unubore | ナノ
 ――ガラッ
荒々しい音を立てて保健室のドアを開けると、その音に驚きこちらを見た日暮先生が珍しく戸惑ったような声で言った。

「日辻…?どうした、また具合でも
「伊丹君っ…伊丹君いますか…!?」
「! …ああ、あいつなら今日は来てないぞ」

それより日辻、と続けてまた何かを言おうとした日暮先生の言葉を最後まで聞かず、私は「失礼しました」と逃げるように保健室を去る。それと同時に授業の始まりを知らせるチャイムが鳴った。
「あっ、おい、日辻!!」
無我夢中で走っているからあまり頭には入らなかったけれど、きっと、後で怒られるんだろうなぁ。廊下は走るなだとか、何しに保健室に来たんだとか、考えるだけで気が重くなる。でも今は、彼がいるであろうあの場所へと走るので精一杯だ。
(保健室にいないなら…きっと、あそこだ……!)



 ひたすら階段を駆け上がると、そこにはすぐに到着することができた。
古びた鉄のドア。今にも壊れそうなのに何故か壊れないドアノブ。重そうなドアは以外と簡単に開けることができて、私は、大きく息を吸い込んだ。

「伊丹君…!!」

大きな声で彼を呼ぶと、返事は聞こえてこなかった。すぐ真上に大きく広がる空は、少しだけ曇っている。私は、屋上へとやってきた。
 キョロキョロと周りを見渡して伊丹君を探す。しかし姿は見当たらない。どうやらここにはいないのかもしれない。そう思い次に思いつく場所へとまた走ろうとしたその時、

「優等生が授業サボって何しに来たんだよ」
「!!」

雨水タンクの裏から、求めていた声が聞こえた。

「……伊丹、くん……」

私は唖然と立ち尽くす。まさか伊丹君から声を掛けてくれるなんて思わなくて、少し動揺していた。しかし雨水タンクの裏からやっと姿を現した伊丹君は、ひょいと私の真横まで飛び降りて、睨むわけでもなく、しかしやけに怖い顔で私を見つめる。

「…伊丹君、」
「そんなに呼ばなくたって聞こえてんだよ、クソチビ」
「なっ…!?」

伊丹君の挑発に思わず乗ってしまいそうになったが何とか堪えてぎゅっと両手で拳を作る。昨日の伊丹君の言葉を思い出しては、顔が赤くなっているような気がして少し恥ずかしい。(私は…、っ)
『俺が女だったら良かったのかよ…!!!』
あの言葉の本当の意味を、知りたいんだ。

「昨日、言ってたこと…」
「!」
「お、女だったら良かったって、どういう……――ッ、!?」

どん。最後まで言い終える前に背中に鈍い痛みが走る。何が起こったのか分からずに、反射で強く瞑った目をゆっくりと開いてみれば目の前には眉間に皺を寄せて呆れたように私を睨む伊丹君の顔があった。
「っ、え、」
気付けば両手首を掴まれたまま壁に押し付けられていたため、抵抗することができない。普通ならこんな状態にドキドキしてしまうのだろうけど、今はただ驚きと焦りが頭を一杯にしていた。

「てめェ……」

伊丹君が私の手首を強く握り締めて、低い声を出す。びくり、恐怖に肩が揺れた。

「い…伊丹く、」
「あんだけ言ってまだ分かんねえのかよ…!」
「…えっ」

私がまた目を丸くすると、伊丹君は遂に呆れ切ったような顔をして私の手首から手を離す。そして今度はゆっくりと、優しく私の体を抱き締めた。
(…!!?!?)
冷え切っていた体が伊丹君によってじわじわと温められる。密着した体は、まるで恋人同士のようなものを想像してしまい恥ずかしくて溜まらない。どうしてこんなことになっているのか、どうして今日の伊丹君は昨日よりも優しい(ような気がする)のか、そんな疑問ばかりが頭をぐちゃぐちゃにした。

「待っ、え、あ、あの、伊丹君…!?」
「うるせえ、騒ぐな、レズ」
「っそ…それ…!!」
「…は?」

私が少し強めに伊丹君の体を押し返すと、伊丹君の体は案外簡単に離れていった。伊丹君が少し驚いたような顔で私を見つめている。私はあまりの緊張のせいで乱れた呼吸を直す暇もなく、叫ぶように言い放った。

「わ、わたし、ちがう…っ私が好きなのは、ちゃんと、男の子だよ…!」
「、!!」

伊丹君の目が見開かれる。私はゆっくりと呼吸を整えながら、伊丹君を見つめた。
(そうだ、私は、私の好きな人は……)
ぎゅ、と強く歯を食いしばる。ようやく自分の気持ちをハッキリさせることができた私は、私よりも背の高い伊丹君を見つめたまま、薄く口を開いた。

「私の好きな人は
「黙れ」
「、え…?」

私の言葉を遮ったのは、ひどく暗く、苛立ったような冷たい声。それが伊丹君の声だと理解するには少しだけ時間が掛かって、私は思わず体を強張らせた。
「い、伊丹君…」
「お前の好きな奴の名前をわざわざ俺に教えたって意味ねえだろうが」

今度は不貞腐れたようにそっぽを向いた伊丹君に、私はどうしたら良いのか分からなくなってしまう。伊丹君は、勘違いをしている。きっと私の好きな人が伊丹君ではないと思ってるんだ。
(っ…だったら……)
私は伊丹君の両肩を思いきり掴んで、背伸びをする。伊丹君もさすがに驚いたのか、よろけて少しだけ頭を下げた。その隙に、伊丹君の唇に自分の唇をくっ付ける。伊丹君の唇は、少しだけ柔らかくて、生ぬるいものだった。

「ッ、な、にして…!!」
勢いよく私の腕を掴んだ伊丹君を無視して、私はもう一度キスをする。伊丹君はもう驚いて声も出ないのか、私を見つめたまま固まってしまった。
 ――今まで散々私に無理矢理キスしたくせに。
そんな文句を心の中で零し、私は伊丹君を見つめ返す。静かになった屋上に、ふわりと優しい風が吹いた。いつの日かアラタが言っていた言葉を思い出す。

『俺は、別にどうもしないぜ。だって好きなんだから、どうしようもないだろ!

だからまこも、別にどうしなくても良いと思う』


アラタの言う通りだ。私は今までずっと下らないことにばかり拘って、自分の気持ちに素直になることをしなかった。それは伊丹君に酷いことをされてきたからというのもあるけれど、でも、私はもう…

「伊丹君」

つまらないことで泣くのも、いつまでもうじうじ悩むのも、伊丹君とすれ違うことも、したくない。好きになっちゃいけないだとか、好きなわけがないだとか、そんなの誰にも決められない。だって"好き"になったら、きっともう止まらないんだ。


「伊丹君が好き」



 いつの間にか私もゲームの敗者になっていた。


 20140418