mitei | ナノ
 放課後になると、やっぱり名前さんは御堂筋さんの走りを観に来た。
ボクは手を洗い、自転車に乗る準備をする。いよいよ自転車で走り出そうとした時、ふと名前さんの方に目をやると、どういうわけか目が合ってしまった。ボクは思わず足を止めて名前さんを見つめ返す。
(…何してるんだあの人は)
肝心の御堂筋さんが自主練に行ってしまったからだろうか。何やら口をパクパクと動かしてボクに何かを伝えようとしているらしい。その口の動きをよく見ると、どうやら名前さんはボクに"頑張れ"と言っていた。

「…言われなくても頑張りますよ」

心の中でぼやいたはずの言葉が口に出てしまう。
どう反応したら良いのか分からず、それを誤魔化すようにもう一度グローブを整えてハンドルを握った。足を踏めば、もう周りなんか目に入らない。




 練習が終わると先輩たちはさっさと部室に戻り、着替えやら帰る支度やらに取りかかる。御堂筋さんはあと一周だけ走るらしい。ボクも先輩たちに続き、部室に入ろうとした時だった。

「お疲れ様、小鞠君」
「! …ああ。ありがとうございます」
「小鞠君、すごいんだね」
「何がですか」
「自転車だよ!」
「……ありがとうござます」

こうもキラキラとした目で褒められると、何て言ったらいいのか分からなくなってしまう。ボクは名前さんから目を逸らして、その鞄に付いているテニスラケットのストラップを盗み見た。

「今日の鞄、重そうですね」
「あ、うん。クラスの子の課題、代わりにやるように頼まれちゃって。使う教材が多いから今日はちょっと重いの」
「…また頼まれたんですか」
「四人分くらいすぐに終わるし、私、学級委員だからできることはなるべくやってあげたいんだ」
「四人分って…そんなすぐ終わるわけないと思うんですけど」
「大丈夫だよ」

(何を根拠に言ってるんだ…)
この人は、きっと、へらへら笑って引き受けたんだろうな。というより自分の課題くらい自分でやったらどうなんだ。そんなくだらない頼みを易々と引き受ける名前さんも名前さんだけど。お人好しというより馬鹿なんじゃないか、この人。
 ボクは呆れたような溜め息を吐き出して、名前さんに言う。

「あの、紙ありますか」
「え?あ、うん、あるよ」

名前さんは不思議そうな顔でそう言うと、すぐに鞄から紙を取り出してボクに手渡した。ボクはそれを受け取り、そこにボールペンで携帯の番号を書き込む。

「これ」
「! …電話番号…なんで急に?」
「その課題、どうせ一人で夜中までやってるんでしょう」
なぜ自分がこんなことをしているのか、よく分からない。
「暇だったら電話して下さい」
「えっ、いいの?」
「はい。十一時以降なら自主練も終わって暇なので」
ああ、そうだ。ボクはこの人に、同情しているんだ。
しかし名前さんは嬉しそうに笑う。僕は何故かその笑顔を直視できなかった。

「あ、ありがとう、小鞠君!」
「! ……いえ。ていうか、」
ボクは片手で髪を整えながら名前さんを横目で見た。名前さんはすごく嬉しそうな、照れたような顔をしている。そんなに嬉しいのだろうか。(…たかが電話番号を教えただけなのに)それともボクが冷めているだけなのか。
 ふと部室のドアに目をやれば御堂筋さんが中に入っていくのが見えた。

「御堂筋さんのところ行かなくて良いんですか」
「あ、うん。そうだね。じゃあ、お疲れ様、小鞠君」
「はい。また」

名前さんは最後まで笑顔を絶やすことはなく、御堂筋さんのもとへと走っていく。そんな後ろ姿を見つめながら、ボクは、薄く息を吐いた。
(十一時以降…か)
電話、掛かってくるだろうか。あの人すごく鈍感でアホそうだから、家に帰る頃には電話のことを忘れていそうだ。そんなことを考えながら、ボクも部室に入って行った。


 20140619