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▼ 5





笑い話にもなりはしない。
結局彼は、オレが何を言おうと先の未来のことなど深く考えはしないのだろう。

「……誰が、救うものか」

紫原に入浴を促され、顎まで湯船に浸かった状態でオレはぽつりと口にした。
浴室の壁は発せられた音をよく拾い、反響させる。誰に向けるでもなく呟いた自分の声は、自分の耳に届くのみ。
リビングにいる紫原にはもちろん、誰にも聞かれることはない。

「オレの側にいるのなら、お前を、他人の救いが必要な状態にさせるはずがないだろう……」

紫原が予備の道をそれと定めるつもりなら。
路頭に迷って援助を請う。そんな惨めな男に、オレはさせない。




いつになく長めの入浴を終えたオレは、リビングの戸を開けてしばし言葉を失った。
そこには、先ほどと変わらず紫原がいる。彼の髪が短くなっていることを改めて目の当たりにし、一瞬視線を奪われた。

「あ、赤ち〜ん。ずいぶん長湯だったね〜?」
「……あ、あぁ。少し考え事をしていてね」
「えー、それ、オレの将来のこと?もういいよ、オレ、さっき言ったのでいーや」
「……良くないよ。他人に依存して生きて行く、なんて最も最悪な考え方だ。せめて自立の道を選んでくれ」

容姿をがらりと変えた紫原は、口を開けば何も変わっていなかった。
そのことに安堵と落胆が入り混じった奇妙な感情を抱きつつ、彼の側へ歩み寄る。テーブル上には、入浴前に用意しておいたオレの教科書と参考書が開いた状態になっていた。

「へぇ……目を通していたのか?」
「赤ちんが見るだけ見ろって言ったんじゃん。……ていうか、赤ちんマジで勉強してんの〜?教科書も参考書もキレイ過ぎない?」
「それほど熟読するものではないからね」
「いや、てゆうか……、普通さ、マーカー引いたり書き込みしたりしない?ラクガキがないのはいいけど、これ、使ってる形跡が全然ないんだけど……」

開いたページを指差し、紫原はオレへの不信感を露にする。
どういうことだ?と答えに窮したが、すぐに理解する。そういえば、中学時代に別のクラスのバスケ部員に教科書を貸した際、授業範囲であろう数ページに蛍光マーカーでラインを引かれたことがあった。
彼は返却の際に、「悪ィ、お前の教科書だっつーこと忘れてた!」と謝罪をしてきたが、そうか、あれが教科書を使用した形跡というものだったのか。
てっきり、授業中の手慰みに線を引いていただけかと思っていた。

「小学校のとき習わなかった?大事そうなとこにはしっかりライン引いとけって」
「習わなかった……な。必要性も特には感じない」
「え〜、でも、先生が言って来ない?テストに出るからちゃんと……って、そっか、赤ちんって……」
「教科書に記載されている事柄はどれもテストに出題される可能性のあるものだと認識していたからね。全行に目を通せば、いちいち抜粋せずとも対策にはなる」
「はいはい、天才天才〜。…そりゃ、教科書もキレイなまま捨てられるわけだ」

どことなく皮肉を込めたような紫原の声音に若干気を害すが、言い返すことはなく紫原の手から参考書を引き取り、これ以上の問答に応じない姿勢を見せる。
それを機敏に感じ取ったのか、紫原は教科書の美醜とは別の話題を口にした。

「赤ちん、問題集とかも課題以外はやってなかったよね。書いて覚える、とかもなかった?」
「暗記は目視だけだが、計算式を必要とする科目ではノートを使っていたよ」
「それ。今も持ってる?」
「……中学時代のものならば自室にあるけど、……出せと言うのか?」
「うん、見たい。赤ちんのキレイな字」

無意味で面倒な要求を口にした紫原に、思わず心の底から嫌だという感情を表に出してしまう。
しかし紫原はすぐに妥協案を提示してきた。

「じゃあノートはいいや。ここに、何か書いてよ」
「……どうしてもオレの教科書を汚させたいつもりか?」
「そうじゃないけど〜。あ、でもそれもいいよね〜。赤ちん、オレのために赤ちんのまっさらな教科書汚してみて〜?」

甘えた口調で強請る紫原の意図は不明だが、それは特に聞けない要請でもない。
ペンを手に取り、紫原が適当に開いたページの空白部分にペン先を押し付ける。

「何を書けばいいんだ?」
「何でもいーよ。自分の名前でも」
「……」

字が見たい、というのは本心なのか。それ以外の目的は本当にないのか。
疑問に感じながらも紫原のリクエストに添い、自分の名前をそこに記す。
「かっこいー名前だよね、なんか、師範っぽくて」
「どんなイメージだ…。古風とは、良く言われるけれど」
「ああ、そう、古風。この名前ってさ、小さい頃なんで渾名で呼ばれてた?」
「渾名……?……覚えてないな」
「うっそ、じゃあお母さんからは何て呼ばれてたの?」
「征十郎、と……。それ以外、どんな呼び方があると言うんだ」
「あるじゃんあるじゃん、征くんとか、征ちゃんとか?あとは……ないか」
「征ちゃん、と呼ぶ人は同じ高校にいるよ」
「えっ?!いんの?!」
「彼は誰に対してもそんな呼び方だ。……そうだな、ファーストネームを渾名で呼ぶ人間は、彼くらいなものだ」

