sekirara | ナノ
 先日はじめてゴン君と喋って以来、ゴン君は廊下や昇降口で私を見かけると頻繁に声をかけてくるようになった。しかしゴン君がどうして私の名前を知っていたのか理由を聞くタイミングがなかなか掴めずにいる。風の噂かそれとも誰かから聞いたのか。色々と考えてみたけどやっぱりゴン君に直接聞くのが一番だろう。
今度はいつゴン君に会えるかな、なんて考えながら廊下を歩いていると、目の前から歩いてきた人物に思わず足が止まった。

「っ!!」
それは他の誰でもない、クロロ。
クロロとはあの日以来全く話していないし会ってもいない。そんな日々がこれからも続けば良いなどと安心していた私が馬鹿だった。彼は今、私の中で会いたくない人ランキングベスト一位に輝いている。
私が足を止めたまま焦りで足を動かせないでいると、クロロが私に気付いて目を丸くする。目が合って、二秒。私は素早くUターンして猛ダッシュで逃げようと足を浮かせた。それなのに、

「おい」

さっきまである程度は遠くにいたはずのクロロが、気付けば私の後ろに来ていてその上、私の腕を掴んで離さなかった。

「っくろ、ろ」
咄嗟に口から零れた彼の名に、クロロは薄く笑ってみせた。
表情の、宿っていない笑顔。

「覚えててくれたんだな、俺の名前」
「……っ」
「今日はこの前のチビと一緒じゃないのか?」

チビとはきっとキルア君のことだろう。というよりキルア君、私より背高いんですけど。

「……キルア君、は」
「ん?」

私が冷や汗をかきながらそう言いかけると、クロロは面白そうに私の言葉に耳を傾ける。

「あの子、は…関係ない、です」

私がそう言うと、クロロは笑った。
その笑顔を見るのが怖くて、私はまた下を向く。クロロは私の腕を離さずに、少しだけ力を緩めて口を開く。
「アイツは…そうは思ってないみたいだけどな」
「!な、なんで…」
「何でそんなこと分かるのかって?それは本人に聞けよ」
「、」

まるで今の状況を楽しむかのように微笑まれて、何で教えてくれないのよ!などと突っかかる気など失せてしまった。元からそんな気はなかったけれど。それでも今のクロロの言葉がどこか気になって、頭をフル回転させてみたけどその言葉の意味は分からなかった。

「それよりも、」
「え、っ――!?」

グイ。再度私の腕を掴む力が強まって、私は思わず目を丸くする。するとクロロは何も言わずに私を人気のない廊下に連れ込んだ。
廊下の角の方に押し籠められた圧力に、抵抗ができなくなってしまう。私がそれでも逃げようとクロロの胸を押せばその手さえも捕えられてしまい、本格的にピンチになった。冷や汗が首を伝った途端、クロロがグイッと顔を近づけて私を壁に押しつけた。

「っ、な、なに、」
「あの時お前と俺が中学を卒業して、俺たちの関係も無くなった。それから俺もお前のことは忘れようとしたんだぜ?色んな女と付き合って、抱いて、みんな俺に貢いで群がって懐いて、幸せだったよ。でも俺はさ、」
耳元に寄せられたクロロの唇が時折耳に当たって、声が出そうになる。それでも必死に目を瞑って耐えていると、ふいに首筋を撫でられた。まるで割れ物でも扱うように、優しくゆっくりと、首の血管をなぞってその手は鎖骨に辿り着く。

「は、ぁっ、」
「お前じゃないと興奮しないし欲情もしない。いくら他の女が可愛くても美人でも、たとえ俺好みの体だったとしても性欲すら湧かないんだよ」
「っ、!!う、あ、」

クロロはそう言うと、私の耳に噛み付いた。決して歯を立てたりはせず、ただ耳の形を確かめるようにして念入りに舐められる。ねっとりとした舌の熱が耳にじんわりと伝わって、体の底から羞恥と快感が湧いて出た。
 私は掴まれていない方の手を口にやって、必死に声を抑える。それを見たクロロが面白そうに笑い、吐息を耳に吹きかけた。それと同時に私は足の力が抜けたせいで床に倒れ込んでしまう。

