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その日、赤司が少女との約束を叶えることは出来なかった。

拭っても拭ってもとめどなく溢れる涙に、赤司自身が酷く狼狽し、そしてまた赤司という男の性質をよく知る灰崎もその事態に動揺した。
焦りは人の判断力を狂わせる。灰崎は、残業を放り出して赤司の腕を引き、施設からほど近い場所に位置する自宅へと連れ帰ったのだ。


現在灰崎は実家を出て一人暮らしをしている。狭いアパートは衣類やら雑貨やらが所狭しと積まれていて、足の踏み場もないようだった。
がさがさと乱雑に物を隅へ避けながら、赤司の入り込むスペースを作り上げ、赤司をそこへと誘い。灰崎はばつの悪そうな表情を浮かべながら頭をかいた。

「…いー加減、泣きやめよ。なんか、オレが泣かしたみてぇじゃん」
どういうことか、室内に足を踏み入れた途端に赤司は嗚咽をあげ始めた。それを聞くに耐えないと言った表情で受けながら、灰崎は嘆息する。


灰崎には赤司の身に起きた現象の理由がまるで分からなかった。
それはまた、赤司自身にも。分からないまま、赤司は嗚咽を上げ、彼らしくない姿を灰崎に見せ続ける。
どうしたらいいものか、と悩みながら、灰崎は自分のベッドに腰を下ろし、床にへたりこんだ赤司の後頭部を眺めながら呟いた。

「…悪かったよ、言い過ぎた。お前の人生にオレが口出す権利はなかったし。…昔のことだって、べつにそこまで怒ってねぇから。お前の言うとおり、部活やめたのは自分の判断だし、オレはお前に恨み持ったりとかはまったく…」
「…そんなことは、気にしていないよ」
「あ?だったら何で、」
「…自分でも、分からない。ただ、お前が…」
「オレが?」

顔を拭け、と渡されたのは随分と使い込まれた白いタオルだ。それを顔面に押し当てながら、くぐもった声で赤司は言う。
「…僕の進路について、意見をする者は一人もいなかった。身内は当然、バスケ部のチームメイトも、僕が高校いっぱいでバスケを辞めることを不自然だと言った者はいない。それなのに、…よりによって、お前にそれを指摘されるとはね」
「…マジで?」
「ああ。…そして僕自身も。今、自分の立つ位置が正しく自然なものであることを信じて、疑ったことはなかった。だが、お前の指摘を受けて、気付いた。…僕には、まだ、手に入れたいものがあったのかもしれない」

望みはすべて叶えてきたはずだった。
予め定めた目標を達成し、満足の行く結果を残し。そうして後腐れなく、バスケを辞めたつもりでいた。
それなのに、今こうして、古い傷を抉られたような感覚に陥るのは。

「…もしも、お前が僕の側に居続けたなら、と、考えてしまったよ」


それはあまりにも勝手な言い草だと、灰崎は憤るかもしれない。だが赤司の予想に反して、灰崎は笑う。
「オレがお前の側にいたって何も変わりゃしねーよ」
「……」
「今のお前が何考えてんのかはまったく読めねーけど。少なくとも、あの頃のお前は、妄信的に自分の判断が正しいと考えてた。仮にオレがバスケ部を辞めずにいたって、お前はいずれオレでなくリョータをスタメンに起用するようカントクに進言してただろうし、そーなりゃオレはお前に何を言われずとも退部してた。…ま、そーなりゃ少なくとも、「赤司に辞めさせられた」ってより「黄瀬涼太にレギュラーの座奪われて辞めた」って噂が立ってただろうけど」
「…それは、そうだろうな」
「だから別にオレはあの時お前に部活辞めさせられたのは恨んじゃいねぇ。…ただ、…お前が、そのことをまったく忘れたみてぇな態度で擦り寄ってくんのは、ムカついたよ」

立場が変わり、環境が変わり。価値観や性格も、数年の時を経た今では変化があるのも当然だ。
だが、灰崎は過去を水に流しはしなかった。恨みや憎しみがないとしても、わだかまりはあるのだと。時の流れと、それによって変化した環境やあらゆる事象は、中学時代に決別した二人にとっては関係がない。

