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▼ 10




紫原の留守中にオレの身に起きた変化の内容を、彼はオレから聞きだそうとはしなかった。
オレも打ち明けるタイミングを逃し続け、そのまま、六日目の夜を迎えていた。

夕食を終え、交わす会話の内容は他愛のない雑談ばかり。
明日の予定について話し合うこともなく、時間は刻々と過ぎて行く。

その中で大事な話を始めるきっかけを与えてくれたのは、オレの携帯を鳴らした高校のチームメイトからの着信だった。

「約束の一週間は明日で終わりだけど、征ちゃん、本当に帰って来てくれるの?」
「……信用がないようだな。どうした?」
「どうもこうも……。あんな試合の後で、征ちゃんに里心がついて、それで滞在を延期してるんじゃない?って噂が立ち始めてるのよ……。アタシは征ちゃんを信じてるけど、さすがに……寂しいわ」
「……そうか。他に部活で変わったことは?」
「征ちゃん不在の影響が強過ぎる以外に目に付くことは何もないわよ。……いまさら言うことでもないけれど、征ちゃん、アナタはアタシたちにとって必要な存在よ。だから……必ず、帰って来て」

チームメイトの切迫した声音が、オレの胸中を激しく揺さぶる。
覚悟を、決めなければならない。決着を、いつまでも先伸ばしには出来ない理由が、オレたちにはある。

「また明日、連絡する」

通話を切断し、オレは真正面に座る紫原の顔を真っ直ぐに見据えた。



テーブルに頬杖をついていた紫原は、オレの呼びかけに気のない様子で顔を向けた。

「……答え、出た?」
「あぁ。……随分と待たせてしまったね。この一週間、オレの願いを叶えてくれて本当にありがとう」
「……で?」
「明日、オレは洛山高校へ帰還する」

もう少し薄弱とした声が出るかと恐れていたが、意外にも、自分の耳に届くその声は毅然としていた。
その回答を受け、紫原はしばらく唇を結ぶ。そして。

「そう。だったらオレも、陽泉に戻るよ」
「東京駅までは一緒に行こう。新幹線まで、お前の荷物はオレが持つよ」
「……それは、やめたほうがいいかも」
「え?」
「だって、たぶん……、これ以上赤ちんと一緒にいたら、オレ、ギリギリのとこで、荷物ごと赤ちんを持ってっちゃうから」

頬杖となっていた右手を持ち上げ、その力強さを見せつけるように手のひらを開いた紫原に、オレは自分の決断を揺さぶられた。
「……どうせ、赤ちんはもう分かってんだろ?」
「紫原……」
「試合の次の日の打ち上げで、オレが赤ちんの隣に座ってたの、偶然だったと思ってる?あれ、わざとだよ。待ち合わせ時間より早めに店に着いて、先に端っこの席キープして、赤ちんが来るまで隣に荷物置いといて。向かいの席にミドちん呼んだのもオレ。そーしたら、赤ちんは絶対にオレの隣に座るって確信してたから」

あの席割に誰かの作為的な意図があったことは、想定外の事実だった。
オレが店に到着した時点で半数以上のメンバーが集合しており、ざわめく店内を進む中、誰に席を誘導されたかもろくに覚えてはいない。
すでにオレは「彼」の喪失感に襲われており、いくらか集中力を欠いた状態だった。

「……あれが、最後の機会だと思ってたんだ。赤ちんの近くで、赤ちんと喋れんの。だから、ギリギリまで側にいたいって思って、そうした」
「そう……だったのか?」
「え、気付いてなかったの?……ああ、そう」

オレの反応に、紫原は若干自らの告白を後悔するような表情を浮かべた。それは、秘めておきたい願望だったのだろうか。
だが、もう遅い。オレは知ってしまった。

いつしか共有していたその感情。それを先に有していたのが、紫原であったことを。

「……知ってて、利用されてたのかと思ってた」
「利用……か。そうだな、お前の気持ちを知っていたのなら、オレはもっと強かな態度に出ていたかもしれない」
「変だな〜とは思ってたよ。オレが赤ちんを秋田に連れてくって言ったとき、本気で困った顔してたし。そんなのすっぱり断って、逆に「お前がオレについて来い」くらい言われると思ってたのに」
「……その手があったか」
「……何その顔?言っとくけど、そんなん言われたって無理なものは無理って言ってたし。そこまでいいように使われてたら、オレ、さっさと赤ちんのこと見捨てて秋田に帰ってたから」

