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▼ ラストノート・エピソード


高2以降の話。


***




記憶と異なる香りが漂い、伸びてきた腕を思わず振り払ってしまった。


香水を変えたのだと、灰崎は言う。
灰崎が中学時代から香水を愛用していたことは知っている。人工的な甘い香りは度々灰崎の持ち物から漂っていた。
だけどいま、目の前にいる男から漂う香りは。あの頃とは、明らかに違う。

「…よく覚えてんなぁ、赤司。鼻良過ぎだろ」
「五感のうちで最も記憶と結びつきが密接なのは嗅覚だからね。鼻がいいのとは、少し違うかもしれない」
「ふぅん。…まーたしかに、香水変えたの部活辞めてからだし。…にしても、その態度はねーだろ。赤司よぉ」
「嫌な香りだな。なぜ切り替えた」
「…なに?前の匂いのが良かった?」
「そうだな。あの方がまだ耐えられた」

香水の強い香りは元々あまり好きじゃない。だが、いまの灰崎から香るそれは、好き嫌い以前に抵抗感すら覚える。知らない香りではない。これは、どこか。煙草の匂いに近い。

「あー、なるほど。お前そーゆうのダメそう。マジメだもんなぁー?」
「顔を近付けるな」
「うわ、マジ嫌そーなツラ。ふーん。お前、そーゆうのも出せんだな」
「…嬉しそうだな」
「嬉しいね。無表情がデフォのお前が、オレのせいで表情崩すのは」

悪趣味な嗜好の持ち主は、そう言って目を細める。
自分から視線を外すのはあまり好まないけれど、相手を喜ばせる表情を見せつけるのも気に入らない。目を伏せ顔の向きを変えると、とうとう灰崎は声を立てて笑った。

「わーかったよ。ま、キスもさせて貰えねーのは困るし、シャワーでも浴びてくる」
「ああ、そうしろ。…キスはさせないけれど」
「何だよ、さっきちょっといい空気だったじゃん」
「気のせいだ。…お前との関係は、遠い昔に切れている」
「…あー、そーだったな。忘れてた。オレら、別れたんだよな」
「交際をしていたわけでもないけれどね」
「そーだっけ?でもキスとかしてたじゃん。あれは、なんて言う関係?」
「…さあ。…よく、覚えていないな」


ドアが閉まる気配を感じ、赤司は天井を仰いで息を吐く。
自分で言うとおり、過去に赤司が灰崎と交際をしていた実績はない。ただ、灰崎が言うとおり何度かキスをした記憶はある。
あの時どうしてそれを許したのか。それは、当時も今も分からないままだ。

それは毎回部室やミーティングルームに二人でいるときに発生した。
当時の主将の指示で灰崎に注意を与えるという名目で対面し。空返事をする灰崎を嗜め、それと同時に灰崎の実力を評価すると、不意に灰崎が顔を近寄せてきた。
毎回赤司は灰崎にその行為の理由を尋ねた。いくつかの回答を覚えている。「なんとなく」「お前の唇が乾いてたから」「うるせぇから黙らせたくなった」等々。一度もその理由に納得させられたことはない。
理由などはなかったのかもしれない。灰崎にとっては、それはコミュニケーションの一つに過ぎず。そう思ったからこそ、赤司はあまりキスの理由について深く追及していなかった。

接触した感覚で唯一はっきりと覚えているのは、あの時灰崎から漂ってきた香水の匂いだ。
感触も、温度も、おぼろげなものだけど。匂いだけは、やけに鮮明な記憶として刻まれている。
だからこそ。あれから数年たった今、灰崎の部屋で記憶と異なる香りを嗅がされながらの接触に対し赤司は拒絶反応を示したのかもしれない。


香水の強い香りは、好きじゃなかった。
だけど唯一、あの時の。唇の接触と共に嗅がされたあの香りを、赤司は。



「赤司」

名前を呼ばれて思考が中断される。
灰崎が戻ってきたらしい。振り返ろうとしたその半ばで。ふわりと、鼻腔をついた懐かしい香りに、赤司の意識は奪われる。

「…!」
「ほらよ、お前の好きな匂い。持ってきてやったぜ」
「な…、僕は、」
「言っとくけどサービスすんのは今日だけだ。オレはこの匂い、大嫌いだからな」

好きじゃない。そう言おうとした。言えなくなったのは、灰崎の口調が先ほどまでの軽薄なものとは違っていたからだ。
背後から赤司の体に腕を巻き付け、赤司の肩に額を押し付け、灰崎は静かに呟く。
「これ、リョータとかぶってたんだよ。だから中学んとき香水変えた」
「…涼太と?」
「なに、知らなかったの?…ま、あいつは部活関係んときはつけてなかったからな」
「…ああ、知らなかった。僕にとってこの香りは、お前だけの…、」

