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▼ 9





紫原の携帯に、荒木カントクから連絡があったのはその日の夕食後のことだった。
通話を終了した紫原は、やや浮かない表情でいる。空いた食器を片付けながら、「どうした?」と訊ねてみれば。

「ん〜……なんかさぁ、毎日聞いてた雅子ちんの声を久々に聞いたじゃん?そんで……」
「……彼女を、恋しく感じてしまったか?」

紫原に限ってそんなことはないだろうと踏みながらも、トレーニングの合間に彼の口から荒木カントクの名が出されたときのことを思い出す。
紫原の言う「怖い目」をしてしまっていないかどうか気にはなったが、それは目を伏せることで回避した。

「逆だよ、逆。……こないだ電話した時より怒ってる」
「……帰還を要請されたのか?」
「それもちょっとあったけど、一応まだ一週間経ってないし、帰らないことは大丈夫そう……だけど、……病院、何回行った?って」
「あぁ。……そうだな、明日あたり一度、通院した方がいい」

試合当日、試合後の足でレントゲン撮影を含む診断、および固定処置を施されたことは聞いていた。
だが、彼が以降の通院を行っていない理由は誰よりもオレが良く分かっている。ここに、いるからだ。
荒木カントクの指摘がなければ、この一週間一度も通院しないままでいたかもしれない。ちょうどそれが必要な頃合に、それも、絶対に紫原が怠っているであろうことを見越した上での連絡には舌を巻く。

「お前のことをよく分かっている。細かなところに気のつく、いいカントクじゃないか」
「赤ちん、雅子ちんのおっかなさ全然知らないじゃん……。あの人、あんな美人だけど元暴走族なんだよ?竹刀振り回して追っかけてくる時とか、マジ怖いんだから〜…」
「竹刀……か」
「あ、待って!赤ちん、武器に興味持たないで!」

日常生活であまり手にする機会のないものに気を惹かれて呟くと、焦った表情で制止を掛けて来る紫原が、オレを彼女よりも厳しいと評していたことを思い出す。それほど、竹刀と言うものは人間の恐怖心を煽る道具なのだろうか。

「冗談はさておき、今のうちに病院へ予約を入れておけ」
「んー。赤ちんはどーする?」
「オレは食材の買い出しにでも行く。……もう少し備蓄出来ていたかと思っていたのだけどね」

今晩の夕食の調理を終え、冷蔵庫の中の食材の少なさにやや驚愕した。
紫原の菓子類はそれほど減っていないが、この分だと明日の朝食でほぼすべての食材を使い切ってしまいそうだ。

「病院、ついて来ないの?」
「え?……いや、必要ないだろう」
「ふぅん……。まぁいいけど。……そんじゃさ、赤ちん、オレの診察時間に合わせて病院来てよ。その後一緒に買い物行こう」

診察、と言っても、紫原の負傷は固定処置以外に施すことはない。
せいぜい患部の状態を確認し、経過を診る程度でレントゲン撮影すら行うこともないだろう。それにオレが同行する必要などないと思い断ったが、続いての提案は紫原の意図を正確に読み取れた。

「そうだな。オレの外出中にお前が帰宅した場合、家の施錠を解くことが出来ない」
「そうそう、オレ、外で待ってんのヤだからね〜。終わったら電話するから、早めに来てよね」
「分かった」
承諾し、重ねた食器を手にダイニングを後にする。
紫原の診察時間は、午前中に決定した。




あの時、紫原の通院同行をオレが拒否したことに彼が驚いていた理由は、翌日、出発する彼を玄関先で見送り、ひとりリビングに足を踏み入れた際に唐突に判明した。

「……こういうこと、か」

彼がオレの判断を確認してきたのは、こうなることを予知していたからだ。
たった今まで紫原がいた空間に一人で立つ。それにより、オレは急速に孤独を意識し始める。

四日が、過ぎていた。
この間、オレの視界には常に紫原の姿があった。就寝時やトイレに立った際は一時的に視界から消えることにはなったが、同じ家屋に存在する気配は片時も離れず。すっかりとこの環境に馴染んだオレは、五日目の今日、容易く紫原の出発を許可してしまったことを早くも後悔し始める。

今なら間に合う。追いかけて引きとめようか。
あるいは昨晩の判断を覆し、彼の通院に付き添うべきか。
考えている間にも、紫原はどんどんオレの側から遠ざかってゆく。

衝動的にジャケットを掴み、玄関へ足を向けた。
しかし、靴を履く寸前にオレの思考が動きだす。

どくん、どくん、と異様に肥大化した心音が鼓膜を打つ中、オレは今の今までこの状況を察知できなかった自分の変化に気がつく。
数日前のオレであれば、紫原が通院をすると言った時点で今のような状態になっていただろう。彼がオレの側から離れることに不安を抱き、恐慌し。必要な外出と分かっていても、止めた。もしくは、自分から同行を願い出ていたはずだ。
だが昨晩のオレは、当たり前のことのように紫原の外出を許可し、別行動を断言した。それは、この孤独感をまったく予知できなかったわけではない。