かのセンパイがオレをそんな渾名で呼ぶようになったのは、いつからだっただろうか。
特に違和感を覚えた記憶はない。自己紹介で名乗った時点で、すでにそう呼ばれていた可能性が高い。

「征ちゃん……、そっか、赤ちん、ちゃんと後輩やってんだね〜」
「たかだか名前の呼び方だろう。……ちゃんと後輩をやっている、というのはどういう日本語だ」
「えー、重要だよ〜。オレが赤ちんを征ちゃんって呼んだらむっとしない〜?」
「……」
「しないの?呼ぶよ?明日から赤ちんって呼ぶのやめて、征ちゃんって呼んじゃうよ〜?」
「それは……頼む、やめてくれ」

初対面の頃からそう呼ぶ相手とは異なり、紫原にその呼び方をされるのは、やはり嫌だ。
と言うよりも、いまさら呼び方を変えられるのは。……少し、戸惑う。

「今まで通りでいい」
「赤ちんはオレの呼び方ころころ変えてたのに。……あぁ、それ、違う人が使い分けてたんだ?」
「……っ」
「赤ちん?」

唐突に紫原が「彼」の話題を切りだしたことで、意識を弾かれた感覚に陥る。
そんなオレに紫原は怪訝そうな視線を送り。

「今の、何かまずかった?」
「……いや、何でもない。……」
「……まだ、引きずってる?」

はっとして顔を上げ、紫原の双眸を凝視する。
まるで違和感のない流れだった。在り来たりの会話をしていたはずだった。それなのに、紫原は、何時の間に?

「敢えて、……訊ねたのか?」
「え?何が?」
「……」
ある疑問を持って質問する。だが紫原の反応は疎い。わざと、ではなかったと言うのか。
「……紫原、オレは今」

まだ、二日だ。
「彼」がオレの中から消滅し、強烈な喪失感に自我を失いかけたのは、数えられるほど近い過去のこと。それなのに、先ほどのオレは。

「ビックリしてたよね〜。……さっき赤ちんが思ったこと、当ててみせよっか?」
「……」
「「あ、忘れてた」でしょ?そーゆう顔してた」

聞きたくなかった。だが、紫原は躊躇うことなく断言する。
彼は見事にオレの胸中を言い当て。そしてオレの抱いた疑問を解消した。

「わざとじゃないよ、オレは全然意識してなかった。元々気を遣うつもりもなかったし?……ただの話の流れに、赤ちんが勝手にビックリしただけ〜」
「そう、か……。そうだな…。お前がオレを試すような真似をするとは思えない」
「まぁね…。つうか、そーゆうたくらみ持ってたら言う前に赤ちんにはバレるっしょ。偶然だよ?……でも、いい機会だから言っとく」
「……何だ?」
「忘れても、いんじゃない?」

先ほどまでと異なり、オレは「彼」の喪失を再び強く感じてしまった。
そんなオレの胸中をどこまで把握しているのか。紫原は造作ないことだと言わんばかりに軽く言い放つ。

「実際、オレが話題に上らせなかったら赤ちん忘れたままでいたよ?」
「忘れる……?そんなことは……」
「出来ないの?赤ちんのくせに?」
「……オレを買い被りすぎているよ、紫原」

紫原の眼に過去のオレ、そして現在のオレがどのように映っているかは測り知ることは出来ない。
自分自身のこととして確実に言えるのは、今のオレは。

「それほど強くはない」
「……へぇ。そんなこと言うんだ〜?」
「本当のことだ。オレは、「彼」の消失を意識するだけで、こんなにも……」
「……ふ〜ん、じゃあいいよ。まだ未練残しとけば?」
「……」

紫原の提案を拒絶すれば、彼はあっさりと引き下がる。
最初から、そこまで深追いするつもりはなかったのだろう。顔を俯かせ、その呆気なさに少しばかり落胆する。
……落胆?

