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やや支度に張り切り過ぎてしまった朝食をすべて平らげた紫原は、満足そうに「ごちそうさまでした」と口にした。

「美味かった〜。赤ちん、料理上手じゃん?」
「この程度であれば造作ないことだよ。ただ、冷蔵庫の食材を使い尽くしてしまった。日中は、買い出しに行って来る」
「オレは?」
「ここで休んでいて貰って構わないけど……」
「え〜、一人でいたってヒマじゃん。オレも買い物付き合うよ?」

面倒を嫌う紫原にしては意外な申し出を受け、やや驚きながらも承諾する。
ここしばらくは平時の部活動よりハードな練習を連日行っていた。その反動で彼は家でゆっくりしていたいと望むはずだと推測していたが、それは間違いだったらしい。


「買い物して、昼飯食って帰ってこよ。午後はテレビ観ながら昼寝して……、夕方はその辺散歩がてら走り込み行って、赤ちんの筋トレに付き合ってあげるよ」
「あぁ、昨日はトレーニングを一切していないからね。……そうだな、それは完璧なプランだ」
「でしょ?オレと違って赤ちんはピンピンしてんだから、動いてないと死ぬかもしれないし?」
「回遊魚のように言わないでくれ。それに、お前もじっとしているのは性に合わないだろう?下半身のトレーニングは継続した方がいい」
「え〜、オレはそんな頑張らなくても……」
「お前の体をなまらせて陽泉に返したら、チームメイトに申し訳が立たない。負傷部位は安静にする必要があるが、それ以外は平時のように鍛えていても問題はないだろう?」

やや引き攣った表情を浮かべる紫原に笑いかけ、療養と甘やかしの違いを明確にする。
ヒマを持て余して買い物に付き合う気力があるのならば、トレーニングに励むことは可能だろう。

「なんだ……。赤ちん、ちょっと丸くなったかと思ったのに〜…」
「生活動作のサポートはいくらでも請け負うが、筋力維持についてはオレと同様に続けて貰う。……中学時代を思い出すな」
「そーだね〜…。一年の頃でしょ?ほんと、辛かったよね、あの頃の練習は……」

激しいトレーニングを行っているのは今も同じだが、当時は身体の骨格も未熟であり、体力もさほど身についていなかった。
成長し、トレーニングが習慣付いている今とは違い、部員の誰もが嘔吐寸前のハードなトレーニングにヘバっていた記憶は、オレにも紫原にもある。
共有している過去の経験を同時に思い浮かべ、オレたちは笑い合った。




組み立てたスケジュールは滞りなく達成されている。
予測外の事態と言えば、スーパーのカートからはみ出るほど大量の買い物をし、怪我人の紫原の右手にかなりの荷物を持たせたことだが、買い込んだものの大半は紫原の菓子類だ。
ここはオレも遠慮なく紫原に荷物持ちをさせ、昼食を摂ってから帰宅を果たし。紫原がリビングでテレビを観ながらうたた寝をしている間に夕食の仕込みを済ませ、夕刻には彼と共にロードワークに出る。

朝からこの時間まで、オレたちはスーパーやレストランの店員以外との会話をしていない。
こんな生活を続けていたら、いつか声の出し方を忘れてしまいそうだ、などと冗談を口にすると、紫原は「オレに話し掛けてればいいじゃん」と大した問題ではないというように切り替えしてくる。たしかに、紫原との会話には声と言葉が必要だ。
お互いさほど話好きな性質というわけではない。それでも時折、無意味に声を発したくなり、誰かに答えて貰いたい欲求を感じることはある。
紫原はオレの言葉のすべてに反応した。独り言に近い呟きも、すべて拾い上げ会話に繋げた。
同様にオレも紫原の声が聞こえると、何らかのリアクションを返した。教室や体育館などで複数の人間とコミュニケーションを取るのとは違い、二人しかいない場でそうなるのは自然だ。

体内で「彼」と対話をしていた頃と同じように。
肉体が分かれていても、たった一人の話し相手がオレにだけ話し掛け、たった一人の人間に返答する。主語を用いることを失念しても、二人の会話は成立した。


夕食の後は昨晩の約束どおり、紫原の髪をオレが切ることになった。
互いに着衣のまま浴室へ入り、浴用の椅子に腰を掛けた紫原の背後に立つ。最初のハサミを入れる際は、かなりの緊張感があった。

「いーよ、赤ちん。思いっきりやって」
「あ、あぁ……。いくよ」
紫原の促しに覚悟を決め、襟足から掬いあげた髪にハサミを入れる。小気味の良い音を立て切断した髪が浴室のタイルにぱらぱらと落ちるのを見届け、次の動作に意識を注ぐ。
切断するのは一瞬だが、昨日も思ったように人の髪が伸びるにはそれなりの時間が掛かる。思い切りやれと言われても、失敗はしたくない。
慎重にバランスを見ながら同じ動作を繰り返していると、紫原からスピードアップを促す声が上がった。
「そんな丁寧にやんなくてもいいよ……。赤ちん、ビビってない?」
「そういうわけではないけれど……。……いや、若干臆病にはなっているかもしれない」
「うっそ、赤ちんがぁ?」
「少しのミスが命取りになる……ような気がしてしまってね」