順応が、始まっている。
「彼」のいない状態に。

オレはそれを当然のことと受け入れ、ここで、一人で待つことを自然と感じていた。

目に見えない変化。それに気付いた瞬間、愕然として閉じた玄関の扉を見詰める。
しばらくそうした後、オレは身を反転させリビングに引き返した。
ソファーに座り、携帯を握り締める。紫原が出て行ったのはつい先ほどだが、早くも彼からの連絡が待ち遠しい。あまり良い精神状態ではないが、それでもオレは彼を追いかけることも、自分から彼に連絡をすることも行わず。

静寂に包まれた室内で。
ひたすらじっと、携帯のバイブレーションの作動を待機した。




それは、一時間にも満たない僅かな時間だった。
だけどオレは、永遠のような長さを感じていた。

突然、手の中で震えた携帯に全身を揺らし、慌ててディスプレイを確認する。求めていた名前が表示されたことに安堵し、通話ボタンに手を置いた。

「もしもし?赤ちん?いま終わったよ〜」
「……」
電話越しに聞こえるその特徴的な間延びした声に、思わずオレは声を詰まらせる。
孤独と静寂の中で何度も脳内に響いていたものと同じ声だ。オレはずっと、この声を待っていた。
「赤ちん?聞こえてる〜?」
「あ、あぁ……。すぐに、そちらへ向かう……」
「……どうかした?声、震えてっけど」
鋭い指摘を受け、ぴくりと指先が痙攣する。なぜ、バレてしまったのだろう。

「……やっぱ、寂しかった?」
「え……?」
落ち着きを与える穏やかな声が、オレの状況を言い当てる。
紫原は、分かっていたのだ。オレが、今のような状態に陥ることを。おそらく昨晩のうちから、ずっと。
「昨日は全然平気って顔してたのに。実際に一人になると、やっぱきついんだ〜?」
「いや、オレは……」
「しょうがないね、赤ちんは。……でも、安心してよ。それ、赤ちんだけじゃなかったっぽいし」

紫原が予知できたことを、オレ自身が見通せなかった。その事実に羞恥と失望を感じ、対面していないことをいいことに言い訳を繰り出そうと試みた。だがそれは、紫原が続けた発言によって無に帰される。

「紫原……?」
「オレも、今日はちょっと、寂しかった」

どうして、お前が?
そんなことは、今までなかった。
オレと紫原は別の進学先を選んだ。中学時代とは異なり、生活の場も変わり、元チームメイトたちの誰よりも遠い場所でそれぞれの生活を送っていた。
その間に紫原がオレを思い出したことなど、数え切れるほどであろう。
オレだってそうだ。こんな状態になるまでは、紫原を意識して記憶から呼び出したことなどあまりない。

「なんでだろうね〜?……一緒にい過ぎて、赤ちんのが感染ったのかな?」
「……あるはずがないだろう、そんなこと」
「分かんないよ〜?毎日同じごはん食べて生活してると、そのうちに顔が似てくる例ってあるって言うし?……オレはさ、移動中も、診察待ちの間も、診察受けてる時だって……ずっと、赤ちんのこと、考えてたよ」

対面していない、という状況を有効利用しているのは、オレよりも紫原のほうかもしれない。
どうしてこんなにも饒舌に、本音のような発言ができるのか。その理由は、これしか思いつかない。

「ひとりで大丈夫かな?って心配してた。いつ、早く帰って来いって電話来るのか、ひやひやしてた。それから……」
電話を耳に当てながら、外出に失敗した際に放り出したジャケットを片手に掴む。
紫原と違い、両手が自在に扱えることを幸運に感じた。
「それから?」
「……ひとりで大丈夫だったら、ヤだなって。……そういう心配もしてた、よ」
玄関に移動し、迷わず靴を履く。
扉に手を掛け、言い返す。
「大丈夫では、なかったよ」
紫原の心配を除く言葉を、オレは持っていた。
「不安で不安で、仕方がなかった」
「へぇ〜、赤ちんも?」
「そうだ、……オレも、お前と同じで」
玄関の扉を開け、視界を覆うまばゆい外の光に目を瞑り。

紫原とオレが共有している感覚を、唇から外へ放つ。

「早く、逢いたい」




視認不可能な感情を、言葉と言う形に変えて表現することによって、絶望的な喪失感が別のものと差し代わる。
孤独や静寂に怯え、恐れていた事実もあった。だが今は、それらすべて。

顔を見て、声を聞き。
指で触れて、香りに包まれ。
紫原の些細な言動に振り回され、紫原の心を掻き乱したい、という欲求に書き換えられた、今のオレは。

「……もう、大丈夫だ」

自信を持って、宣告する。

オレは、弱さを克服した。






病院の通用口に佇んでいた紫原の姿を確認すると、自ずと安堵の笑みが零れた。
近付き、名前を呼ぶ。紫原と視線を交わす。

「待たせたね、行こうか」
「ん。……ねぇ、赤ちん」
「オレに関する話は、帰宅してからでいいか?」
「……いいけど。……先に一個だけ確認しといていい?」
「なんだ?」
「それって、悪い話?」
どこか心許ない表情を浮かべている紫原に、笑みを保ったまま首を振る。
「そうだな……。オレにとってはこの上なく良い話だが、……お前にとってどうなのかは、分からない」

