unubore | ナノ
「それ、どうしたんだい」
「え?」

 次の授業は移動教室だったため、キャサリンたちと一緒に教室を出た時だった。反対のドアから出てきたカイトが私に声を掛けてきたのだ。私はキャサリンたちに「先に行ってて」と伝え、カイトに向き直る。

「どうしたって、何が?」
「手の甲」
「…手の甲?」
ふとカイトが私の手をじっと見つめているのに気付き、その視線を追い自分の手の甲を見た。するとそこは微かに赤くなっていて、私は昨日のことを思い出してしまう。

『俺が女だったら良かったのかよ…!!!』


「…昨日、ちょっと転んじゃっただけだよ」
「どちらかというと叩かれた様に見えるけど」
「……」
カイトの鋭い視線が降り注いだ。私は思わず逃げるように目を逸らして赤くなった手の甲を隠す。(…事実を言ったって、どうせカイトには関係ないんだから)だったらわざわざ"男に叩かれた"なんて言っても面倒なことになるだけだろう。

「本当に、転んだだけだよ」

私を疑って止まないカイトにそんな嘘をついても無駄だというのは分かっていた。でもせめて、信じていないとしてもそこは「そうか」とか適当な言葉で流して欲しいのに。騙されたフリすらしてくれないカイトは私の腕を掴み隠していた手の甲を引っ張り出した。

「…あいつにやられたの?」
「! …あいつ、って…」
「ロンドニアの坊主頭」
「っ、 離して。カイトには関係ないから」

少し冷たくカイトを突き離してキャサリンたちを追いかけようとしたのだが、それはカイトの言葉によって阻止された。

「まこが好きなのは、リンコじゃないんだろ」

浮かせた足をまた地面に付けて私は固まる。カイトの言っている意味はすぐに理解できた。でも、違う。私が好きなのは……

「リンコだよ」
「違う」
「ッ… カイトに何が分かるの…!」
「君を見てればすぐに分かるさ」
「、」

カイトはまるで私を馬鹿にするように笑って、一歩二歩と私に近づいた。そして無表情で私を見下ろす。

「リンコに嘘をついたあの時、本当は心の中で絶望したんじゃないのかい」
「! ……ぜつ、ぼう…?」
「リンコはまことは違う」
「、っ……そ、それは
「自分でも分かってるよね。リンコへの恋なんてもともと実るわけがないんだって」

崖の底へと突き落とされるような気分だった。目の前に立つカイトが、まるで高くて超えることのできない壁のようで、私はぎゅっと唇を噛み締める。赤く腫れた手の甲が、今になってジンジンと鈍い痛みを覚えた。伊丹君に手を払われた時、私はすごくショックだったんだ。リンコは私とは違うと分かった時よりも、ひどく辛くて悲しかった。でもそれは、ただ単に人から拒まれたことにショックを感じたのであり決して相手が伊丹君だからなんてそんな理由ではない。そう、そんなはずがないのに。
(私はあの時……)
 確かに、伊丹君に触れたいと、彼には笑っていてほしいと思ってしまった。


「……できるわけ、ないよ…」
「!」
「っ…伊丹君を好きに、なるなんて……」

できるわけがない。そう言おうとしたのに、カイトがいきなり私の腕を掴んで強く引き寄せたから声が詰まって最後まで言うことができなかった。ぼふんとカイトの胸に飛び込む形になってしまったかと思いきやそのまま強く抱きしめられる。訳が分からなくて抵抗すらできずにいると、カイトが静かな声で言った。

「今、ドキドキしてるかい?」
「え…?」
「こうして抱きしめてる僕のことを、意識してる?」
「……、」

してない、というと嘘になる。けれど決して意識しているわけではない。確かにこうされるのは恥ずかしいし吃驚して焦るけど、それでも、頭に浮かんでいる人物が消えることはなくて。
(…そうだ、ハルキにキスされた時も、そうだったんだ)
ずっとずっと伊丹君のことばかりが頭をよぎって、ぐるぐる回っていて、どうしようもなかった。どんなに"リンコが好き"と自分に言い聞かせても、伊丹君が消えることはなかったんだ。

「それが君の答えだよ」
「…答え……」
「何度も言わせないでくれるかな」

カイトはそう言ってスッと私から離れていく。ひゅう、とどこからか入り込んできた風が身体を撫でた。昨日の伊丹君の声がまた頭に響いて、自然と涙が頬を伝う。

『テメェに何が分かるんだよ!!』


「………わた、しは…っ」
「!」
私はジンジンと痛む手の甲をぎゅっと抑えつけて、俯いたまま声を絞り出した。

「私は…伊丹君のこと、なにも知らない…」
「じゃあ知れば良いんじゃないの」
「!」
「知りたいと思うなら知ればいい。そうだろ?」
「…カイト……」
「そろそろ授業始まるから僕は行くよ」

カイトは「それじゃあ」とだけ言ってスタスタと去ってしまった。私はしばらくその場に立ち尽くしていたけど、すぐに走ってカイトを追いかける。
(知りたいと思うなら…知ればいい)

 私は伊丹君の気持ちなど、気付こうとすらしなかった。ただいつも分からないままで、一人で勝手に悩んで泣いて。伊丹君があんなに苦しそうな声を出したのは、あんなに痛々しく叫んだのは、私が伊丹君のことを何も知らずに自分ばかりが傷付いていると思い込んでいたからではないか。

(伊丹君は、よく分からない人じゃない…っ)


 私が、分かろうとしていなかったんだ。


 20140318