sekirara | ナノ
 朝、私はいつもより何倍も重い足取りで学校に向かった。昨日の出来事を忘れられたら良いのになんて思ったがそんなの無理なわけで。
彼の名前は知らない。だから学年もクラスも調べようがないし、いつ彼から電話が来るかも分からないこの恐怖をどこへやろう。そんなことを考えながら下駄箱で通学靴から上履きに履き変えた。すると突然、
「おい」
後ろから不機嫌そうな声が聞こえて思わず肩を過度に上げてしまった。恐る恐る振り向くとそこに立っていたのはキルア君だった。

「キルア君…ど、どうしたの?」
「これ。委員会の資料、またお前に渡せって頼まれたんだよ先生に」
「え?あ、そっか。ありがとう…」
渡された資料をパラパラとめくって目を通す。そんな私をキルア君は横目で見ながらぶっきら棒に言った。

「お前、顔色悪いぞ」
「…えっ?」
「朝食ってねーの?」
「あ、うん…なんか、食欲なくて」
「あっそ」

自分から言い出したくせに何て素っ気ない返事だろうか。そう思ったのも束の間、後ろから急に軽く背中を叩かれた。突然のことに、さっきよりもびっくりして振り向けばそこに立っている人物に、私はますます顔色を悪くすることになる。

「っ、!?」
「おはよう。昨日ぶりだな」
そこにいたのは昨日と同じ制服に身を包んだ彼だった。私は思わず反射的に後ろに一歩踏み出して距離をとる。しかし後ろにはキルア君がいて私はキルア君にぶつかってしまった。

「いって、」
キルア君が漏らした声は聞こえていたけど私はそれに反応する余裕もなく、ただ目の前に立つ彼を見つめた。

「相変わらずの反応だな、俺に会うのがそんなに嫌か」
「っ、何で…」
「なにが?」
「もう、関係ないじゃないですか…なのに何で…!」
「関係ないってそれアンタが言う台詞じゃないだろ。俺との関係をふっかけてきたのはアンタだろ?」
冗談っぽく笑う彼に私は顔を青くする。キッと彼を睨んで言い付けた。
「その話はもうやめて下さい!」

後ろにはキルア君がいる。私とこの人との関係を、キルア君には知られたくなかった。だけど私の顔を見て彼はにっこりと笑った。そして、

「もしかして、この学校ではもう昔のことは無かったことにしてるんだ?」
へえ、そっかそっかと笑いながら彼は私の腕を掴んで引き寄せる。冷や汗が滲んで、恐怖で一杯になった。
「や、やめて…!」
精一杯声を振り絞ったものの、出てきた声は何とも掠れてみっともなかった。
「声出てないぜ、そんなに俺が怖いのか?」
「っや…」
「中学の頃はあんなに仲良くしたじゃないか。なあ、もう俺の為に鳴いてくれないのか?」
「やめて!!」
「おい、」
私の叫び声と同時にキルア君の低い声が聞こえた。キルア君は私の後ろから横へと移動して、私の腕を掴んでいる彼の手を振り払った。キルア君の思わぬ行動に私も彼も驚いて口を閉じる。キルア君は今まで見た事もないような怖い顔で彼を睨みつけた。

「名前が嫌がってんだろそんな事も分かんねーのかよこのド変態」
キルア君がドスの効いた声でそう言うと、彼はそれさえも無視して私に視線をやった。
「へえ、名前っていうのか」
口の端を釣り上げて笑う彼に鳥肌が立つ。私が黙って俯くとキルア君はチッと舌打ちをして彼にもう一度言った。

「人の話聞けよ」
「ん?ああ、何?もしかしてアンタ名前の新しい彼氏?」
「は…?新しい、って…」
キルア君が不可解な顔つきでそう溢した。私はその途端、全身にぶわっと広がる焦りと恐怖を覚え、きつく目を閉じた。

「アンタ、名前のこと本当に何も知らないんだな」
「だからお前、何言ってんだよ。俺は別にこいつの彼氏とかじゃ…」

 次の瞬間、予鈴が鳴り響いた。気付けば周りには誰もいなくなっていて、予鈴が鳴り終わると彼は呆れたように口を開く。

「こんなときに予鈴か…まあ良いや、なあ名前」
「っ、」
ふいに名前を呼ばれて肩が震えた。
「…そんなに恐がらせるつもりはないんだけど、って言っても信じてもらえないだろうし、まあとりあえず俺はアンタと昔みたいな付き合い方をすり気はないから安心しなよ」

彼の言葉はあまり頭には入らず、私はまるで放心状態のように口を半開きにしたまま彼を見つめた。彼はくすりと薄く笑って、私に言う。

「一応教えとくよ、俺はクロロルシルフル。クロロって呼んでくれて構わない」
「え……?」
「それじゃあ俺は教室に行くから。お前たちもさっさと行けよ?」
ヒラリと手を降りながら去っていくクロロの後ろ姿をただ唖然と見送った。
――クロロルシルフル。その名前を頭の中で復唱し、私は唇を震わせた。本当なら、知るはずのない名前。知りたくもないと、知る必要もないと思っていたのに。神様はなんて意地悪なんだろう。

 私が崩れるようにして床に座り込むと、それを心配したのかキルア君が問い掛けた。
「おい、大丈夫かよ…」
「ご、ごめんね、」
「は?」
「今の全部…無かったことにして…」
震える声でそう言うと、キルア君は不機嫌そうに言った。
「なんで」

それに答えることができずに俯くと、キルア君は私の肩を乱暴に掴み、叫んだ。
「お前、むかつくんだよ…!」
「っ、え」
「そんなこと言いながら、助けてほしいって顔しやがって!うざい、むかつく!」
「!?わ、私そんな顔してな…」
「もう喋んな!!」
「キルアく、っ!」

気付けば私は涙を流していて、それが止まることはなかった。慌てて涙を隠せばキルア君は私を抱き締めるようにして、細く呟く。

「あのさ、」
「え…?」
「新しい彼氏とか、昔みたいな付き合い方とか、それって…なに?」
「、」

人は誰でも、自分にとって都合が悪くなると逃げ出したくなるだろう。しかしそれでも逃げずに立ち向かうのは、強い人。私のような人には、そんなの無理な話であって。

「っ、それ、は…」
思わずキルア君から距離を取るようにして足を踏み出せば、キルア君は獲物を狩るような目付きで私の腕を掴んだ。

「逃げるなよ」
「き、キルア君には関係ないよ!!」
必死に叫ぶのと、キルア君の腕を振り払って逃げるのは、同時だった。

(彼を、巻き込みたくない)


20130320
タイトルサンクスごめんねママ