灰崎の中では、赤司は中学時代から時を止めたままだった。


「…灰崎」
「…んだよ」
「お前は怒るかもしれないが、言わせてくれ。やはり僕は、今のお前に再会出来たことを心から喜ぶ。…僕にも、自由で快適な時間があったのだと、思い出させて貰えたからね」
「…何度も言うけど、こっちは最悪な気分だ。お前のせいでヤなことばっか思い出す」
「一方通行な想いか。残念だ」
「へー?赤司様に片想いさせる最初の男になっちまったか?そりゃ光栄だ」
「実りそうもないな」
「当たり前だろ。オレとお前じゃ、住む世界が違ぇんだ。分かったら、お前はさっさと、」

ゆっくりと赤司は灰崎の顔を仰ぎ見る。
そこで見つけた灰崎の表情は、どことなく穏やかな印象を受け、赤司は声を失った。
その間に灰崎は告げる。正しい判断を、赤司に思い起こさせる。

「くだらねー感傷に浸ってねぇで、テメェの世界に戻ってくれ」

赤司の居場所は、ここにはないということを。





「灰崎と会ったよ」

それから数日後のことだった。赤司が別の旧友とコンタクトを取り、相手にそんな報告を差し出したのは。
聞かされた相手、緑間は瞬間的に声を詰まらせる。どこで会った?という問いに、赤司は含み笑いをして答えた。

「どこだと思う?選挙前のことだ」
「選挙前は多忙を極めていたのではなかったのか?」
「忙しかったよ。だけど会えた。…選挙活動の合間にね。灰崎は、児童養護施設に勤めている」
「…それは、…意外な展開だな」

初回の自分と同様の感想を呟く緑間に、赤司は含んだ笑みを零して頷く。
とは言え二人は対面しているわけではない。電話を片手に明日のスケジュールを眺めながら、赤司は緑間へ話し掛ける。
「彼の両親が経営している施設だ。真太郎、そのことは知っていたか?」
「ああ、本人から直接聞いたわけではないが…。…あいつの性格上、触れられたくないことだとも思っていた」
「そうか」
「だがまさか、そこに就職するとはな。他にあてがなかっただけかもしれんが」
「そんなことはないよ。彼は、充実した表情をしていた。子供たちもよく懐いていたし、彼には合った職業なのだろうな」
適材適所という言葉を思い浮かべる。天職というものは、あるのだと。
「…そんな話をするために、わざわざ電話をしてきたのか?」
冷静な緑間の口調に、赤司はふ、と口元を緩ませる。
夜半過ぎ、本来であれば自宅にいれば就寝準備をしている時刻だ。緑間もそうだったかもしれない。そのことを詫びると、緑間は「いや」と否定する。
「お前から連絡があること自体珍しいことだ。それがまさか、灰崎の話題だとは思わなかったからな」
「…誰かに、聞いて欲しかったんだ。当時の灰崎と僕を知る、中学の同級生に。…真太郎がもっとも話し易いと判断してね」
「構わないが、…理由を聞いてもいいか」
「理由?」
「わざわざオレに灰崎と遭遇したことを報告する理由だ。お前にとっては取るに足らない些細な話だろう」
灰崎のことなどと、と緑間は言う。そうかもしれない、と赤司は思う。だが。
「…他人の意見を、聞いてみたかった」
「意見?」
「真太郎、お前の眼には、今の僕がどのように見える?」

問い掛け、答えを待つ間に目を閉じる。
回答は、聞かずとも予測出来ている。これは緑間でなくとも同じことだ。
灰崎以外の誰もが、こう言う。

「…順風満帆に見えるが」
「そうか、…ありがとう」

正しい道を歩んでいる。その確認は緑間の回答によって得られた。
だが、赤司はすでに気付いている。周囲が思うほど、自分は満ち足りた存在ではないと。
それを自覚させたのは、ただ一人。灰崎だけと言うことにも。




それから赤司は灰崎に言われた通り、自分の世界に身を投じた。
日々細かく定められたスケジュールを違うことなくこなし、適度な睡眠と食生活を心掛け。体調だけは崩さぬよう留意しながら、目まぐるしい毎日を送る。
時折、灰崎の言葉を思い返すこともある。「つまらない人生」だと。そうかもしれないと自答しながらも、赤司にそれを捨てることが出来るはずもない。だから赤司は、不満を吐露することもなく「つまらない人生」を歩み続けた。

そんな折のことだった。
父親から、見合い話を持ち掛けられたのは。


「そろそろ頃合だろう。お前に相応しい女性を探し出した。予定を開けておけ」
「…分かりました」
父親の指示を受け入れ、赤司は自身のスケジュールを確認する。空欄の日にちを見つけ出し、父親に伝えてから退室するまで。赤司は、操り人形のように従順だった。
自室に戻ってから初めて赤司は自身の頬に手を当て、無表情だったそこを軽く抓る。
筋肉が凝り固まってしまったかのような錯覚は、僅かな痛みと共にやや解消された。