「はぁ、あ、っ……は、あ…」
しばらく肩で息をして呼吸を整えていると、立ったままのクロロが私を見降ろして言い放つ。

「俺と付き合えよ」

それは想像すらしていなかった言葉で、私は思わずハッとクロロを見つめた。
目が合うと、クロロはまた優しく微笑む。

「嫌なんだ。お前が他の男に抱かれてるのを分かっててあんなことするの」
「…え……?」
「何回も何回も適当に選んだ男とセックスして金を稼いでたってことは勿論、承知の上だった。俺がお前と関係を持ったのもたまたま駅のホームで会ったから、同じ制服を着てたから、俺もお前も愛に飢えてたから。お前にとって俺は、他の男と何ら変わらない、ただ適当に選んだだけの男だったんだろ?」
「っ、そ、それは、」

驚くくらい真剣なクロロの瞳に、私は言葉をなくしてしまう。ただ私を逃がさないように見下ろすクロロを見つめたまま、しばらく時間が過ぎた。クロロはそんな私を見て、呆れたように笑う。

「ほら、否定しない。やっぱりそうだ、俺はそれが嫌だったんだよ、ずっと」
クロロの顔は本気だった。

「最初は俺だって性欲処理のためだけにお前とセックスした。だけど、途中から何を間違えたか俺はお前にしか興奮しなくなって、お前としか本気で気持ちいいセックスができなくなって、おかしくなったんだよ。」

 これ以上クロロの話を聞いていたら、私はきっとおかしくなってしまう。
そう思った私は、耳を塞ごうと手を動かした。しかしそれさえもクロロは許さず、私の手の動きに気付いた途端、しゃがみ込んで私の手を抑えつける。

「っ、離し、て」
「好きだ」
「!?っ、」
「俺だけのものになってくれ」

驚きのあまり手がびくりと反応した。クロロは私の顔を覗き込むようにして自分の顔を近づける。それから間も置かず、私にキスをした。

「っん、う」
「…名前、本当に…好きなんだ、」
「、っ」

私は…、と口を開けば、すかさずクロロの舌が口内に入り込んできて息が止まった。
ざらざらした感触。今まで男とキスをしたことは数えられるくらい少なかった。売春をしていた頃は、セックスはするけどキスは駄目、という約束の上で色んな男と関係と持っていたから。だから、むやみやたらに誰かとキスをしたことなんてなくて、ただ私が本気で唇を差し出したのは、―――あの人だけ、だった。

「っ、んぁ…う、」
ぐちゅぐちゅと音を立てられて、背筋が震える。指先に電気が走ったみたいにびりびり痺れて、理性が保てなくなっていた。クロロが片手を私の後頭部に回して、もう片手をスカートの中に滑り込ませた瞬間、少し遠くの階段から声がした。

「…――でさ、その時にサトツ先生が…」
「そりゃお前だけだろ、ばーか!」
「あーキルアまた馬鹿って言った!キルアだって俺と点数そんなに変わんなかったくせに!」

その声が聞こえた途端に、私はクロロを突き飛ばした。もはや使い物にならなくなった足を使って必死に立とうとするが、それは叶わない。

 ――声の主は、キルア君とゴン君だ。
クロロもそれに気付いたのか私から離れて静かな声で言う。

「俺のこと真剣に考えてくれないか」
「っ、あ……」
「次会った時で良い。答えを聞きたいんだ」
「!」

クロロが、目元を歪めて優しく笑った。

「俺は今までみたいな付き合い方じゃなくて、本気でお前を幸せにしたい」

そんなの、嘘か本当かも分からないのに。

「それじゃあな」

心臓が馬鹿みたいに騒いで、顔が熱くなる。
今まで散々私が恐れてきた人なのに、どうしてあんなことを言うんだろう。いつから私に対してそんな風に思っていたんだろう。色んな疑問がぐちゃぐちゃに混ざり合って、私は気付けば立ち上がり放心状態のまま、ただ去っていくクロロの後ろ姿を見つめていた。


