18

「別れましょう」


……言ってしまった言葉は戻らない。
過去は戻れない。美しい思い出には褪せることしか出来ない。
これは私が決めたこと、後悔はしちゃいけない。

なのに。



「……泣いてるじゃねえか、」

「泣いて、な…っい、もん!」



神田が呆れ目で溜め息を吐いて私の目元を親指で拭った。


あんなに決心したのに不思議、目の前には彼との愛しい記憶ばかりが流れるんだ、悔しいくらいに。
悲しみよ、今だけは隠れていてくれよお願いだから。

有り得ないくらいずっと泣いていたのにな、どうやらまだ枯れないみたいで次から次に涙が出てくるんだ。

ゆらゆら揺れる視界の中の神田はあまりはっきりとは見えないけどなんだか怒ったような顔をしていた。
でも何時もの仏頂面とは違う、表情。



「なんでだよなまえ」

「私は、……っく、私は神田を想って、」

「意味分かんねえ」



ぐいと顎を上げられる。

ああ甘いキスが降ってくる、でも私はもう受け取れない、

顔を背けて後ろにあるドアノブを捻れば手を掴まれまた扉が閉められた。



「やめて!」

「チッ」



花束を持った手で神田の厚い胸板を叩けど彼の繋いだ手の力は緩まない。
ひらひらと花びらが泣いてるように散ってゆく。

ああ、今更求められていることに胸が高鳴ってしまっていることが悔しくて悲しくて仕方ない。



「離してっ!」

「黙れ」



端正な顔が近づく。
これに応えたら私にまたあの幸せは返ってくる?
またあの日のように愛してくれる?


でもね、もう駄目なんだ。
私がどれだけ足掻いてももう無駄なの。
君も私ももう大罪、後戻り出来ない。
幸せで無垢な日々に帰ることなんかただの戯言綺麗事なんだよ?


強く神田の肩を押して突き飛ばそうとすれども長い入院のブランクと男の人の力でびくともしない。

なんでそんな強く手を握るの!?
帰りたくなるでしょ、君の元に。
もう決めたんだ、決心を揺るがさないでよお願いだから。

彼の瞳は依然として凜とした艶麗な輝きを放ったまま。

彼にまた溺れないように私は必死にもがく。



「これだって返しに来たの!」

「…………そうかよ」



少しだけ減った香水を神田の胸に押し付けた。ああ、甘い甘い香りが遠ざかる。
彼の眉間に皺が寄れば、私の心臓に棘が突き刺さった。
なに傷付いてるのよ、私。
自分が行った事でしょう?



「もうっ!もう終わり!全部全部終わりなの!」

「なんも終わっちゃいねえよ!」



暴れる私から香水を奪って手をぐいと引っ張り彼のベッドに放られた。
起き上がり反抗しようとせどもすぐに彼が覆い被さり制圧。

彼の真剣な瞳に映された瞬間不意に心臓が大きく跳ね上がり、肌を重ねていた幸せな時間が反芻する。
それを振り解くように身体を捻って拒絶するも彼は殴ったり怒号が落としたり等せずに私のぎゅっと強く瞑った瞳に唇を落とした。

視覚を塞いだ私に一滴の優しさが降る。次第にそれが雨となっていった。
あやされるようなキスに力が抜けてゆく。
また神田の優しさに溺れてるんだ。結局彼自身に弱い私はいたく情けない。


ゆっくり瞼を開ければ、思わず息をのんだ。
私の中の時間が、確かに止まった。

影が落ちた彼の表情は今まで見たことの無いくらいの。



「頼むから、そんな顔すんなよ……」

「神、田?」



初めて見る彼の壊れそうな切ない瞳。

心臓を掴まれたような感覚が身体を貫く。



「お前を別に悲しまそうとして引き留めてるわけじゃねえから」

「…………」

「……だから、これも要らないなんて言うなよ」



じゃあリナリーはどうするの、なんて訊ける筈無かった。
何時もあんなに強く凜としていた君が、あまりに弱々しく見えたから。

そして、今やっと香水の意味に気付いてしまったから。



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