春夏秋冬

夏が来た。へばるような暑さに蒼穹が眩しくてくらくら眩暈がする。膨らんだ入道雲や揺らめく蜃気楼が幻想を魅せては消失。
夏は嫌いだ。毎日暑さだけで無意味に体力を消耗されるし、なんだか莫迦共が浮かれるから。
女もまた薄着で裾をぱたぱたと仰ぎながら「太陽は全く何を思考してるのかしら」と嘆いた。しなやかな細い腕が扇子を左右に振らす。魅入るようなその姿がまるで誰かが嘯いた欺瞞のように現世にとどまっているかすら疑わしく艶めかしいものであり「扇いであげようか」と艶然を浮かべ問うたその言葉は間抜けにも虜にされた俺に届かずに咽せる程の暑さと共にゆるゆると溶けて消えた。
女の好きな季節は知らない。歳も生い立ちも家族構成も名前すら。
しかしそれで良かった。
俺達は過干渉するタチでも生き様でも無いし、自らすら把握出来ていないような曖昧だというのに、他人の腹を探りその核を握り締める必要は無いと答えを見出しているから。だからか否か人間味溢れる生臭さが無いレプリカを思わせる無機質な女は媚態やおべっかなんか微塵も存在しなくてどこか心惹かれるような自然な美しさがあった。「キスして」と悪戯に笑う女のその余裕を潰してやろうと引き寄せて深い接吻を交わす。熱さで澱む感覚に僅かに色を現し陽光が蝕んだ。夏にそぐわない冷え切った柘榴の唇が心地良くて灼熱に溶かされた脳内から甘美な麻薬が俺を壊してゆく。俺の腕も其処に縋った女の指先も熱く汗ばんでいて、不快な汗が桎梏となり指先がつっかかるように降下していった。つ、つつと不定期に触れる刺激。深い接吻に伴う艶やかな水音の微かな隙に稀に漏らす嬌声が女の抽象的偶像を剥がれ落とす。取り分け特別な感情なんかは無い。強いて言えばただ単に純粋な女への興味半分と面白味があっただけ。次いでに言えばこのキスにも当然意味なんか皆無。何故ならお互いに依存しない俺達に愛なんて煩わしい物当然持ち合わせてはいないからだ。そう女もきっと遊、び。秋が来れば多分鬱陶しい暑さと共に居なくなるだろう。






秋が来た。つんざく蝉も地中に還って新涼と紅く染まる季節が織り成した景色が琴線に触れるような情緒を感じ取る心は残念ながら持ち合わせてはいない。
女もまた同様なのか秋風に攫われる椛が頭にへらりと緩く横臥したのを奇異な物を見るように怪訝な瞳を向け二本の指で掴み剥がした。ひらひらと十重二十重に被さる椛の中にそれは混ざってゆく。蒼穹は色褪せ入道雲は空気の抜けた風船のように萎んでいったというのに俺の予想と相反して女はまだ居た。ただその関係は相変わらず未だに名前すら知らない赤の他人のままなのだがまるで呼吸でもするかのように気付けば女は隣に居た。俺も当たり前のように傍らにいる女を拒絶しないのは少し語弊が生じるが恐らく欠落した部分を欠陥品同士で補い合っているんじゃないだろうかと思弁する。決して色恋沙汰などという浮ついた確信なんかでは無い、ただ「興味」から「日常」に変改しただけ。何ら差し支えないのだ。
卒然「好きよ」と鈴のような耳慣れた声が紡いだ空想が鼓膜を震わせた刹那吃驚して女を見やると白い頬は夕日が吐き出した橙に染まっており口元に月のような弧を描いて「酷い表情ね。嘘よ、許して」と爪先で転がした。思わず先刻の思考が読まれたのかと一瞬戸惑った己が莫迦みたいだと恥じらい「冗談」と詭弁を弄するも女は見透かしているのか否かただ貼り付けたような笑顔を用いて地面を覆う幾重にも重なる足元の椛と戯れているだけである。紛らわしい、嘘。
何時も女は諧謔や閑談を好み相槌しか打たない無愛想な俺によく飽きもせずにひとりで饒舌を発揮していたがこの刻は違っており爾後一言も発さなくなってしまった。珍しい?いやどうだろうか。俺の中で女は徐々に日常に溶け込めど、何も知らない。他人だから。ただ判るのは饒舌で低体温なことや相性の良い身体、甘美な声ややわらかい髪そして屈託の無い澱みなんか知らぬ瞳くらいだろうか。つまり外面的情報のみなのだ。過干渉しないのは暗黙の了解。闡明にしようと拘泥すればきっとこの関係は拍子抜けする程簡単に破綻するだろう。もしそうなったとて別に未練なんか無い。深入りしていないのだ、名前すら知らない女を失えども何も変わらない。
しかし何故だろうか俺には以前は当然だった筈の女の居ない日常を今や書き起こすことすら出来ないのだ。