紫原の感情を見抜き、それにつけこむことで、自分の立場やプライドを一切傷つけることなく彼を懐に仕舞い込む方法はあった。だが、それを素直に享受するほど紫原の自我は明解ではない。
プライドの高さは、今までオレと関わりのあった人間の中でもトップクラスであることは間違いない。
もしもオレのメンタルが安定しており、紫原の些細な言動からオレへの好意を悟り、確信していたとしても。オレが何も失わずに紫原を得ることは、不可能だっただろう。

チームメイトに怠惰を疑われてまで紫原がオレの側に残ってくれたのは、オレの精神的な衰弱が本物であったためだ。
そしてそれが、永遠に続くものではないということも、紫原は理解していた。

「ちょっと時間が経てば、いつもの赤ちんに戻って、しれっといなくなるんだろうなって思ってた。だから、そーなるまでは適当に恩着せて言うこと聞いて、ついでにこっちが快適な生活出来るように使ってやろうって思ってた」
「あぁ。……随分と遠慮なく要請を重ねていたね」
「便利だったよ。赤ちんちのフロ広くて快適だったし、頭洗ったり背中流してくれるし、メシも上手いし、ベッドもふかふか。この怪我で何事もなく部活に戻ってたら、毎日雅子ちんにガミガミ言われてたかもしれないけど、赤ちんは甲斐甲斐しく世話してくれるだけでうるさくなくて良かった。……筋トレのときはしんどかったけど」

荒木カントクよりも厳しいと評したその時のオレを思いだしたのか、紫原の表情が僅かに歪む。
反対にオレは穏やかな気分で笑い、自らの気持ちの一端を明かした。

「トレーニングメニューの設定はお前の中学時代の様子を顧みて行ったに過ぎないが、やや口うるさくなったのは、……お前が、オレと荒木カントクを比較したからかもしれないね」
「え……?オレ、そんなことした?」
「お前が言ったのだろう?彼女の名前を出したときのオレは怖い目をしていたと。そうだよ、紫原。オレはあの時、荒木カントクに嫉妬をした。離れていて、姿を見せていなくとも、お前の意識に易々と登場し、名前を口に出させた彼女にね」
「……うそでしょ?」
「さらにお前は彼女程度の厳しさであればまだ引き取り手がいると言ったが、オレのそれに耐えられるのは、……自分しかいない、とも口にした。そんなことを言われれば……、期待に応えたくなるのは、当然だろう?」

紫原の両目が見開かれ、自分の明け透けな発言にやや羞恥を覚える。
だが視線を逸らすことはせず、続く言葉を用意する。

「そしてオレは、お前の肉体に自分の痕跡を残したかった。安静期間である今、過度なトレーニングを課し、実行させることで、この先お前がこういった状況に陥った際にこの日々を思い出せば良い、と。負傷明け、ハードなトレーニングの最中でも、オレに強要されたことを思えば大したことはないと。その意識をお前に刻み付けることで、オレはお前の中に、……残ろうとしていた」

浅ましいこの欲望を耳にした紫原は、今何を考えているのだろう。
この時は、彼の思考が自分のそれと繋がっていないことに安堵を覚えた。
相手の感情を完全に読み取ることが出来ない。だからこそ、オレは遠慮なく自らの感情を形にすることができる。

「その傾向は、お前の髪を切ったときに顕れたものだ。自らの指でお前の容姿に変化を加えることで、強い安心感を得られた。……思えば、オレが「彼」への執着を薄められたのは、あれがきっかけだったな。個別の肉体を持たない「彼」にそうすることは出来ないが、お前にならば、……たとえ、いずれ遠く離れた場所に向かうと分かっていても、目に見える形で自分の痕跡を刻みつけることができた」
「……この頭、黄瀬ちんに好評だったよ。あいつ、オレの髪がここまで短くなってんの見たことなかったって言ってさ。どこの美容院でやったの?って聞かれたけど、赤ちんにして貰ったって言わなかった。教えてたら黄瀬ちん、赤ちんに髪切ってって頼んでたかもしれないけど……。そうなったら、引き受けてた?」
「断っていたよ。オレは美容師ではないし、……お前の髪を切るのには難儀した。失敗が許されない、というプレッシャーは、お前相手だったから跳ね除けられたんだ」
「オレだったらミスっても許してくれるって?……甘く見られてたんだね〜?」
「違うよ。責任を分担して貰っていたんだ」

切ってしまえば簡単には元の状態に戻せないものに、ハサミを入れることへの責任。
そして、オレの手を信頼し、無防備に身体の一部を委ねることを容認する責任。
紫原の髪型がオレに示すのは、その事実だ。

