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「ちょっと良いかしら、ゆら」

 いつもの部活の時間に、先輩の名前先輩が深刻そうな顔で声を掛けてきた。

「は、はい。すぐ行きます」
私は肩から掛けていたギターを椅子に置いて先輩の名前先輩の元へと走る。先輩の名前先輩は一枚の紙を手にしていた。それが何か分からないまま、私は先輩の名前先輩に連れられて準備室へと足を踏み入れる。ここは部活中は誰も使わないため空き教室のような状態になっていた。ぱたんと扉を閉めた先輩の名前先輩が、私に向き直る。よく分からない緊張が、胸の奥の方から滲み出てきた。

「ねえゆら」

 気のせいか、いつもの先輩の名前先輩とは違って見える。少しばかり目を伏せた先輩の名前先輩が口を開いた。


「あたしね、ギター部、やめようと思うの」
「……え…?」

ぴしりと、心にヒビが入ったようだった。先輩の名前先輩が何を言ったのかうまく整理できずに、動揺を隠せない表情で荒々しく先輩の名前先輩に問い掛ける。

「な、何で…何でですか、先輩、音楽が好きなのに…!私、先輩も音楽が好きだって聞いてすごく嬉しくて
「違う」
「…!!」
私の言葉を遮って、先輩の名前先輩は、ゆっくりと目を閉じた。まるで自分に呆れたような笑いを見せるその姿は、私の知っている先輩の名前先輩とは少し違くて。先輩の名前先輩の手に握られた紙に"退部届"と書いてあるのが見えたと同時に、私は言葉を失ってしまった。

「何で、いきなり…」
「…あたしは、暇潰しで音楽をやってただけなの」
「、え……」
「音楽も、ギターも、好きなバンド名も、好きだなんて言えるものじゃない」

その言葉を聞いて、私は、目を見開いた。そんな私を見た先輩の名前先輩は思いきり頭を深く下げて、言う。

「ごめんなさい。ずっと、嘘をついていて」

その声があまりにも辛そうで、私は、先輩の名前先輩の手から退部届の紙を奪い取った。
「っ…ゆら…」
「私は、それでもいいです」
「!」

退部届を握り締めたままそう言った私に、先輩は目を丸くする。準備室の外から聞こえる楽器の音色が、静かなこの部屋にまで響いていた。
(だって、音楽は……)
「音楽は、人それぞれの価値観があって、それは私みたいに将来の夢のためだったり、先輩みたいに一時的な暇潰しだったり、本当に色々な種類の音楽があるんです。その中に悪いものなんて、ひとつもないと…私は、そう…思っています」
「……ゆら…、」
「だから先輩、暇潰しでも良いです、だから部活をやめるなんて
「ゆらは、本当に音楽が好きなのね」
「!…っ…好き、です……」

私は先輩の名前先輩を見つめたまま、きつく唇を噛み締める。

「…好きで…好きで、たまらない、です」

 私にはきっと、音楽しかない。
あの日初めてギターに触れて感じたあの感覚は、今でもハッキリと覚えている。ギターに触りたい、上手く弾けるようになりたい、ミュージシャンになりたい。私の夢はどんどん大きくなって、だから、私はこうして音楽を楽しんでいる。私には、誇れるものが音楽しかないから。


「……あたし、やりたいことが見つかったの。ゆらみたいに、将来の"夢"が」
「!」
「だからそれに専念するために、部活をやめようと思ってる。勝手かもしれないけど…ゆらは、応援してくれないかしら」

気付けば先輩の名前先輩は俯いていた顔を上げて、真っ直ぐに私を見つめていた。

 やりたいこと。
それは、それが先輩の"夢"なら。先輩が見つけた"将来の夢"なら。
(私は……っ)

