100000 | ナノ





 名前は俺を好きだと言った。でも俺は別に名前のことなんか好きじゃなくて、そうだ例えるならば隣のクラスの三津木さんの方が綺麗で可愛いと思う。名前が綺麗じゃないわけでも可愛くないわけでもないが、俺は名前を好きにはなれなかった。

「幸村君、好き、好きだよ」

でもそんな俺の気持ちなど知らない名前は今日もどこか切なそうな顔で俺に好きと言う。彼女はきっと馬鹿なのだろう。馬鹿みたく純粋で汚れのない、俺とは全く違う世界で生きてきた人間なのだ。俺はそっと名前の頭を撫でて、笑う。名前は顔を赤らめて小さく俺の名前を呼んだ。

「幸村君」

聞き飽きた声が、耳にじんわりと滲むようにして俺の中に溶けていく。彼女の声は、何だか砂糖みたいだ。熱い期待を注いでやれば嫌がることなくすぐに溶けて、俺を疑おうともしない。そんなんだから駄目なんだよ、君は。

「俺は君のこと好きじゃないよ」
「え?」

初めて名前の顔から幸せが消える。何だ、こんな顔もできるんじゃあないか。やっぱり彼女は何も分かっていなかったのだ。俺を疑おうとしないから、こんな絶望を感じる羽目になる。全く馬鹿みたい。どうしてそんなに馬鹿なの?という意味を込めてにっこり笑ってやれば、名前は涙ひとつ見せずに「そっか」と零した。あれ、何だか想像と違う。まあいいや、これで名前が離れていくなら。

「私は、好きだよ」

名前はそう言って嬉しそうに笑った。あれ、違う。俺が思っていた反応と違う、俺が求めていた言葉と全然違う。どうしてそんなに嬉しそうに笑うんだ。どうして、まだ俺の手を握っているんだ。
そんな俺のごちゃごちゃした思考回路などぶった切るように、名前は言った。

「捨てるなら、また拾ってね」
「…名前」
「幸村君にはたくさん女の子がいるけど、私には幸村君しかいないの」
「君は、馬鹿なんじゃないかな」
「幸村君が私をこんなに馬鹿にしたんだよ」

皮肉っぽい言い方だけど、名前の目は決して俺を嫌いになどなっていない。緩く閉じられたその口は、今すぐにでも俺に「好き」と言いたげだった。
ここで初めて、名前の手がゆっくりと離れていく。空っぽになった俺の手はだんだんと温かさを失い、やがて冷えてひどく寂しくなった。おかしい。俺は、名前をどうしたかったんだろう。捨てて、泣かせたかった。幸村君なんか大嫌いと言わせたかった。それなのに名前は、泣くどころか笑顔でまた俺に好きと言う。

「好き。大好き。私、ずっと待ってるからね。幸村君が拾ってくれるまで、どこにも行かないよ」

その言葉が嘘か本当か、俺は疑った。だから俺は、それが本当なのか確かめたくなってしまう。ああ、これでは何も変わらない。こんなんじゃ、俺は一生彼女を捨てることができないじゃないか。
俺は苛立ちを抑えきれずに名前に言い放った。

「君なんかいらない」



だけど君には俺が必要なんだ。




 20140129
幸村精市*捨てるようで捨てられない



- ナノ -