「お前の髪を切ることで、オレは「彼」に代わる存在を得られた。あのまま、黙っていてくれたらオレは晴れて人格統合の影響をやり過ごし、元の生活に戻れるはずだった」

「彼」が自分の中にいなくても、オレの手が加わった紫原がこの世界に存在することで不安は薄まり、平穏な暮らしを送れる。そんな予感を抱いていた。
だが、紫原はそこまで大人しくはなかった。オレの思惑を裏切り、時間の経過によって癒されるはずだったオレの傷口を、力任せに抉じ開けてきたのだ。

オレが「彼」のことを忘れていた、と指摘し、忘れろ、と敢えて強要したことでオレの意識は強い反発を覚えた。
あれほど長くオレを支え続けてくれた存在を忘れるなどという非道なことは行えない。
薄れつつあった感情が浮上した瞬間、紫原は容赦なくオレの弱さを指摘した。
そして、「彼」がいてくれた頃は思いつきもしなかった類の充足感を、オレに知らしめた。

弱く在れば、他人の助けを得ることが出来る。
ならばオレは、「彼」への依存を忘れることなく。このまま、紫原を「彼」の代わりに据え、物理的に近距離に居続ければ。それはこの上なく、幸福なことなのではないかと。


「……あれ、やっぱ本気だったんだ。……失敗したな〜…」
「……どういうことだ?」
「嘘じゃないのは分かったよ。でも、一時的な気の迷いって奴かなって思ったんだ。赤ちん、本当におかしかったし、明日の朝には自分が言ったこと全部忘れてけろっとして、そんなことは望んでない、とか言いそうだし。……契約文書でも作ってサインさせときゃ良かったな」
「随分な疑われようだけど、……突き放したのはお前だ」
「そーだっけ?……いや、だってさぁ、ムカつくじゃん。態度は健気で弱弱しかったけど、言ってることは、赤ちんの別人格の代わりになれってことじゃん?んなの、冗談じゃねーし」

それが紫原の逆鱗に触れていたことは、今の今まで知らずにいた。
心底面白くない、といった表情で紫原は口にする。

「オレの気持ちも知らないくせに、ずけずけと無防備な顔しちゃってさ。他の親切な人だったら赤ちんに同情して言うこと聞いてたかもしれないよ?でも、よりによってオレにそんなこと頼むか?っていう」
「……お前の気持ちを知らないからこその嘆願だったのだが」
「うん、あの時気付いた。赤ちん、何も分かってねーなって。オレがどういう気持ちで赤ちんの言うこと聞いてあげてたのか、全然。……今思えば、あの時の赤ちんは自分の事でいっぱいいっぱいで、オレのことなんか考えるヒマもなかったんだろうけどさ〜」
「よく分かっているじゃないか」
「ぬけぬけと言わないでよ……。オレ、本当にきつかったんだよ?……あんな簡単に赤ちんにキス出来ると思わなかったし、本当は、もっと……やってやろうかって思ってた」

警告のキスの後、紫原ははっきりと言っていた。
自分は、我慢をしていると。このままでいたら、さらに嫌なことをしてやると。
それで困るのはオレだ。だから、「彼」の代わりを求めるのならば、他の。「彼」同様に自分の中に作り出した新たな人格にしろと、紫原がオレを突き放したその意図を。

今のオレには、はっきりと見通すことが出来た。

「……あの言葉には、随分と悩まされたよ。一晩中眠れなかったんだ。お陰で翌日は、お前にひどい失態を見せてしまった」
「人のせいにしないでよ……。自分のことじゃん」
「そうだね、反省はしている。それに、……きちんと結果は出したよ」

紫原に言われたとおり、自分一人で考え抜いて答えを出した。
他人に助言を求めることなく、「彼」に確かめることもなく。まして、新たな人格を生み出すこともせずに、オレは自力でそれを見つけた。

そして、今からオレは絞りだしたその答えを、質問者に返却し。
正解か、不正解か。照合を始めよう。

「紫原」

声音を改め、彼を呼ぶ。
紫原の表情に緊迫感が走る。
分離した固体であっても、その空気はオレの神経にも過敏に伝わり。やや鼓動を逸らせながら、次の言葉を捻り出す。

「オレの中に、「彼」はいない。今のオレは自分一人の意思で言葉を発し、オレの耳に届くのはお前の声だけだ。形骸化して証明することは出来ないが、……信じてくれ。この発言の責任のすべては、オレひとりにある」

念じるだけでは伝わらない感情を、言葉に、そして眼差しに込め。
「彼」にも。「彼」の代わりとして見ていた紫原にも。抱く事のなかった想いを、紫原敦という名の精神と器にすべて注ぐ。

「オレは、紫原が好きだ」


難解な言い回しも、重厚な理由付けも、オレには必要なかった。
対面する相手に抱いた想いは、純粋でシンプルなこの言葉以外に表現できる形はない。












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