灰崎の住むアパートに足が向いたのは、ほとんど無意識の行動だ。
その日の業務を終え、タクシーに乗り。伝えたのは、自宅ではなくそこだった。
ふらふらした頼りない足取りで一度訪れたきりの灰崎の部屋を目指す赤司の姿は、事情を知らない者からすれば夢遊病者のようにも見れただろう。
これで灰崎が部屋にいなければ元も子もない。だが、幸い。灰崎はそこにいた。

玄関のドアを開け、赤司の顔を認めた途端、灰崎は目を見開きこう言う。
「おま…、何つーツラしてんだよ…っ」
「…そんなにひどい顔をしているかな」
「してる。むちゃくちゃヒデェ。……まあ、入れよ」
入れと言うまでに少し間が空いたのは、「帰れ」と言う言葉を飲み込んだせいだからだろうか。門前払いを食わせられなかったことに安堵し、赤司は酷いと称された自分の顔色に感謝をした。



「結婚をするかもしれない」
「…は?!…え、マジで?!」

相変わらず散らかった灰崎の部屋に足を踏みいれ、ミネラルウォーターのペットボトルを渡された後。何の前触れもなく赤司が発した告白に、灰崎は目を見開いて驚嘆する。
「お前…、彼女なんかいたのか?」
「いないよ。まだ、縁談が持ち上がっただけの段階だけど。…父が選んだ相手ならば、おそらくはすでに決定された事柄だろう」
「そりゃ、まあ…、めでてぇな、…っつっていいの?」
「……いいはずが、ないだろう」

それより他に言い様がないことは分かっている。それでも赤司は憤りを示し、ペットボトルのキャップを抉じ開け一気に口に含み飲み干してから。下を向き、父親に言えなかった心情を吐露した。

「何のためにここへ来たと思ってるんだ」
「…いや、何のためだよ。自慢しに来たの?」
「自慢?ああ、そうだな。相手の写真を見たが、清楚で可憐な美女だった。お前が普通に生活をしていたならまず知り合う事のないタイプだろうね」
「…よく分かった。すぐ帰れ」

赤司がこの部屋に足を踏み入れてから10分と立たずに険悪な空気は発生する。それは、赤司がいつになくささくれ立つ雰囲気をかもし出したからだ。
「そんな美人のご令嬢が相手なら、赤司様も不服はねぇだろ。さっさと結婚しちまえ」
「……嫌なんだ」
「へ?」
俯いたまま赤司が発した拒絶の言葉を、灰崎は聞き返す。彼らしくない子供じみた口調だ。
「おい、いま何て…」
「嫌だと言ったんだ。結婚なんてしたくはない。相手が誰であってもだ。オレはまだ、身を固めたくはない」
「……」

拒絶発言のオンパレードに、灰崎は絶句する。
ここだけ聞いたのならば、ひどく我侭で理不尽な抵抗にも思える。だが、灰崎は事情を知っている。赤司が拒絶を示しているのは結婚するという事実ではなく。

「…んなに嫌がるくれぇなら、はっきり言えばいいじゃん。…テメェの親父だろ」
「……」
「なに、それとも言って欲しいわけ?……結婚なんてすんなって」

皮肉めいた口調だった。それでも、赤司はぴくりと肩を揺らす。
ゆっくりと視線が持ち上がり、灰崎の顔を仰ぎ見る。視線が合い、どちらも言葉を失う。互いが互いの予想と反する表情を浮かべていたからだ。

目を見開いた赤司は、灰崎の言葉を待つ。灰崎にとっては冗談混じりで告げた言葉だったが、赤司が真に受けた表情をするため撤回が出来なくなり。

「…オレがそう言ったら、お前、親父に反抗出来んのかよ?」
「灰崎…」
「だったら言ってやるよ。そんだけならタダだしな。…なあ、赤司。…結婚すんな。お前にはまだ早い。お前は…」

室内に走る空気がどことなく異様なものになっていることを灰崎は悟る。だが、発言を中断することは出来なかった。
そして、告げる。赤司の意識を決定付ける、その言葉を。

「お前は、オレに片想いしてんだろ」

赤司は、今夜自分がここへ足を運んだ理由を認識した。










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