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▼ 3





やはり紫原を饒舌にさせた要因は、互いの姿を遮断するドア越しの会話だったようだ。
リビングのソファーに身を預け、冷やしたタオルを顔に被せている紫原の疲弊しきった姿を眺めながら、彼の心境を分析した。

この家の浴室は紫原にとって、オレが想像する以上に快適な空間だった。
あまり他人の家の浴室に足を踏み入れたことはないため比較は難しいが、紫原の言うとおりこの浴室は一般的なそれよりも広めに設計されているのだろう。
体格の良い紫原は家庭の浴槽としては容積の大きいその器が、自らに適合する快いものだと認識した。

浴室という空間は、入浴と言う行動により蓄積した疲労やストレスを解消出来るリラクゼーションの場でもある。
その空間が好ましいデザインであれば、人の心は平時よりも穏やかになり、また衣類を脱ぎ裸になることによって解放感も増大する。

それらが紫原の情緒を安定させ、彼の口を滑らかにする作用を齎したのかもしれない。



「紫原、もう少し水分を取るか?」
「……んーん、もういい」
「そうか」

顔をタオルで覆ったまま安静にしている紫原には何度か声掛けを試みたが、彼の返答はつれなく、オレに顔を見せる素振りもない。
いつになく素直な感情を表面化したことで、オレに対し羞恥を感じているのかもしれない。
のぼせるまで浴槽から出られなかったことを考えれば、その推測はあながち間違いでもないだろう。

ただ、羞恥や後悔という感覚においては、こちらにしても似たようなものだ。
紫原ほどはっきりと形にはしていない。そうする前に彼が限界に達したためではあるが、オレは自分の内部に発生した彼への想いを充分に理解していた。

こうして紫原の姿を視界に映し、彼の息遣いを耳にし、彼の体から漂う入浴後のシャンプーや石鹸の清潔な香りを嗅ぐと、感覚器官が彼の存在を強く認識すると。
底知れぬ安心感に満たされ、自ずと穏やかな気分になってゆく。

その効果は、つい先日までは常に感じていた「彼」の存在と同等の威力を発揮していた。

さらに紫原には、「彼」と大きく異なる点がある。
オレの体内でオレの別人格として存在していた「彼」とは違い、紫原には肉体を有している。先ほどから視覚、聴覚、嗅覚で感じる存在感に加え、もうひとつ。

「そろそろ、髪を乾かしたほうがいい。そのままでいては風邪を引いてしまう」
「ん〜…、……そだね、めんどくさいけど……」
「体を起こしてくれ。オレがやる」

時間を置いて心身共にだいぶ落ち着いてきたのか、この声掛けに応じた紫原がゆっくりと顔からタオルを外し、行動を始める。
その様子を確認し、あらかじめ洗面所から持ち込んだドライヤーを手に彼の側へ身を寄せた。紫原はやや強張った表情でこちらを見遣る。
「あ……、いや、いいよ、自分でやれるし」
「その腕でか?」
「……利き手は使えるから。ドライヤーなんて、スイッチ入れて頭にかざしとけば勝手に乾くっしょ」
「それは自然乾燥が可能なヘアスタイルの持ち主が言うことだ。お前の髪は素直ではあるが、長さがある。無造作にしていれば、妙な癖がついたり絡まったりして、……笑いを堪えられない状態になりそうだ」
「……言うよね。…わかったよ、赤ちんの好きにして」

早々に白旗をあげた紫原に気を良くして彼の背後に立つ。
タオルドライである程度水分は拭き取っているが、しっとりと湿った紫原の細い髪は乾かし甲斐がありそうだ。右手に持ったドライヤーで温風を当てながら、左手で彼の髪を掬い上げる。用いたシャンプーは自宅にあるものだが、漂う香りは記憶するよりも甘く爽やかな印象を受けた。

細くやわらかい紫原の髪は、その長さから予想する以上に乾きが早く、ドライヤーのスイッチを落としてから軽く手ぐしで整えると、紫原からのんびりとした声が上がった。

「赤ちん、頭やるの上手いね。床屋のおじさんみたい」
「……床屋でカットしているのか?」
「中学の頃はいつも近所のおじさんちでやって貰ってた〜。だんだん行くの面倒になってきて、伸びっぱなしになっちゃったけど」
「そうだな、随分と伸ばしたものだ」
「切りに行こっかな〜。この腕だし、寮に帰ってからのこと考えたら短いほうがラクだよね〜」

