間、傘を受け取る気配もなくにやにやと俺を見つめたままだったさやっぺが楽しそうに口を開いた。

「名字なら今呼び出しくらってるよ」
「…呼び出し?」
「今度は三年だってさ」
「…悪いが言ってる意味が
「だから告白されてんの」

お前人の話聞いてたのか?とでも言ってやりたくなるような奴だな。まあそういうところは多少名字に似ているような気もするが…ってそうじゃなくて。

「これを名字に渡しておいてくれ。話はそれだけだ」

そう言ってさやっぺに傘を押し付けて去ろうとすると、急にさやっぺが真剣な声で言う。

「名字が好きだから傘借りたの?」
「……は…?別に俺は、」
「ていうか、傘くらい自分で返しなよ」
「な、っ」

押し付けたはずの傘が手元に戻ってきてしまった。(最悪だ…)確かにこいつの言っていることは正しいが、別にこれくらい快く引き受けえてくれても良い気がする。俺の我儘だろうか。
しかし妙な誤解をされていることは大問題なため俺は少し強めの声で否定した。

「好きだったら傘くらい自分で返すに決まってんだろ」

と、その時、


「さわっちー!」

少し向こうの方から笑顔で走り寄ってくる名字の姿を発見してしまう。その瞬間俺は思わず逃げる体制に入った。これ以上ここに居ると面倒なことになりそうだからだ。
しかし現実は思うようにいかないらしい。

「あ!今泉君!」

最悪に最悪が重なってしまった。(しかも今"さわっち"って…)全然違うじゃないか誰だよさやっぺって。
 そんなくだらないことを考えているうちに名字がさやっぺ改めさわっちの隣に立つ。よく分からないがとりあえずあまり良い状況ではないのは理解できた。早いとこ傘を返して教室に戻ろう。そう思い傘を差し出して「これ、サンキュー」とだけ付け加える。すると名字は嬉しそうに笑って言った。

「どういたしまして!今泉君はこの後部活?」
「あ…ああ」
「そっか。頑張ってね」
「ああ…サンキューな」

名字の笑顔はいつも通り、声も、喋り方も何ひとつ変わらない。それなのにどこか余所余所しいのは何故だろうか。少し疑問に思ったが、あまり気にせずに名字から視線を逸らす。

「それじゃあ今泉君、またね」

最後にそう言って名字はさわっちの手を引っ張りながら教室に戻って行った。そんな二人の後ろ姿を見つめながら、少しだけ、唖然としてしまう。
(あいつ…あんな奴だったか?)
名字とは二人きりで話す機会が多かったからさわっちを交えて会話をするのは初めてだった。だからだろうか。今まではしつこいくらい絡んできたっていうのに、今はあんなにあっさりと俺の元から離れていったことに違和感を覚えてしまう。

 一応あいつも、気にしているのだろうか。見た感じだとさわっちとはかなり仲が良さそうに見えるがそれでもオタクというのは隠している…らしい。

(……分からん)

俺もいい加減他クラスの前で立ち尽くすのは止め、教室に戻った。もどかしいようなそんな気持ちを抱えながら歩く廊下は、いつもよりほんの少しだけ長く感じる。


「名字が好きだから傘借りたの?」

鬱陶しい質問がまた頭に響いた。好きだとか嫌いだとか、名字はそういうんじゃない。じゃあ何なんだと問われると自分でもよく分からないが、一つだけ言えるのは名字と俺の距離がいかに遠いかということだ。
 最後に見た名字の控えめな笑顔が、まだ瞼の裏に残っていた。


 20140901