じゃきん、じゃきん、と、浴室に切断の音が響く度に身が縮こまる思いだ、と続けると、紫原は軽く肩を揺らした。正面の鏡に視線を向ければ、やはり笑っていた。

「大袈裟だって〜。髪なんて、すぐ伸びるもんだよ?」
「分かっている。だが、不恰好に仕上げてしまうと……」
「それはそれでいいよ。べつにオレ、赤ちんにプロの美容師並の技術を求めてるわけじゃないし?……むしろ、ちょっとくらい失敗されたほうが素人の赤ちんにやられたって思えて楽しいよ」
「紫原……」

やや辟易としながら鏡越しに紫原と視線を交わす。
いまオレが手を掛けているのは自分自身の肉体ではないのだ。他人の体の一部を切断しているこの状況で、あまり気の抜けるようなことを言わないで欲しい。
その意思を込めて視線で訴えかけるが、紫原の笑みは消えない。

「……笑わないでくれ。小馬鹿にされている気分だ」
「してないよ〜。ほんと、面白がってるだけ。だって、赤ちんがさ〜」
「何だ……?」
「何やってもわりと上手にこなせる赤ちんが、たかだがオレの髪切るのにめちゃくちゃ緊張してんだもん。そりゃ笑うよ。貴重な瞬間だし、なんか可愛いし」
「……可愛い、か」
言われ馴れない感想を受け、軽く嘆息する。今の状況から見ると、確実に褒め言葉とは思えない形容詞だ。
「褒めてる褒めてる〜」
「それはありがとう。とっても嬉しいよ」
「ほんとだって〜。ほんと……、赤ちん、ホントはそんなだったんだね」

ざく、とハサミを入れた瞬間に言われた言葉に、オレは意識を留めた。
どういう意味だ?と再び鏡越しにかち合った視線で紫原に問う。声に出さずとも紫原は発言の意図を説明した。

「いまの赤ちん、すっげー素が出てるっぽい」
「素……とは?……変わった、ということか?」
「んーん、変わったってのはちょっと違うよね〜。……なんだろ、オレも上手く言えないけど……。被ってた皮が剥がれ落ちた感じ?」
「……まるで分からないな」
「オレはいまの赤ちん、かなりいいと思ってるよ」

不意打ちの発言を受け、思わず予想以上に深くハサミを入れてしまいはっとする。
「あ」と声に出すと、紫原はやや動じた様子で「え?!」と反応をした。

「な、なに?!言ってる側から失敗……?!」
「いや、大丈夫だ、落ち着いてくれ。……まだ、大丈夫だ……」
「ちょ、赤ちん?!ほんとに大丈夫?!」
「……紫原、お前は案外いい頭の形をしているね。この分なら、万が一の時はバリカンを用いても……」
「えっ!!やだ!!それはやだっ!!しっかりしてよ、赤ち〜ん……」

実のところそこまで切り過ぎたわけではないが、先ほど揶揄された腹いせを込めて大袈裟に脅してやると、紫原は真剣に不安感を示す。
そんな彼に笑いかけ、少しだけ失敗してしまった部分を整えるべく周囲の髪を掬い取る。

「大丈夫、きちんと取り返してみせるよ」

雑談を交えた効果なのか、最初の頃にあった緊張感はすでに抜け切っていた。
それまでよりもリズミカルにハサミの音を鳴らしながら、頭の中にイメージした通りに紫原の髪型を整えて行く。
襟足を覆い隠していた部分がすっきりした頃、足元には紫原の身体の一部であった毛髪がだいぶ散らばっていた。
サイドと前髪を紫原の希望を聞きながらカットし、最後まで仕上げると。

「なんか……中学の頃に戻ったみたい。ヘンな感じ〜」

風通しのよくなった首筋を撫でながら呟いた紫原の声に、オレも記憶を遡らせる。
形はたしかに、知り合って間もない頃の彼と同じように思えた。
だが、あれから4年の年月を経た紫原に、当時の幼い面影はまるでない。

「恰好良くなっただろう?」
その容姿の良さを、自分の功績のように口にする。
「なんで得意気なの……。途中までずっとビビってたくせに。あとその質問おかしい。「うん、かっこいい」って答えたら、オレただのナルシストじゃん」
「自惚れてもいいんじゃないか?実際に、恰好良くなったと思うよ」
「……そぉ?」
「あぁ。文句なく、いい男だ」
紫原の肩に手を置き、顔の位置を並べ。まっすぐに鏡に映る彼の顔を見据え。正直な感想を口にすると、紫原はぱっとオレから視線を外し。
「……素で褒めんのやめてよ。照れんじゃん…」

