AIkurushii | ナノ
「君は、父子家庭なんじゃないかな」


 衝撃というほどの驚きは、なかった。
ただ感じたものは、"呆気"と"静寂"。無声映画みたく何の音も聞こえない部屋に時折聞こえてくる、外の騒音。皆帆は、これ以上もう何も言わなかった。ただ私を見つめて、私が頷くのを待っているようだ。

「……、…」
 声が出ない。
まるで声帯が固まってしまったかのように脳からの指令を受け付けずにいた。
瞬きを忘れて開きっぱなしの目からは馬鹿みたいに涙が溢れ、皆帆はそれを見て少しだけ悲しそうな顔をする。
(皆帆、は、)

「……から、」

必死に絞り出した声は掠れていて恥ずかしかったけど、今はそんなの気にもならなかった。

「…いつから、気付いてた、の」
「、」

こんな皆帆の顔は初めてだ。きっと皆帆も、同じことを思ってるのかな。

「もう、忘れたよ」

皆帆はそれだけ言って、すっと私の肩に手を伸ばした。
何をされるのかと目を瞑って体を強張らせれば、掴まれた肩がグイッと皆帆の方に引き寄せられる。(、え…?)
 ふわりと、私の世界が皆帆の匂いで一杯になった。
覚えのあるこの感覚。皆帆に抱きしめられるのは、これで二回目だ。

「…みな、ほ」

未だに掠れた声で皆帆を呼ぶと、皆帆は「悲しみを、感じたことはあるかい?」と尋ねてくる。皆帆の言った"悲しみ"はきっと、"母親を失った悲しみ"のことだろう。私は「わからない」と答えて、皆帆の胸を押す。
(悲しみ、なんて、)
 それなりの年齢になった時、改めてお父さんから"お母さんの死"を知らされた。その時の私はもうお母さんが死んだことをきちんと理解してこれから自分がやるべきことを理解した。だけど、悲しみというのは、少し違う。違うのに、こうして皆帆に尋ねられてしまうと今までのお母さんに対する感情の全てが"悲しみ"だったのではないかと思ってしまった。

「……離し、て、」

 背中に回った腕が今の私にとってはあまり良いものではなくて、私は静かに皆帆にそう言った。
しかし皆帆は私を離そうとせずに、口を開く。

「僕は、悲しかったよ、すごく」
「、 え……?」

一瞬、皆帆が何を言ったのかよく分からなかった。しかし脳がその言葉の意味を理解した時、胸が締め付けられるように苦しくて、私はただ唖然と皆帆を見つめる。皆帆が悲しそうに笑って、言った。


「僕のお父さんも、僕が幼い頃に死んでしまったんだ」




 ――呼吸が、止まる。初めて知ったその事実に、まるで頭を強く打たれたような衝撃が走った。
(そん、な、)
皆帆が、母子家庭だったなんて。

「………ご、めん」

ぽつりと謝罪の言葉を口にして、私は皆帆と目を合わせる。すぐ目の前にある皆帆の顔が、悲しみで歪んだ気がした。

 きっと、どうせ、皆帆も私に同情するのだと思った。今まで何人もの人に"かわいそう"と言われてきたけど、私はそれが死ぬほど嫌だったのだ。何もできないくせに、私やお父さんの気持ちなんて何も知らないくせに。そんな汚い心ばかりが自分を支配していって、恐怖に涙したこともある。

 だけど、皆帆は、同情もしなければ私の気持ちを知らないわけでもなかった。

「……悲しいから、泣いているんだよね」
「!」
「さっきからずっと、そんな顔をしているよ」

今まで、我慢してきたんだね、と。耳元で優しくそう言われて、私の涙はまるで栓が抜けたかのように次々と溢れてきた。

(お母さん、おかあさ、ん、)

ずっと、泣いてしまいたかった。だけどお父さんの涙を見てしまっては自分が泣くことが許されない気がして、抑え込んできた。大丈夫、大丈夫だから、と、そんな言葉で自分を慰めて、ただ絵を描いては心の穴が埋まったと思い込ませて。失った"母親"という名の愛情を、求めることすら忘れてしまっていた。

 ぽんぽんと優しく背中を叩かれて、皆帆の体温を実感させられる。

「っみな、ほ、っみなほ、ぉ…っうあ、あぁ、っ…!!」

さっきまでは離してほしいとまで言ったのに、今度は私が皆帆から離れることを忘れて必死に皆帆に抱きついて涙を流した。喉はもうカラカラに枯れてしまって、使いものにならない。それでも皆帆の名前を呼んでいたくて。

「今まで、よく耐えたね」

 皆帆のその言葉に、少しだけ心の穴が埋まった気がした。













「本当に、ありがとう」

心の底からの感謝の言葉に、皆帆は少し照れくさそうに笑った。

 皆帆は私が泣きやむまでずっと、傍から離れないでいてくれたのだ。気付けばもう午後の練習が始まっていて、マズイと思って皆帆にそれを言うと皆帆は「仕方ない」と言って笑ったから私も釣られて笑ってしまう。
「やっと笑ったね」という皆帆の言葉が何だか温かくて、私はまた笑った。

「監督もコーチもキャプテンも、きっと怒ってるよなぁ」

私がそう言うと皆帆は「そうだね」と困ったように笑う。

「じゃあ一緒に、怒られようか」

 私は大きく頷いた。すると皆帆はベッドに腰掛けた私の手を握る。それに驚いて皆帆を見ると、皆帆は優しい声で言った。

「森乃君は、なんだか不思議だね」
「え……?」
「強いのか弱いのか、よく分からないや」
「!」

どうやら皆帆にも、分からないことはあるらしい。

「きっと、弱いよ」

そう返すと皆帆は「そっか」と言い、私を見つめる。

「…傷の舐め合いなんて、したくはないけど。でも、森乃君が泣きたくなったら僕が受け止めるよ」
「、」

 心臓が、音を立てる。
しかし皆帆がそれに気付くはずもなく、続けた。

「よく分からないけど、僕は
「皆帆」

皆帆の言葉を遮って、私は思わず口にしてしまいそうになった言葉を心の中で呟く。


(―――好き)



 その気持ちを自覚してしまうことの恐ろしさを、私はまだ知らなかったから。



 20131221