心臓が、痙攣するように波打っている。
香り一つで。自分の身にこんな変化が訪れるとは、思いもよらない。
密着している灰崎にも、この鼓動は伝わっているのだろう。だが灰崎は、それについて何も言わずに。

「なあ、赤司」
だけど今は、この身の変化を揶揄して貰った方が赤司にとってはマシだった。
「お前さ、昔、オレがお前にキスした理由をよく聞いてきたじゃん。あれ、本当の理由、教えてやろっか」
真に迫った灰崎の声が、耳の側で鳴り響く。赤司はそれを制御することが出来ないまま。
「する前とした直後だけ、お前、いつもと違う表情してたんだよ。泣きそうな、苦しそうな。…そういう、オレしか知らなそーなお前のツラを見んのが、オレは」
忘れたい。だけど忘れられない香りと共に。呼び覚まされるのは、過去の感情。
「割と、好きだった」



当時の自分でさえ分からなかった感情を、灰崎は知っていた。
それがどんな表情であるか、自分では確認することもできない。だが、目の前で見ていた灰崎は断言する。あの時赤司が灰崎に向けていた表情から。深い胸中に抱えていた、感情を。
白日の下に晒されたことを、急激に意識する。羞恥が身を焦がし、力任せに灰崎の腕を振り払う。振り返り、否定の言葉を発そうとした。だが灰崎はそれを許さずに。

忘れられない香りと、共に。
忘れられない口付けを、赤司の唇に再現する。


泣きそうだと、灰崎が表現したのは、こんな顔だろうか。
唇の間に距離が生じ、視線が交わり。目の前の男は嬉しそうに口元を歪ませる。
「あー、やっぱ、…好きだわ」
それきり灰崎は何も言わずに、赤司の身を引き寄せ抱き締めた。



(好きだった)

交際しているわけでもないのに、恋人同士の様にキスをする。その行為を無意識に悲観していた過去がある。それはなかば、「叶わぬ恋」にも似た忘却すべき感情だ。
だがきっと赤司は、この先も。同じ香りを嗅ぐたびに、過去の、そして今日の記憶を呼び覚ますことになるだろう。
忘れたくても忘れられない。記憶と深く結びついた感覚を、半永久的に携えて。


だがこの後、灰崎は救済手段を口にする。
「忘れられる方法がひとつだけあんぜ」
「え…?」
「お前にその気があるならな。これやるよ」
そう言って灰崎が赤司の手に持たせたのは、黒いシックなデザインの香水ボトル。
嫌な予感がして、灰崎の顔を仰ぎ見る。灰崎は相変わらず、性格の悪さを滲ませた笑みを浮かべ、ボトルのキャップを外し。その手の動きに意識を奪われていた赤司は、突如耳の後ろに撫で付けられた香りに目を見開く。
「…ッ!」
「おいおい、瞳孔開いてんぞ?そんなにビビんなって」
「な…、…う…っ」
「いー匂いだろ?」

ニヤリと片頬を上げながら赤司から指を離した灰崎が、赤司の顔を覗き込む。
先ほどまでの爽やかな香りが一気に掻き消され、代わりに赤司の嗅覚を占有するのはむせかえるようなバニラの香り。
新たなる匂いを嗅がされ、赤司は瞬きを繰り返しながら灰崎を見る。

「…なんだ、これは」
「オレがつけてる奴だよ。待ってろ、そのうちオレと同じ香りに変わるから」
「これが?」
「そーだ。京都帰ったら毎日この匂い嗅いで馴れろ。そしたら」
嫌な香りが鼻腔をつく。思わず顔をしかめると、灰崎はますます嬉しそうな表情になり。
「次会った時、むちゃくちゃイイコト、してやっから」

嫌がらせとしか思えない提案に。赤司の機嫌は降下する。
だからここで赤司は敢えて、灰崎の矜持を傷つけそうな発言をひとつ試みた。

「必要になったら涼太の元へ行く。だからこの香水は要らないし、お前の提案は却下する」
「…オレが香水変えた理由知っててそれ言うか?お前、ホントいい性格してるよな」
「嗅覚の嗜好は重要なものだと知ったからね」
「あーそーかよ。だったらここで、記憶塗り替えてやらぁ」

帰宅の時刻は迫っている。二人が共にいられる時間はあと僅かだ。
だが赤司は、灰崎のこの挑発を真正面から受け止めて。

「長きに渡るこの記憶をたった一晩で塗り替える自信があるのならば、好きにするといい」

ほんの少しだけ、灰崎と共に過ごす時間を延長させる決意を固めた。











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