深海に溺れる滑稽な男女


また喧嘩した。
もう理由なんか覚えちゃあいない、きっとまたどうしようもないような下らないことだ。それ以前に喧嘩という衝突の事実に腹が立つ。自我が強くお互いが偏屈な俺達は残念ながら譲るや折れるなどという文字は辞書に無くて。
甘美な日々や恒久の愛は何処へやら、気付けば隣に居るお前の気持ちは俺の手に届かないような深海に沈み泡を浮かべ消えていった。



「謝らないから」



なまえが背中越しに冷酷に言い放った。俺が悪いのか?違うだろ、理由は忘却してしまったが。
こうなって丸まってしまえばもうなまえは意地でも目すら合わせない。ここで俺が折れてしまえば良いのだろうが俺だって自尊心が強い為納得出来ないことに謝りたくない。
なまえの小さく刺々しい背中を包めば慣れない香水の香り。愛用しているものじゃない、恐らく男ものだ。



「謝ったら気が済むのか?」

「……自分で考えて」



無機質な感情が無情に床に横臥した。沈んだお前の心はもう澱んだ海の暗闇に堕ちて目を凝らせど見えることもない。
腕の力を少し強めればまた他人の匂いがし俺の神経を逆撫でする。どうせ口先だけの「優しい」男にひょいひょい付いて行ったんだろう、なまえは馬鹿だから。
嗚呼、この髪も首筋も瞳も届かない心も全部、顔も知らない男に持っていかれた。奪われた。
しかし意外にも思考は正常で愕然としたり悲哀を感じたりはしなかった。何時か起こる事態だと薄々感づいていたから。偶々それが現在発現してしまっただけだ。
沈んだ心の距離はもう引き戻すことは出来なかった。お互いを求め彷徨する度酸素不足、呼吸困難になり苦しく窒息しそうなふたりは修復不可能なくらいに絡みほつれ脆く切れていた。
崩壊の予兆は声を殺して腕を伸ばしもう其処まで来ている。今か今かと待ちわびている。



「別れろ、飽きた」

「…………」



悪魔か死神か定かでは無いが他人に関係を破壊されるならいっそ俺の手で壊してしまおうじゃねえか。

なまえの背中がびくりと大きく揺れた。一瞬の狼狽に安心してる生温い自分にどうしようもない苛立ちが込み上げる。
ゆっくりと振り返ったなまえは泣いていた。
感情的とか取り乱したりせず、ただ通過儀礼のように涙淋漓と頬をすり抜ける。刹那心臓が大きく脈打った。
乳白色のマネキンのようにただただ流れゆく涙を親指で拭った。思えば偏狭ななまえの涙なんか初見だ。涙なんか無意味な水分の浪費でしょ、なんて偏曲な思弁を昔吐いていたことをふと思い出した。
暫時、なまえが鎮静して忌々しそうに眦をごしごしと擦り赤くさせた屈託のない意志を突き刺した。



「ねえ最後に、キスして」

「ああ」



女、の唇に自らのものを重ねた。成る可く女の中から早く俺の記憶が消えるよう、余韻を残さないように。俺の中でこの時間が消え去らないように。
崩壊した関係に今更縋りたくなんか無かったが、今までふたりで積み上げた時間の中で一番愛惜し離れたくなかった。この瞬間が永久を刻めば良いと過ぎってしまった。



「我が儘ばかりでごめんね。愛してたよ」



涙で汚れた女の笑顔は艶麗で、別れの色が今一度鮮明にさせる。
苦しい海から解き放たれ打ち上げられた浜辺は無重力のような浮遊感。身体はこんなに軽いのに、不思議と心はあの暗澹な重々しい深海を渇望している。馬鹿みたいだ。
お前は二度と海に身を委ねることなく柔和な太陽に包まれれば良い。早く幸せになって、目の前から消えろ。
最期とし別れの言葉を紡ぎ泳いで溺れて暗い水底に消失した女。
ぱたんと扉が遮断して、なまえが居た場所にあった落とし物は、貝殻のイヤリングでもはたまた硝子の靴でもなく、

コバルトブルーの香水。



嘘だろ、






   

(私寂しかったの、)
(だから香水なんてもので)
(気を惹きたかっただけ)



fin