僅かに赤みを帯びた彼の頬の色から、彼の恥じらいを感じ取り。
先ほど「素が出ている」と指摘された時よりも、上機嫌な気分でオレは紫原の肩を軽く叩いた。




散髪の効果はすぐに発揮され、昨日よりも短縮された入浴時間と髪の乾燥時間を体感した紫原は満悦そうに浴後の牛乳を摂取した。
「やっぱ短いとラクだね〜。あ、赤ちんもフロ入って来れば?」
「あぁ。……今日はまだ眠くはならないのか?」
「昼間寝たし、ぜんぜ〜ん。徹ゲーする?付き合うよ?」
「調子に乗り過ぎだ。うちにゲーム機の類がないことは分かっているだろう」
「あ、そっか〜。え〜、じゃあ何する?夜は長いよ〜?」
「そうだな。だったら、オレに付き合うか?」

昨晩とはかなり態度の違う紫原が、就寝までの時間を持て余していることは見て取れた。それならば、と提案した内容に、紫原はあからさまに顔を顰める。

「え〜、勉強すんの?なんで?学校行ってないのに〜」
「学校に行っているか休んでいるかは問題ではないよ。学生の本分を忘れたか?部活動に意識を注ぐのも悪くはないが、スポーツ選手でいられる時間は限られている。やるべきことはやっておかないと……」
「待って、説教はやめて。…つうか、赤ちん、いつもそんなこと考えてたんだね」
「お前は違うのか?」
「……まぁね。将来のことなんて、あんま考えたことない。今までも何とかなってたし?」

軽く言ってのける紫原がそう発言する理由は分かった。
中学時代も学業を疎かにしていたせいでテスト前に悲鳴をあげている部員は何人も見てきたが、紫原の場合はそのようなことは一切なかった。
学業における彼の成績は、学年全体から見て上位にあった。普段から勉強時間を特別長く取ることはせずとも、テスト前に出題範囲を無理に詰め込まずとも。見た目や言動とはうらはらに、彼の頭脳はかなり明晰な部類に入る。
普通に授業に出席し、教科書を熟読することでテストではある程度の得点を取ることが出来る。それはおそらく、高校に進学した現在も健在なのだろう。

さらに彼はバスケの特待生として高校進学を決めているため、一般生徒たちのように高校入試というものを経験していない。進路と言うものを甘く考えてしまうのは、無理もない。

「……赤ちんは、なんか考えてんの?」
「高校卒業後のことか?ある程度は想定しているよ」
「大学?」
「そうだね。一般入試を経るつもりだ」
「バスケは?」
「続けるよ。だが、大学はスポーツ系ではなく、別の学科へ進学したいと考えている。そのためには、教科書から学ぶ知識だけでなく、他の知識を得る必要があるんだ」
「そっか……。大変だねぇ」
「他人事のように言うな。お前もいずれは……」
「オレはたぶん、バスケで行くよ。プロの誘いがあればそのまま就職するし、他の道は考えたことない。……なんとなく、いけると思うし?」
「紫原……」

楽観的な物の見方を責めるつもりはない。
だが、不安視はしてしまう。自ずと視線が彼の左腕へ移動する。
今回の負傷は完治の見込みがあるとされている。だが、スポーツに怪我はつきものだ。致命的な部位を負傷することもあるし、完治はしてもひと度負傷した部位は繰り返し傷つけることによって癖付くこともある。
紫原の目論見通り、バスケで進学、あるいは就職を果たしたとしても。どれほど長くそれを継続できるかは、誰にも見通すことが出来ない。

「ひょっとして、信頼されてない?」
「いや、……心配をしているんだ」
「ふ〜ん?……じゃあ、それに付け込んでもう一個、別の道も考えとこっかな〜」
「ああ、そうしたほうが……、付けこむ?」

考え直してくれたのかと安堵したのは束の間。やや不穏なニュアンスの篭もる単語を聞き咎め、眉を寄せる。すると紫原は。

「ちゃんと将来のことを考えてて、確実に安定した生活が送れそうな人に今から恩を売っといて、いざって時は助けて貰う道」
「……紫原」
「赤ちん、今までオレがなんとなくでうまくやってこれた理由分かる?運がいいからだよ」

運も実力のうち、という言葉はあまり好きではない。
だが紫原は、当然だと言うようにそれを肯定し。具体例を掲げてみせた。

「今だってオレ、超ツイてるよ。赤ちんが側にいんだもん」


それまでの話の流れを断ち切った発言に首を傾げる。
だが、紫原の幸運実証は続いていた。

今現在紫原の側にはオレがいる。オレが望み、そうしている。
この願望の内容こそが、紫原にとっての幸運なのだと。彼は言い、そして。

「ちゃんと赤ちんの言うこと聞いたんだから。オレが路頭に迷って食いっぱぐれてる時は、すかさずオレを助けてよね〜」

紫原の考えたもう一つの道と言うのは、そういうこと、らしい。











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