unubore | ナノ
 リンコが伊丹君に睨まれたと口にした日からしばらく経ったが、あれから私は伊丹君を見かけなくなった。
私はずっともやもやしたまま過ごす日々がひどく退屈に感じて、いっそのこと伊丹君など忘れてしまいたくなる。そうだ、そもそも彼は私たちジェノックからして見れば敵なのだ。
(でも、私からして見れば、何なんだろう)
そんなことを考えているとアラタがまたハルキに叱られているのが聞こえてきて、思わず苦笑する。

「またやってるよ、アラタのやつ」
カイトがまるでアラタを馬鹿にするように笑った。そんな風景も、いつも通りだ。いつも通りのジェノック。だけど、私はいつも通りの自分ではなかった。
(何かが、おかしい。何かが足りない)
ジェノックにはリンコがいる。ハルキもユノも皆いる。それなのに私は、心のどこかに空いた穴に気付いて頭を抱えた。おかしいんだ、足りないんだ。でもそれが何なのか、分からない。
 ここ数日ずっと考え事をしていたせいか、ひどい頭痛に襲われた。

「いっ、つ……」
「まこ?大丈夫?」
「あ、ああ、ユノ…」
「具合悪いの?」
「うん……ちょっと、保健室行ってくるね」
「分かった。でも一人で行ける?」
「…うん、大丈夫だよ」

心配そうに私を見つめるユノに笑顔を見せて、私は教室を出る。
 ぴしゃりとドアを閉めてもアラタの元気な声がまだ聞こえた。(アラタは本当に、元気だなぁ…)本当に羨ましい。私はがんがんと叩きつけられるような痛みに耐えながら保健室へと向かった。


「失礼します…」

控えめにノックをしてから保健室のドアを開けると、どうやら日暮先生はいないようだ。きっと職員室に行っているのだろう。私は保健室に入り、ゆっくりとドアを閉める。先生が戻ってきたら説明するとして、とりあえず今は一刻も早く身体を休めたい。
ふらふらと不安定な足取りで一番近くのベッドに倒れ込む。その衝撃にギシリとパイプの軋む音がした。
(静かだ……)
誰もいない。私しかいない。少し寂しいけど、すごく落ち着く。私はだんだんと意識を手放して、ついに眠りに落ちた。
(このまま、何も考えずに……)
起きた時には、心に空いた穴が埋まっていればいいのに。







「――…、」

 誰かの、声がする。(…歌って、る?)決して楽しそうではない鼻歌が耳に入り込んできた。まだ意識がはっきりとしない。(今、何時だろう…)重たい瞼を開けて時計を見ようとしたその時だった。さっきまでうっすらと聞こえていた鼻歌が途絶えて、心地の良い低音がしっかりと耳に届く。

「起きたか」
「!、っ」
そんなまさか。この声は、

「い、…伊丹、くん…」

眠気が一気に吹っ飛んだ。慌てて上半身を起こすと、私が寝ているベッドに腰を掛けてこちらを見つめている伊丹君の姿があった。私はどういうことかと目を丸くする。久しぶりに見た伊丹君の顔が、薄い笑みを浮かべていた。

「ひでぇ面だな。疲れ溜まってんのか?」
「え、っあ……」

どうやら寝顔を見られていたようだ。恥ずかしくて顔に熱が溜まる。人の寝顔を勝手に見るなんて酷いじゃないかと言ってやりたかったが、どうしてか伊丹君の顔を見ると今までのもやもやが消え去っていくような気がしてならなかった。伊丹君は、不思議な人だ。

「伊丹君、癒し効果があるってよく言われない?」

そんなことを聞いてみたら伊丹君に呆れたような顔で「何言ってんだお前」と言われてしまった。やっぱり伊丹君はちょっと、いやかなりぶっきら棒だ。クールと言った方が良いのかもしれないが。(でもなんか、クールってのもなぁ…)違う気がする。

「おい、聞いてんのか」
「えっ?」
「疲れ溜まってんのかって聞いたんだよ」
「つ、疲れ?ああ…うん、ちょっとだけ。でも大丈夫だよ」

(伊丹君の顔見たら、元気になったし)
それはあえて言わずに心の底に留めておいた。
すると伊丹君は「ふーん」と私から顔を逸らしてそう返す。伊丹君の横顔があまり興味なさそうな顔に見えたから私は何だか寂しい気持ちで目線を下げた。伊丹君はそんな私を無視してポケットに手を突っ込む。(ああ、これは)やっぱりそうだ。伊丹君はポケットからキャンディを出して包み紙を剥がす。それを口に含んでから、ちらりと私を見た。相変わらず、目付きが悪い。

あ、そういえば私は大事なことを忘れていた。あの日リンコが言っていたのは本当に伊丹君だったのか聞かないと。

「ねえ伊丹君、」
「何だ?」
「この前ね、私の友達が言ってたんだけど…」
「"リンコ"」
「!えっ、」

私は思わず驚きを隠せない顔で伊丹君を見つめた。伊丹君は口角を釣り上げて笑っている。(な、何で…)伊丹君はロンドニアの情報収集担当か何かなのだろうか。あまりに何もかもを知っているように思える伊丹君を私は少しだけ恐ろしく感じた。すると伊丹君はまるで私に跨るようにベッドに手を置いて、顔を近づけてくる。

「っ、い、伊丹君…?」

吃驚して逃げようとするといきなり腕を掴まれてそのままベッドに押し付けられてしまった。(な、なに、)恐怖に襲われながらも伊丹君を見つめれば、彼は今まで見せたことのない顔を見せる。

「お前、あいつのこと好きなんだろ」
「! ……なん…で…?」
「顔に書いてあったぜ」
「っい、いた
「マジな奴、初めて見た」
「!!」

伊丹君を呼ぼうとしたのに、それはあまりにも残酷な言葉に遮られてしまった。
(マジな、やつ……?)きっと伊丹君は、私を気持ち悪いと思っただろう。幻滅しただろう。同性愛なんて、理解してくれる方が珍しい。そんなの分かっていたけれどいざ伊丹君にこんな顔をされると、ひどく悲しくて。私は気付けば涙を溢れさせていた。

(やだ、いやだ、)

「っきら、…らいに、ならな、で……」
「!」

伊丹君は少し驚いたような顔を見せる。この顔も、初めてだ。

(嫌いに、ならないで)
どうして私が好きなのはリンコのはずなのにこんなにも伊丹君に離れてほしくないのだろう。



 20140118