始める前はオレに対してやや警戒した様子だった紫原だが、すでに気持ちを切り替えたのか、会話中にオレがその髪に指を通していても嫌がる素振りはない。無防備な状態を眺め見て、おのずと自分の口端が緩むのが分かった。
しかし、この共同生活が終了した後のことを持ちだす紫原の発言によって胸中に不安の影が生じる。一週間という期限をあらかじめ設定したのは、オレ自身だ。

「まぁ、切ってもすぐに伸びちゃうんだけどさ〜。赤ちんは伸びるの遅いよね?」
「…そうだな。あまり気にしたことはなかったけれど」
「やっぱ美容院とかで切ってんの?……いつもセルフじゃないよね?」

その疑惑はおそらく高一の冬にウィンターカップの会場でオレが行った行動から発生したものだろう。たしかに前髪については気になった際に自分で切ることもあるが、伸びる髪はそこだけではない。さすがにオレも、感覚を頼りに後部の髪を自力でカット出来るほど器用ではない。

「中学時代は家に出入りしている使用人に切って貰っていた。高校に進学してからは、……容姿に気を遣うセンパイがいてね。自分から申告せずとも、彼が手をかけてくれるようになっていた」
「え……?センパイが切ってくれんの?!すっげー便利じゃん!」
「あぁ、有難いことだよ」
「いーなー、オレもそーゆうセンパイ欲しい…。室ちん、頼んだらやってくれっかな?」
「……ああ、彼は綺麗な髪をしているね。几帳面そうだ」
「そー見えるっしょ?あのひと、わりと雑なとこあんだよね。部屋は綺麗なんだけど、押入れの中がすげーぐちゃぐちゃなの。意外じゃない?」
「意外だ。見かけによらないものだね……」
「テスト前に二年のときの答案貸してくれるって言うから部屋に行ったら大捜索始まってさ〜。見つけ出して見たら、字もあんまキレーじゃねーの。オレ、室ちん見る目が変わったし」

互いの高校のセンパイの話をしながら、どこか不思議な感覚に陥る。
高校に進学してから何度も顔を合わせる機会はあった。それでも、オレたちはあまり各々の高校生活について話をすることはなかった。
話題はいつでも、バスケに関して。それはそれぞれが現在所属するチームであったり、中学時代の話であったり、はたまた知り合う以前のミニバスチームでの話だったり、時期に関してはまちまちだった。
だが、いわゆる私生活の部分を話題に出すことは互いになく。交友関係についてはおおよそ予想できていたが、彼らとどんなコミュニケーションを取っていたのかを窺い知る機会はまるでなかった事実に気付かされた。

そしてその一端を垣間見た今、オレの胸中には再び不安の影が姿を見せる。
一週間後、それぞれの所属するチームへ戻ったオレたちは、それぞれ接点のない生活を再開させる。
紫原が話題に出したセンパイの顔と名前は知っている。彼らが友好的な関係を保っていることも分かる。だが、遠く離れた土地で生活を送るオレは実際にこの目で彼らの交友を目撃することは叶わない。
さらに紫原には他にも多くの人間との交友関係がある。バスケ部員のみならず、クラスメートや教職員との接触も多々あるだろう。それらをすべて把握することは、オレには難しい。

聞けば、紫原は包み隠さず話してくれるだろう。
クラス名簿の写しが欲しいと望めば、叶えてくれるかもしれない。
紫原の高校に所属する生徒全員の名前を知り、彼と接触する可能性のある人物をすべて把握することは出来る。だが、そこまでだ。オレが紫原の生活を完全に掌握しきることは出来ない。

陽泉に戻った紫原は、オレの認識外の生活を送ることになる。
独自の思考を巡らせ、判断を下し。自在に動く体を用いて、他者との関係を築き、保ちながら。

オレだけの存在であった「彼」とは違い、紫原は広い世界に生きている。

「……」

手に掬った紫原の癖のない髪は、さらさらと指の間から滑り落ちる。
一時的に触れることは可能であっても、常に手中にあってはくれない。
その事実は、どうしても。


「ねえ赤ちん。赤ちんが切ってよ、オレの髪」


感傷的になりながら黙っていると、静寂を切り裂く紫原の声に肩が跳ねた。
「え?」
「髪乾かすの上手いんだから、切るのも上手いんじゃない?床屋に出掛けるのやっぱ億劫だし、明日、フロ入る前でいいからさ」
「……オレは、人の髪を切ったことはないよ?」
「でも自分の前髪は切ってんでしょ?平気平気、てきとーでいいから」
気の抜けた声音で紫原は意外な提案をしてきた。
癖がなく、痛みもきわめて少ない髪を持つ紫原が、自身の髪型にあまり頓着していないと言うことは理解できた。だが、素人であるオレにハサミを入れさせることをこれほどあっさり容認するのはどうなのか。
「赤ちんだって素人のセンパイに切って貰ってんじゃん?」
「……一応、彼は他の人間の髪を切ったことがあるという実績をオレに示したんだ。それ以外にも手先が器用なことは明白だった。オレがお前の髪を切るのとは、違うと思うが……」
「赤ちんだって充分器用じゃん。字もキレイだし」
「筆跡は関係ないだろう……」
「ないけど、いいの。オレ、赤ちんに切ってもらいたい。そんで学校に戻ってからも、赤ちんがオレをラクにしてくれたーって思いたいし?」

