17
少し走れば、直ぐにもつれる足。
思わず笑いが込み上げた。
大きな花束が走るリズムに揺られ優しい香りをさせる。
早く行かなきゃ、この気持ちを忘れないうちに、
私は決めたんだ、私はもう昔の小さな私じゃない。
私は、私は……。
情けないくらい直ぐ息切れする身体。
はあ、目的地に着けば肩で息をして整える。
神田の、部屋の前。
前はあんなに当たり前だった彼との逢瀬も、今は身体が震えて直ぐにでも逃げ出してしまいたいよ。
恋人の部屋に行くのがこんなに怖くて緊張するなんて思わなかった。
ふぅ、一息ついてそっとこんこんと二回ノックするも、……返事が無い。
でも絶対神田は部屋に居るはず。
聞こえはしないけど、なんとなくそんな気がする。
まああくまでも勘だけど。
「……神田、居るでしょ?私だよ、なまえ」
駄目もとでもう一声をかけてみる。
がたん、ドアの向こうで何かが落下する音が響いた。
ほら、居るじゃん。居留守?
「……アレンから全部聞いた。もう知ってるから」
確かにこの厚い扉の向こうに彼が居る感覚があるのに、依然として扉は開かない。
もう顔も見たくないの?
私は、逢いたいんだよ。
好きじゃないから拒絶するの?もう嫌いになったから逢いたくないの?
「……ちゃんと話そうよ、」
扉をもう一度叩く。
届くように。
気持ちが、心が、
「せめて嫌いなら嫌いって面と向かって言いなさいよ!」
……拒絶拒絶拒絶。
強く叩けど開かない扉。
木造のはずの扉がこんなに重厚で冷たいものだと思わなかった。
君の返事は、これなんだね。
かくん、膝の力が抜けて、へたり込んでいく情けない身体。
ぱたぱたと涙が零れてゆく。
泣きたくなかったのに。
君には笑顔で終わりにしたかったのに。
「……分かってる、から。
別れる、から。
ちゃんと最後に、話し合……っ!!」
ばたん!
ふいに扉が開かれた。
ぐいと腕を引き込まれ一気に扉が閉まる。
目の前に有るのは真剣な表情の、
「か……んだ?」
「なんで来たん、だよ」
彼の腕に押し込まれ身動きがとれない。
艶やかな髪も、端正な顔立ちもあの日のまま。
空白の時間を残して。
「全部、聞いたんだよ?」
「…………」
彼の口から何も言葉が紡がれない。
なんで、何も言わないのさ。
溺れるほどの黒は凜として私を映しているというのに、唇は何一つ物言わない。
「退院、したの。
アレンが毎日来てくれたから寂しくなかったし」
「……チッ」
神田の綺麗な顔が露骨に歪む。
私は内心嬉々と笑った。これは私の些細な仕返し、皮肉。
どれだけ私が君を待っていたと思ってるの。
ベッドで寝ているときもずっとずっと、貴方を忘れたことなんて一度も無かったのに。
明日は来てくれるかも、甘い香水だけに希望をのせて毎日期待してたんだよ。
「……私たち、もうダメなのかな、」
ねえ、今よく聞いて。
ずっと大好きでした。
はにかんで照れ臭そうに笑う顔も、怒ったときも、くつくつと喉を鳴らす喉仏も、骨ばった手も、広い背中も、不器用な優しさも、全部全部。なにひとつ嫌いになれなかった、好きで好きでしょうがなかった。
君の気持ちで小さな私の心がいっぱいになってしまうくらい、大好きでした。
だから、だからね。
「別れましょう、」
綺麗な思い出で終わりにしよう。
愛しい君を見やれば甘えたくてしょうがなくて、あの日の幸せな日々に帰りたくなってしまうけど。
これは君の為。
優しい君だから今のこの中途半端な状態じゃ幸せになれないでしょう?
だから、貴方の手で終止符を打って。
私は笑顔でさよならと言うから。
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