何しろ、お前とオレは別の肉体、別の感覚を有している。
紫原が何に対し喜びを得て、何に対し絶望するのか。オレに、その判断を下すことはできない。
オレに見通すことが出来るのは、オレ自身の感情、そして欲求だけだ。

今となっては紫原を「彼」の代償と考えることは不可能だ。
その役割を担うことが出来るのは、紫原ではなく。「彼」を精神の一部として迎え入れた、オレ自身だった。

「怖いな〜……」
「それよりも紫原、診察はどうだったんだ?」
「ん〜、なんか、尋常じゃないくらいに治りが早いって。骨もズレることなくくっついてるし、無茶なことしないで安静にしてれば予定より早くギプス取れるんじゃない?って言ってた〜」
「そうか。それらならば、ひと安心だな」

これまではあまり気に懸けることの出来なかった紫原の治療経過が良好であることを知り、心から安堵する。
明日でちょうど、試合から一週間が経過する。あの激闘が残した傷は、少しずつ回復に向かい。
いずれはその身にすっかりと馴染むのだろう。

「まぁ、ギプス取れてからが大変だってことも言ってたけどね……」
「……そうだな。傷の修復期間よりも、休ませた負傷部位の筋力を元に戻し、機能回復に努める期間のほうが長い」
「気が重いな〜。……あ、でも、赤ちん知ってた?骨折を繰り返すと骨自体が太くなってパワーアップするって……」
「残念ながらそれは迷信だ。骨が太くなるのは一時的なものであり、どれほど適切な処置を行っても元の状態以上に強靭になることはない」
「えっ、そうなの……?…やっぱ黄瀬ちんの言うことって信用ならないな〜……」
「負傷でその部位を強化することは出来ないが、別のところを鍛える機会は得られるよ」
「え〜?どこが〜?」
「痛みと、長期に渡る生活の不自由さ、そしてリハビリ訓練の辛さに打ち勝つ精神力だ」

精神の強さについてオレが口にするのはやや面映ゆい気持ちもある。
だが、紫原は一瞬虚をつかれたような表情を浮かべた後。

「痛いのも辛いのももう嫌だけど、……不自由なのは、そんなに悪くもなかったよ」
「そうか?」
「うん、まぁ、今回は……、献身的に世話してくれる人がいてくれたからかもだけどね」

右手で自分の髪を摘み、その体に残された「献身的な世話」の証を示す紫原には、今のところ恐れるものはあまりないのかもしれない。





今回はきちんと二日分の食材を計算して買い込み、自分の両手、そして紫原の右腕を酷使して大量の買い物袋を実家に持ち帰る。
病院のロビーに設置されたテレビで明日の天気予報を眺めていたという紫原の言によれば、明日はあまり天候が良くないらしい。何をするか、予定は決まっていないが、昨日のように屋外トレーニングに没頭するのは難しそうだ。

そんなわけでオレは帰宅早々、紫原を、屋敷内にある一室へ案内した。

「……ちょっと待って、何この設備。普通に……ジムじゃん?」
「スポーツジムほど機能的な設備は揃っていないけれど、ある程度のトレーニングは可能だ」
「これ、赤ちん専用?」
「いや?元々は、父が自分用に誂えた部屋だよ。あの人も、年齢による肉体の衰えを気に懸けてはいたらしいが、オレが中学に進学してからはほとんどこの部屋に足を運んでいる様子はなかったな。今も頻繁に使用している形跡はないしね。さて……」

ジャケットを脱ぎ出したオレの隣で、紫原は狼狽の表情を見せた。
この簡易的なトレーニング設備が整った室内でオレが何を始めるのか。考えなくても分かるだろう。

「あの、赤ちん……。オレはこの腕だし、安静にしてた方がいいんだよね?」
「なぜだ?昨日あれだけトレーニングをしていても、治療経過は良好だったのだろう?それに、休む期間が長ければ長いほどリハビリに費やす期間も延びることになる。負傷部位を休ませる必要のある今こそ、全身のトレーニングをまめに行っておけば、回復後のリハビリはその部位だけを集中的に行える。だから、」
「分かったよ、付き合えばいいんでしょ〜……。…ほんと、赤ちんって甘くないよね……」

今日も、そして明日もオレたちは有意義に時間を使うことが可能だ。
トレーニングを終え、食事を済ませ、入浴後はしばしの間を勉強時間に費やして。
限りなく日常に近い生活を、ふたりきりで過ごすことが出来たのなら。


その先に待つ別れの時も、さほど怖くはないと自分に言い聞かせた。











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