mitei | ナノ
 御堂筋さんの走りを、よく観に来ている人がいた。
その人は練習が終わるまで、例えるならば飼い主を待つ犬みたいにジッと御堂筋さんを待っている。毎日毎日、飽きることなく真っ直ぐな瞳で御堂筋さんを見つめながら。
それが御堂筋さんの幼馴染だと聞くまでは、てっきり彼女か何かかと思っていた。御堂筋さんと同じ二年生で、名前は名前というらしい。御堂筋さんがそう呼んでいたから。

(…今日も来てる)

今日は朝からぱらぱらとした雨が降っていたから、来ないかと思っていた。赤い傘を広げながらいつもの場所に立っているあの人は、今日もまた御堂筋さんだけを見つめている。よくもまあ一日も欠かさず来れるもんだ。あの人にとってボクが眼中に無いのと同じように、ボクもあの人は眼中に無かった。

 しかし自分がいつ誰とどういうキッカケで接触するかなんて自分には分からないし、避け様がない。つまりボクが今あの人に声を掛けざるを得ないというこの状況も、避けることができないのだろう。

「…テニスラケット?」

練習が終わりあの人が御堂筋さんの元へと駆け寄った拍子に、あの人の鞄から何かが落ちたように見えた。ボクは何となく傍に行きそれを拾ってみると、それは黄色いテニスラケットの形をした小さなストラップだった。
 正直、ボクがわざわざあの人に声を掛けてこれを渡すのも変な話だ。御堂筋さんに渡しておけば良いだろう。しかし。何となく、本当に何となく、これはあの人にとってものすごく大事なものなような気がした。

仕方がない。


「あの」

今までずっと視界に入るだけだった人に声を掛けるのは、何だか複雑な気分だ。ボクの声に気付き振り返ったその顔を、ボクは初めて間近で見た。整ったパーツ、少しばかり八の字になった眉と垂れ目、筋肉なんてほとんど付いていない細い手足。少し触れるだけで壊れてしまいそうに脆い体だと思った。
 なかなか話を切り出さないボクに戸惑っているのか、その小さな口からボクを急かす声が漏れる。

「な、何かな」
「これ、落としましたよ」

彼女はボクが手に持っていたストラップを差し出すと、「あ!」と驚いたような声を上げて自分の鞄を確認した。そして慌ててストラップを受け取る。初めて聞いたこの人の声は、想像していたのと少し違った。もっと甲高い声かと思ったら、わりと落ち着く声じゃないか。

「ありがとう、これ、すごく大事だから…」
「そうですか。良かったです」
「う、うん。…一年生の子だよね」
「はい、小鞠っていいます」
「そっか、ありがとう小鞠君」

そんなに大事なものなのだろうか。ストラップを握り締めたままポケットにもしまわずにボクに頭を下げた彼女を見て、そんな疑問が頭に浮かぶ。

「…御堂筋さんの、幼馴染なんですよね」
「あ、うん。そうだよ、よく知ってたね」
「本人から聞いたので」
「そうなんだ」
「はい」
「あ、私、名字名前です」
「名前さんですか」
「! あ、うん、それでいいよ」

そう言って笑った名前さんの目に、初めてボクは映っただろう。今まで御堂筋さんしか見ていなかったというのに、こんなキッカケでこの人の目に自分が映るとは思ってもいなかった。
 お互いに話す内容も尽きたようで、ようやくストラップをポケットにしまった名前さんが言い掛ける。
「それじゃあ私そろそろ」
透き通った声が少し悪いテンポで耳に届いた。しかしボクはそれを遮り、半分背中を向けた名前さんを呼び止める。

「テニス」
「え?」
「それ、テニス、やってたんですか」
「――……!」

ぴたり。名前さんの足が止まる。形の良い薄桃色の唇が、微かに震えたように見えた。

「……あ…」
その場が一気にシンと静まる。しかしすぐに笑顔に戻った名前さんは「やってないよ」とだけ言って御堂筋さんの元へと走って行った。
 静かすぎる雨の中ひとり取り残されたボクは、自分の掌を眺めながら黄色いテニスラケットのストラップを思い出す。テニスをやっていないのなら、どうしてテニスラケットのストラップなんか持っているんだ。それも、あんなに大事そうに。

「…よく分からない人だ」

せめてボクの発した「テニス」という単語にひどく反応した理由くらいは知っておきたかった。まあ別に良いんだけど。きっと明日になれば忘れているだろうし。




もしもの日



 20140616