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父親に一週間の滞在許可を要請すると、それは呆気なく通過した。
選抜メンバーとして召集を受けてから都内で過ごした期間中、父と何度か顔を合わせる機会はあった。だが、オレが実家暮らしをしていた頃から彼は仕事の都合で家を空けがちな人だった。
折りよく試合の前日から海外出張に出ていた父に電話でスケジュールの確認をすると、当分は帰宅しない予定とのことだ。
現在はオレの住居でないこの家での滞在については、「かまわない。そこはお前の家でもある」と簡潔な言葉で認可してくれた。
それから、思わぬ言葉も掛けられた。

(僅かな時間だが、先日の試合をテレビで観ていた。征十郎、よく頑張ったな)


バスケットについてはあまり関心がなく、部活動の公式試合についても勝敗を確認するのみだった彼が、どんな気まぐれをおこしてそうしたのかは分からない。
ただの偶然か。あるいは、学校単位ではなく日本を代表しての試合だったからか。理由はどうあれ、血の繋がった父親からのその飾り気のない言葉は、素直に嬉しく感じた。


「赤ち〜ん?なんか機嫌いい?」
「そう見えるか?」
「なんとなくね。おとーさん、何だって?」
「自由に過ごしていいと。しばらくは不在にする予定だったから、週に二回の掃除以外は手伝いの人間も出入りしないそうだ。気楽にしていてくれ」
「ほんと?ラッキー。……よかったー。一週間もお手伝いさんのいる生活送れなんて言われたら最悪だったし」
「そうか?……お前の場合は、いてくれた方が快適だったんじゃないか?」

電話を置き、紫原に父とのやりとりの一部始終を伝え、彼の左腕を覆う真っ白い三角巾に視線を落とす。利き腕ではないが、日常生活を送るには不便な状態だ。

「まぁ、そーだけど…。知らないひとに世話して貰うよりは、知ってる人にして貰ったほうがマシだし」
「……それは、オレのことか?」
「他に誰もいなくな〜い?」
「そうだな……。分かった。用があれば言ってくれ。何でもするよ」

紫原に側にいてくれと依頼したのはオレだ。
その見返りとして、片腕が不自由な彼の身の周りの世話をすることくらい、容易い。
そういったことには馴れていないため、細かい指示を要求することにはなるだろうが。そう付け加えると、紫原は不思議そうな顔をして固まった。

「……どうした?」
「や、……ほんとに何でもしてくれんの?」
「あぁ。……出来ることであれば」
「なに謙遜してんの〜?赤ちんに出来ないことなんてないっしょ〜?」

強張りを解いた紫原はいつもののんびりとした口調でオレを挑発して来る。何か、よからぬことを企んでいるような表情にも見えた。

「期待に添えるように努力はするが……」
「オッケ〜。そんじゃ、早速だけど」

言いながら座っていたダイニングチェアーから腰を上げた紫原は、向かいの椅子に座るオレの前に来ると、やや高圧的な視線で見下ろし。
何を要求されるのかと身構えるオレに、それを伝えた。

「フロ入りたいんだけど。手伝ってくれるよね?」

もったいぶった割に、拍子抜けするほど簡単なこの内容には、脱力気味に笑ってしまった。




所属チームに連絡した後、紫原は実家にいる家族へ連絡し、数日分の着替えを届けて貰っていた。
何の支度もないまま突然連れて来てしまったことについて詫びようとしたが、紫原は謝罪を遮り。
「それも含めて赤ちんに世話して貰うから気にしなくていいよ〜」
と、更なるプレッシャーをオレに掛けて来た。

しばらく使用した形跡のない浴室を軽く掃除し、浴槽にお湯を落とす。
スイッチ一つで行えることだが、一年半の寮生活に馴染んでいたオレには懐かしさを感じる行為だった。

「ていうか、フロ広過ぎじゃない……?銭湯かよ」
「それほどじゃないと思うけど」
「一般家庭のフロの広さじゃないって。……オレでも足伸ばして入れそう」

水嵩を増していく浴槽を覗き込みながら感心している紫原を横目で見遣り、規格外の体格を有する彼がいかに日常生活で不便を感じているかを垣間見る。
油断するとそこここで頭をぶつけることも多いと聞く。中学時代、実際にその現場を見かけたことも度々あったと思いだし、思わず笑ってしまった。