 それからしばらく立っていたらだんだんと意識がはっきりしてくる。
すると、後ろから元気な声が聞こえた。

「あ、名前先輩!!」
「…ご、ん君」

私に気付いたゴン君が走ってこちらに寄ってきた。私は少しだけぼやけた意識のままゴン君に笑顔を向ける。ゴン君は嬉しそうに笑ってくれた。

「こんなところでどうしたの?ひとり?」
「えっ、あ……うん。ちょっと道に迷っちゃって」
「そうなんだ!名前先輩ってこの辺の廊下あんまり通らないの?」
「う、うん、そうなの。それで迷ってたら、ちょっと気分悪くなっちゃって…」
「え!大丈夫なの!?」
ゴン君がびっくりして私の顔を覗き込んだ。そのゴン君の顔にクロロの顔が重なって、私は思わず顔を赤くしてしまう。それを悟られないように顔を逸らして「大丈夫だよ」と返せばゴン君は首を傾げたけど「それなら良かった!」とまた元気に笑った。

「あっそういえばキルアと名前先輩って仲良いんだよね!」
「え」

ゴン君がそう言って初めて私はキルア君がいることに気付いた。そりゃさっきも声は聞こえていたけど、クロロに言われた言葉で全てが真っ白になっていたから。
キルア君と目が合って、私が逸らす。それをキルア君は面白く思わなかったのか、ゴン君に「お前先に行ってろよ」と不機嫌そうな声で言った。

「え?キルアも一緒に行こうよ」
「いいから早く行けって」
「キルアったら変なの」
ゴン君は口を尖らせた。すると思いだしたように私を見て言う。

「ねえ名前先輩!」
「え?」
「そういえばこの前言い忘れてたんだけどね俺が名前先輩の名前知ってた理由、」
「!」
「キルアが名前先輩の話してたからなんだよ」
「…えっ?」
「お、おいゴン!」
ゴン君の思わぬ暴露に私が呆気とするとキルア君がゴン君を睨んだ。
「おまえ、な、何言ってんだよふざけんなっ!!」
ゴン君はキルア君を見つめて不思議そうな顔で「キルアなに興奮してるの?」だなんて首を傾げた。キルア君はますますゴン君を睨んでいるがその顔は赤くなっている。そんなキルア君を見ているだけでこっちまで恥ずかしくなった。

「キルア言ってたじゃない。苗字名前っていう先輩が同じ委員会やってて、よく話すんだけどなかなか会話が上手くいかないって…」
「ゴンお前それ以上なんか言ったら本気で殴るからな!!!」

そう叫んだキルア君はぜえはあと荒い息を整えながら私を見た。ばちり、視線が合って私が思わず逸らそうとすればキルア君が小声で私に言った。

「放課後、お前の教室に行くから待ってろよ」
「、え…?」
私がその言葉に驚くのも気にせずにキルア君はゴン君を引っ張って去ろうとする。が、ゴン君がちらりとこちらを見て、にいっと何かを企むようにして笑った。

「ゴン君?」
「キルアはね、素直じゃないだけなんだよ」
「!」
「キルアと仲良くしてあげてね!」
「え、あ」
「それじゃまた!」
「あ…う、うん。またね」

ゴン君がぶんぶんと手を振るから私も手を振って二人を見送る。
 誰もいなくなった廊下で、私はその場にしゃがみこんだ。

ここ最近、本当に本当にタイミングが悪い気がする。それと運も悪い。上手い具合に避けていたはずなのに、それが逆効果になっている気がしてならない。いや絶対なってる。髪をぐしゃっと掴んで必死に脳内を整理した。それでも落ち着く事はない鼓動。もう、どうしていいのか自分でもわからない。


 しばらく悩みこんでいた時、ふと浮かんだのは、あの人の笑顔だった。

「ねえ、何で難しい本ばかり読んでるの?」

私がそう問いかけたあの日のことを思い出した。記憶の中のあの人が、優しく笑って言った言葉。

「上手くは言えないが、普通の本には無い面白さがあるんだ」

その意味を私は知りたくて、あの人が笑いながらそう言ったその気持ちに近づきたくて。好きでもない難しい本を無理して今でも読んでいる。
もう終わったことなのに。二度と会うことなんて許されない人なのに。

私が恋した相手は、必ず私を置いてどこかに行ってしまう。今まで、ずっとそうだった。恋に本気になればなるほど、それは叶わなくなる。
気付けば私は涙を零した。それは、身勝手な涙だと思った。それでも涙は止まらなくて、ただ切ない気持ちと後悔だけがぐるぐると頭の中で混ざり合う。

(過去は消せないものなのだと、実感せざるを得なかった)



 20130401
タイトルの「retrouver」は、音楽用語で「見つける、思い出す」などの意味があります。
ちなみにフランス語です。