「ゆらが応援してくれたら、きっと、最後まで頑張れる気がするの」
「…私が断れないの知ってて、そういうの、ずるい、です…っ」
「……本当に、ごめんなさい」
「夢…頑張ってください、絶対、諦めないでください」
「…ええ」
「…今まで、ありがとうございました」
「…ええ。ありがとう、本当に」

私も深く頭を下げた。手に握り締めた退部届が、くしゃりと音を立てる。この退部届は、この部活が終わった後に顧問の先生に渡すらしい。どうやらもう退部の話はしているらしく、これを渡せば、正式に退部が決まるそうだ。つまり今日この時間が、最後の部活の時間。
先輩の名前先輩が、私の先輩で良かった。そう言うと先輩の名前先輩は照れ臭そうに笑ってそんなことないと言ったけど、私は、本気でそう思ってる。

 それからしばらく色々な話をしていた時、ふと、先輩の名前先輩が言った。

「ねえゆら、あたしにも、ひとつだけ応援させてほしいことがあるの」
「え、私を…ですか?」
「ゆらの将来の夢のそうだけど、もうひとつだけ」
「…?」

先輩の名前先輩はそう言うと、首を傾げた私から目を逸らしてどこか遠くを見つめた。

「…今泉くんはね、ゆらのことがきっとすごく大切で、好きなのよ」
「!…え……」

あまりに突然の話題に、私は目を丸くしてしまう。しかしそんな私を無視して、先輩の名前先輩は続けた。
「あたしがこうしてゆらに謝るきっかけをくれたのは、今泉くんだったんだ。ゆらと話してるあたしの笑顔が嘘っぽかったって、今泉くんに見抜かれちゃったの」
「そう…だったんですか…?」
「ええ。好きなバンド名のことも、好きじゃないなら正直に話せばいいんじゃないかって。でもあたしそう言われた時はカッとして怒鳴っちゃった、あたしは嘘なんかついてない、あたしはゆらの憧れなんだからって」
「…!」
「でも違うよね、間違ってる。あたしの本当のこと、全部、話さなきゃって思った。せめて、あたしを信頼してくれた貴女にだけは」
「っ……先輩にそう思ってもらえて、本当に、嬉しいです」
「ううん、あたしの方こそ。…あたしは、貴女にも、今泉くんにも救われたのよ」

そう言うと先輩の名前先輩は嬉しそうに笑った。どこか安心したような、そんな穏やかな笑顔だった。

「そしてきっと、今泉くんは貴女を救ってくれるんじゃないかしら」
「え…」
「好きなんでしょ?今泉くんのこと」
「っ……でも、私は…」

スカートの裾を握り締めて、俯く。この前の記憶が頭にちらついて、また指先が震えた。今泉くんに触れられるのは、決して、嫌じゃなかったんだ。そんな自分に余計に腹が立って、どうしようもなくなってしまう。鳴子くんとの恋を応援してくれなくていいと言って突き離したこと、それでも笑い掛けて優しくしてくれた今泉くんに、何もしてあげられなかったこと。色んな気持ちが混ざり合って、今はまだ、よく分からない。

「忘れられない人がいるの?」
「!……あ…」

はい図星ですみたいな顔をしてしまった私に、先輩の名前先輩は「やっぱりね」と言った。私、そんなに顔に出ていただろうか。

「……好きで、好きでたまらない人がいました。その人と話せるだけで、その人のことを考えるだけで…すごく、幸せになるんです」
「そう…」
「でも今は…」


「好きだ」


「っ今泉くんのことを考えると…あたたかい気持ちになります。今泉くんに優しくされると、すごく…幸せな気持ちになるんです」
「十分よ、それで」

その"十分"の意味は私にはよく分からなかったけど、先輩の名前先輩がとても優しく笑ってくれて、釣られて私も笑ってしまった。
 いつかはちゃんと整理を付けなければいけない。だから、今は、ちゃんと悩もう。悩んで悩んで、みっともなくてもぶつかっていこう。

「ありがとうございます、先輩」

もう少しだけ、頑張れる気がした。



 20170720