「なに?なに笑ってんの、赤ち〜ん?」
「いや……。背が高いということは、いい事ばかりではないのか、と思ってね」
「いま気付いたの〜?オレ、ずっと苦労してたんだけど。いいよね、赤ちんはそこそこの身長で」
「……身長が平均的なものであれば、お前はバスケを続けていなかっただろう」
「……あー。中学ん時に赤ちんにずけずけ言われて、心折れてやめてたかも。いたよね、そーゆう人」
「灰崎のことか?……彼は、状況をよく理解していたよ。黄瀬に対して当たりが強かったのは、彼が才能を開花する以前に自分のポジションが奪われることを察知していたからだ。オレが勧告をせずとも……、ゆくゆくは、ああなっていた」
「そーかな〜?赤ちんに指摘されたのが決定打っぽかったけど」
「だろうね」
「いま性格悪い発言出たよ?わざと?」
「……彼が度々問題行動を起こし、チームの士気に関わるような存在であったことは確かだ。早いうちに摘み取りたい、という気持ちはあったよ。だが、……高校でバスケを再開していた、と知った時は、少し嬉しかったな」
「え〜?なんで?」
「……彼は才能ある選手だったが、オレの理想とするチームには不要の存在だった。だが、別のチームでは必要とされ、活躍していた。つまり、あの時のオレの判断は、間違っていなかったのだと認識できたから……かな」

当時の状況を振り返ると、そこには「彼」の介入が生々しく記憶されている。
いくら問題行動の目立つ部員とは言え、一年間共に同じチームでバスケをしてきた仲間だ。そんな彼にはっきりと退部を勧めることなど、道徳に反することではないか?そう悩んでいたオレに、「彼」は鮮やかな決断を下した。
要請されるがままに主人格を「彼」に明け渡すと、「彼」は迷いもなくオレの悩みを解消し。これで良かったのか?と後悔の念を消せないオレに対し、「心配はいらない。チームメイトに冷酷な決断を下したのは君ではなく、この僕だ」と汚れ役を買ってくれた。

「汚れ役……ねぇ?」
「その時ばかりではない。自分の弱さが表立つたびに、「彼」はオレを救ってくれた。紫原、お前に1on1を挑まれたあの時も……、オレ一人では、恐らく再起不能なまでに叩きのめされていたことだろう」
「あー…。あったねぇ、そんなことも。……オレ、そんなに赤ちんのこと追い詰めてた?」
「かなりね。あの時は本当に……、」

本人の前で当時の屈辱と恐怖心を言葉にしようとしたところで、浴槽の水量が規定値に達した合図であるメロディが浴室に響き渡る。
話を中断し、脱衣所に移動して紫原の脱衣をサポートすることにした。




上がる時は声を掛けてくれ、と浴室のドアを閉め、紫原が脱いだ服を拾い集めながら深く息を吐く。
灰崎についての話もそうだが、あの当時の自分の感情をここまではっきりと他人に打ち明けたことは今までになかった。
思いだしたくもない、というわけではないが、さほど美しい思い出というわけでもない。聞かれれば答える程度の心積もりでいたが、今日は自ら進んで口を開いていた。

これも、「彼」がオレの中から消えた影響なのだろうか。
「彼」の非情な判断は、一般的に見て褒められることばかりではない。もう少し円滑で、温和な措置は取れなかったのだろうか、と自分の事ながら顧みることはある。
それでも、「彼」がしてきたことはすべてオレの立場やプライドを守るための行為だ。「彼」がオレの代わりに自らの手を汚し、窮地を脱してくれたことで、オレは自我の崩壊を防ぐことができた。

許容量を超えるストレスを科せられた際、人によっては体調に異変が生じたり、塞ぎこんだりとさまざまな精神防衛反応が働くという。
幼少期のオレの中で「彼」が誕生したきっかけはあまりよく覚えてはいないが、数多ある防衛手段のうち、現れたそれが「彼」であったことは幸運だった。

「彼」のお陰でオレは今日まで健全な生活を送り続けることが出来た。
「彼」のお陰でバスケを続けられた。
「彼」はオレにとって、何よりの。




「赤ち〜ん、そこにいる〜?」

思考を遮る声が浴室の擦りガラス戸越しに聞こえ、はっとして応答する。
「なんだ?もう出るのか?」
「んーん。……あのさ、さっきの話の続きだけど」
「え?」
「思い出したんだ〜。オレ、あの時赤ちんに勝っちゃってたら、バスケ部やめよーと思ってたんだ」

思いも寄らぬ発言に、声を失いガラス戸を凝視する。
浴槽に浸かっているであろう紫原の影が映ることはないが、そこにいる紫原へ問い返した。

「どういうことだ……?」
「ぶっちゃけあんま覚えてないんだけどさ〜、わりと、つまんなかったじゃん?あの頃」
「……」
「周りがみんな雑魚みたいに思えて、体力有り余ってんのに全力出し切れないし、練習すればするほど腹減るだけで何も得られないし、毎日イライラしてたんだ。そしたら、峰ちんが堂々と部活サボってんじゃん?あー、そーすりゃいいんだーって思って、つーか何ならもう部活やってても意味ねーなーとか、そんくらい思ってた」

平時と変わらぬ間延びする口調は、浴室においてはよく響く。
それを聞きながら、当時の紫原の様子を思い返す。あの頃、彼はどうだったか。
他の追随を許さぬ速度で圧倒的な力を増し行く彼らは。勝利を手にすればするほど、笑顔が失われていった。