こちらに背を向けたまま発言する紫原が、どんな表情を浮かべているのかは測り知れない。
浴室で扉越しに会話していた時と同じだ。対面していない状況であるから、紫原はすんなりとその本心を打ち明けることが出来る。

「オレあんま記憶力良くないんだよね〜。だから、赤ちんがオレに尽くしてくれた実績、目に見える形で残して欲しい……かも」

いくら伸びが早い体質だとしても、人間の毛髪が再生するのにはそれなりの時間が掛かる。
オレと同じくらいの長さに切りそろえたとしたなら、紫原の髪が今ほどの長さに戻るには年単位の時間が必要だろう。

「……いいのか?」
「何でもするって言ったじゃん。……してよ、努力」
「……」


オレとは異なる肉体を有する紫原に、オレの精神を混入させることは不可能だ。
だが、この体には痕跡を残すことが出来る。
一週間という期限を越え、それぞれの生活環境へ身を置くようになっても。伸び切った髪をすっきりと切断した紫原の容姿の変化は、オレの介入があったことを証明し。

どこにいても、誰といても。
自分の容姿を目にする度に、紫原はオレの存在を意識するようになるのだろう。


「ねー、ダメ?」

口約束を持ち出して発言の責任を強調したわりにはどこか機嫌を伺うような紫原の問いかけに、首を振って答える。
「いや、……わかったよ、任せてくれ」
「やった〜、そんじゃ、明日頼むね。……で、さぁ。まだ早いかもしんないけど、オレ、そろそろ眠くなってきたんだけど〜」

承諾の言葉を伝えた途端、欠伸混じりの訴えに目を瞠る。
普段からして眠たそうな紫原の口調が、いつになくまろやかさを増していることに今更ながら気付かされた。

「それでは、客室のベッドを整えてくる。もう少し待っていてくれ」
「え〜、ここでもいいけど……」
「こんな狭いソファーで眠れるか?体を痛めるかもしれないよ?」
「ん〜……、わかった、早くしてね」

ただでさえ怪我をしている身を、こんなところで休ませるわけにはいかない。
急ぎ空き部屋へ向かい、電気をつけ、長らく使用した形跡のないベッドを確認する。
使用していない部屋でも、清掃担当者の手は屋敷の隅々まで行き届いていることに安堵し、布団に掛けられたカバーを捲る。皺一つないシーツは、いつでも来客を迎えられるようにきちんとメイクされていた。

リビングへ戻り、眠気まなこの紫原を客室へ案内する。
会話中はそれなりにしっかりしていた紫原の口調も、今はどこか覚束ない。子供のようだな、と思いながらベッドに横になる紫原に手を貸し、体に布団を掛け。

「おやすみ、紫原」
「ん、……ねえ、赤ちん」
「何だ?」
「あしたの朝飯、楽しみにしてるね〜……」

すでに目を閉じ眠る体勢に入った紫原の発言の意図を理解し、オレは苦笑を浮かべながら答える。

「ああ、腕によりを掛けさせて貰うよ。……おやすみ」
「おやすみ、赤ちん」



瞬く間に意識を夢の世界へ飛ばした紫原の寝顔を確認し、部屋の消灯を済ませその場を後にする。
閉じたドアの前で足を止め。ふぅ、と深呼吸を一度行い、自然とゆるむ口元をそのままに、目を閉じた。

一年半も食事提供を約束された寮生活を送っていたオレは、当然ながら調理からは遠ざかっていた。
この家で生活していた頃は自分の食事くらいは用意する時もあったが。学校の調理実習以外で他人に料理を振舞うなんて、生まれて初めての経験かもしれない。

入浴を済ませたら、台所の状況を視察しなければ。
冷蔵庫にはいくらか食材が入っていたはずだ。調味料や調理器具の位置も把握しておく必要がある。
米はどれだけ炊けば寝起きの彼の空腹を癒せるだろう。普段の彼の食事量を思い返しながら、彼と共に迎える朝食時間を想像し。

「……実体のある存在と生活を共にするのも、楽ではないな」

そう独白してみるが、胸中の充足感はひどく暖かいものだった。












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