「どうせまだ二日目だし。リハビリ期間は五日も残ってるしね〜」
「……リハビリ、か」
「忘れたの〜?なんでオレがここにいるのか。赤ちんが言ったんだよ?一人でいるのに馴れるまで、オレに、側にいて欲しいって」

落とした視線を持ち上げ、再び紫原の顔を見詰める。
至って真顔な彼は、軽くまばたきを行い。それから口元を緩ませ。

「しっかりしてよね〜、赤ちん。そんなんじゃ、本当に秋田に連れてっちゃうよ〜?」


見せつけられたやわらかい眼差しに、複雑な感情を得た。
「彼」のことを忘れるには、今のオレでは未熟だ。馴れるまではもう少し時間が掛かるだろう。
時間を掛け、紫原のサポートを受けながら過ごしていれば、自然と以前の自分に近い状態に戻れると確信はしている。いや、「彼」の精神力を吸収したのなら、以前よりも強靭なメンタルを有する存在になれるだろう。

だが、その時オレの側にこの男はいない。
おそらくオレは、自ら彼のサポートを断ち切り、復調の証明を行うだろう。
『もう一人で充分だ』と。
自分の中で折り合いをつけ、紫原を元の環境に還し。
「彼」と共に在ったことさえ忘れ、すべての責任を一手に引き受け。それでも問題なく歩ける強さを手に入れることだろう。

しかし、今のオレは。
孤独であることに不安を感じ、他人の助けを求め、衰弱したメンタルを持つ弱いオレは。


「なぜ……、満たされているのだろう?」
「え?」
「紫原、オレは、」

このまま。
「彼」の消失に順応できず、「彼」の影を追い求め。
「彼」とは異なり個別の肉体を有する紫原の手に縋り、他愛無い会話で笑い、視線を合わせ、自在にその体に触れることのできる今のまま。

いつまでもこうしていたいと、願ってしまっている。

「……すべてを捨て、ずっとお前の側にいられたら、と……。そう、考えてしまう」
「……そう」
「紫原、もしもオレがそれを叶えようとしたなら、お前は……」

本当に、受け入れてくれるのか。
お前の住む街へ、連れて行ってくれるのか。
ならばオレは永遠に、臆病なままでもかまわない。

「……マジで弱りきってんね、赤ちん」

顔から笑みを消した紫原は、低い声でそう呟く。
「連れてって欲しいって言うなら、べつにいいよ、全然連れてく。……でも、本気でそれでいいって思ってる?」
「え……?」
「……赤ちんが、オレを、もう一人の赤ちんの代わりにしたがってんのは分かったよ。そうだね、ずっと側にいるってなら、そうするしかないよね。だけどさ、そしたら……、赤ちんは何で消えたの?」
紫原は、オレと「彼」の区別を示すことはしない。
だが、消えたのは「彼」だ。オレに問われても困る、と顔をしかめるが、紫原の追及は止まらない。
「自分がいなくても大丈夫だって思ったからじゃないの?」
「……あの時のオレはそう思っていたよ。チームの勝利のためにはそれしかないと……。だが、オレにはやはり、「彼」が必要だ」
「そう。だったらまた新しいの作れば?」
「え……?」

思わぬ提案に目を瞠る。
新しい人格を、……作る?

「それは……」
「一度出来たんだから頑張れば何とでもなるんじゃない?一人が寂しいなら、同じの作りなよ。そしたら今まで通り、赤ちんは二人でいられるよ?」
「……紫原」
「その方が絶対ラクだよ。だってオレは、赤ちんの心の中なんて見れないし」

平時よりも早い口調で捲くし立て、紫原は突然オレの頬に自らの手のひらを押し当てた。
急に触れた感覚に、思わず肩を竦める。紫原は、真っ直ぐにオレの眼を見据えて続けた。

「いま、なんでオレが赤ちんに触ったか分かる?分からないっしょ。別の体だもんね、オレたちは。ほかにもオレはいま赤ちんに何かしようって思ってるよ。何だと思う?当ててみてよ」
「……分かるわけがないだろう」
「だよね。で、これでいいの?これで、オレに代わりが務まるの?」
「……」
「ほら、とっとと新しいの作りなよ。そんで安心して安全な場所に逃げてよ。……じゃないと、オレは赤ちんに」

紫原の親指の先が、オレの唇を掠める。
まばたきもせずに凝視していた彼の顔が、視界から消えた。そして。





「……いい?赤ちん」

触れた唇を離し、至近距離に据え置いたまま。紫原の低い声はオレに警告を与えた。

「いま、オレ、かなりガマンしてるよ。このままオレの側で弱気なこと言ってたら、赤ちん……まんまとオレに、嫌なことされるから」

視えない。読めない。紫原の本心が。
そして、オレ自身の感情も。

「……ごめん、やっぱ今日は先に寝る。赤ちんは一人でちゃんと考えて」

「彼」はいない。
その代わりの存在も、オレの前から消えようとしている。

「明日の朝、オレが要らなくなったらはっきり言って。……おやすみ、赤ちん」


頬のぬくもりが消え、視線を外した紫原がオレに背を向けた。
僅かに右手が動き、無意識に彼を引きとめようと伸ばしかける。
だが、その手は紫原を掴むことはないまま。


彼の姿は、ドアの向こうに消えてしまった。












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