「でも、赤ちんと黒ちんは相変わらず真面目に部活やれって言ってんじゃん?なんでこの人たちはこんなつまんないことを平気で出来んだろって思ってさ。チビだからそんな腹空かないのかな?とか、馴れ合いうぜーとか思ってて。で、なんでオレはそのチビで自分より弱い人の言うこときいてんだ?って。そー思ったらなんかムカついてきて」
「……言っていたね。悔しかったよ」
「でしょ?わざと」
「性格悪い発言が出たな」
「そーだよ、オレ、性格悪ぃし。だから、チビでオレよりも弱い人がオレより部活楽しそうにしてんのに腹立って、実力の差を突き付けた上で、思いっきり」
「退部届を叩きつけようと?」
「そう。急に思い立っただけだから、あの時はそんなものも持ってなかったけど。ほーらね、っつって、こんなつまんねーことやってられねーし、っつって」
「唾を吐きかけ、去るつもりだったか」
「……そこまではしないけど。まぁ、そーしてもいーかなって、思ってた」

だが結果は紫原の思惑通りにはいかなかった。
「彼」という未知の技術を有する人格が、オレに代わり出現したせいで。

「めちゃくちゃダサかったっしょ?オレ」
「いや……、そんなことを思える余裕はなかったよ」
「ふぅん。……まあ、赤ちんがどう思ってたにしろ、オレが今日までバスケやめずにいるのって赤ちんのせいだから」

それは責任転嫁も甚だしいことだ。
そう言い返そうとしたが、出来なかった。

「でも、続けてて良かったって思うこともいっぱいあるよ。この間の試合、ちょっとだけど全力出しきれてテンション上がったし?……そこまで来れたのはさ、赤ちんのお陰だよね」

姿の見えない紫原の意図が、急速にオレの胸に伝わる。
違う、紫原はオレを責めているわけではなかった。
オレの中にいた「彼」を。紫原がバスケをやめるきっかけを奪った「彼」を。紫原は。

「汚れ役なんかじゃないよ。赤ちんは、少なくともオレにバスケやってて良かったって思わせてくれた。そういう環境を整えてくれてた。だから、………ありがと」


最後の方はほとんど消え入りそうな小さな声になっていた。
顔を突き合わせていないからだろうか。紫原からこのように素直な感謝の気持ちを伝えられる日が来るとは。
だが、オレは顔を俯かせ、紫原に現実を伝える。

「礼を言うのが遅かったな。それを伝えるべき存在は、もう……」
「……赤ちんだよ」
「……紫原?」
「オレにとっては、今も、昔も、一人の赤ちんだよ。オレのこと敦って呼んでた赤ちんも、紫原って呼ぶ赤ちんも。だから、いつでもいいでしょ?」
「……」
「赤ちん?……そこにいるよね?」

言葉に詰まって返事が出来ずにいると、確認の声が聞こえ、慌てて口を開く。
「彼」は。オレを支え、味方で在り続け。紫原の退路を経った「彼」は、消えてなくなりはしない。

「……あぁ、ここにいるよ」



体内に感じていた気配はどこにもない。
それでも、紫原は証言する。オレの中には、いつでも「彼」がいるのだと。

ぱしゃりと水が跳ねる音が聞こえる。
音を発した存在は、この浴室の中にいる。
紫原は、ここにいる。実体をもって、目と鼻の先に。
決して消えることのない、オレとは異なる個体として。


「紫原……」

この男が存在する限り、オレは自らの体内に「彼」を感じ取れる。
それに気付いた途端、オレはひとつの符号を手に入れた。
最初にこの願望を伝えた際は、藁にも縋る想いであり、相手を選ぶ余裕もなかった。
負傷による療養は単なる名目に過ぎなかった。紫原に断られたなら、別の人間に同じ要求をしていたかもしれない。
だが今は、紫原を選んだことを心から幸いに感じている。

らしくない、とまた言われてしまうかもしれない。
だけど、仕方がないのだ。今のオレは、かつてのオレでも「彼」でもない。
人格の統合を果たし、本来の自分になった今は、素直に願いを口にしてしまうタイプの人間なのだろう。

「この先も、ずっとオレの……」
「……ねー赤ちん、オレ、もうそろそろ限界……」
「……え?」
「のぼせそう……。上がってもいい?」



弱りきった紫原の声にはっとして、慌ててガラス戸を開く。
何を堪える必要があったのか。浴槽の縁にもたれかかった紫原は、全身を赤く染め上げヘバっていた。

その様を目にし、真剣な告白をする気持ちも失せ、呆れながら苦笑し、彼に手を伸ばす。
触れた腕の温度は、分かっていたことだが熱く。筋肉に覆われ硬度を保ち、オレの手にはっきりとした実感を与えた。












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