冬が来た。木枯らしが吹き曝しあんなに足元を紅く色付けていた煩い程の椛は色を失い萎んだ身体を押し黙らせただ分解を待ちわびていた。冷たい夜風が外気に触れている張り詰めた肌を突き刺す。澄み切った夜空に浮かぶ月は狂い無く球体で、闇に穴を開け一筋の白糸を垂らしていた。「寒いわ、冬は嫌い。暖かいと好きになるのに」と月光に照らされた女ははぁ、と赤い指先に息を吐きかければ幽玄に白くなって微睡むように消えた。「それは春だろ」とその華奢で壊れ物のような手を握り団服のポケットに入れてやれば低体温はゆるりゆるりと僅かな暖かみに溶け込んでいく。「欣然だわ」と女が漏らす。空虚を震わす声に一瞥すると女は痛々しい笑顔を浮かべた、それで笑っているつもりなのだろうか。「エクソシスト様を羨望してるの」あくまで安心するような朗らかな声、だが繋いだ手が小刻みに震えていた。霧を纏ったような不可思議な女が徐々に迫真性を露わにして明瞭を齎す。「お前、名前は?」初めて訊いた質問。俺はただ臆病で女の残酷な真実から目を背きたがっていただけなののかもしれない否、今も未だ怖がっているのだ。理解したくないと逃避し倦ねていたのだ、俺が赤の他人だと過干渉しないよう曇った窓硝子に指先で引いたような曖昧な線引きは何時の間にか立ち消え入ってしまっていたのも、事実を受け入れれば女は歴史上の存在ですら消えて……いや悪洒落も大概にしろ、笑えない。もつれた煩悶の眩惑から解き放たれた女は途端に現実を纏った。冷酷な空気が心臓を握り締めた、暗がりに沈んだ女の表情は見えない。
「1054番だったかしら」
握られた心臓がぐりと抉られたような幻痛が走った。嗚呼胸糞悪い終焉はやはりフィクションでは無かったのだ。女は涙淋漓として頬を伝わせた。「名前なんか此処に来るとき丸めて棄てたわ。野良犬が持って行ったかもしれないわね、素敵な名前だったから」言談なんか要らない、饒舌は鼻声でくぐもって言葉の続きは哀咽として白い息になって木枯らしに浚われた。「明日の実験で暫時だけ私もエクソシスト様に近付けるのよ。貴方と同じね」嘘言えその涙はなんだよ莫迦。ふたりだけの空間として切り取られたポケットの中で女の手は最期の証と言わんばかりに不安に爪を立てていた。「神様は理不尽ね、貴方は溺愛され私は愚かなただの被験者だもの。笑っちゃう」レプリカは俺の手に哀切を刻み初めて温かみを孕んだ人間と化した。失う恐怖に今し方打ち拉がれても無意味というのは頭ではわかっているのだが俺は女を愛惜していた、手放したく無くなっていたのだ。「貴方と春を迎えれるかしら」燦然と泣く女をしかと抱き寄せた。名前を失った女の存在は確かに腕の中に在り、例え不適合者となり咎落ちに落ちぶれてしまおうが裏歴史に消されようが神に奪われようが俺の衷心では喪われることは無い。だから決別の言葉は紡がないでおく。次に逢う時お前はまた何時ものように隣に居て、そして見窄らしい格好などではなく今度は団服に袖を通しているやもしれぬだろう?






春が来た。新たな命芽吹き芳しい花の香りが早朝を包み込む。寒々しかった木々には蒼々と新緑が散りばめられ、皐月晴れの爽快な風が駆け抜けてゆき、優しさを孕んだ太陽が肌を包んだ。女の好きな温かい季節と云うのにこの鮮やかな景色の中に女は居なかった、女に春は訪れること無かった。女は神の戯れに弄ばれたのだ。咎なんて無罪を背負わされて断罪され亡骸すら葬送せず手向けた花の逃げ場所も無い女の消去という事実を俺は未だ「死」として受け入れていないらしく無意識に隣に居るような感覚に陥り、どうやらつい女を渇望して探し彷徨してしまっているらしい、情けない限り。戦場の一線で佇む時はあんなに呆気なく幾千もの命が無情に失われても致し方ないと割り切っていたというのに、こんな脆いたった一つの名すら知らぬ他人の死のみで愕然とする己の弱さに苦笑する。誰かに女のことを訊こうとしたが名前も知らない上に薄情なことに俺の中であんなに鮮明だった艶麗な容姿も甘美な声も徐々に薄れかかっていてこれが「死」なのかと痛感させられた。思い出そうとすればする程女の偶像は崩れ遠退いてゆく。
そうだ、今度の非番に女が丸めて棄てた名前とやらを拾い上げにでも行ってやろう。野良犬なんかに捕られる前に見付け、掠れて暈けた記憶と共に埋葬してやろう。全ての人間や書物がお前を否定し消し去ろうとて俺の記憶の中で女はどんなに薄れて姿が見えなくなっても存在は消え入ることは無い。だから哀悼なんかしない、莫迦な他人に流してやる涙なんか無いし、お前の所為でどんな風に四季を越したかすら忘れてしまった。
おい、お前の好んだ春は白黒で酷く過ごし難い。諧謔や閑談の無い日々は酷く詰まらない。

「なまえ」、春の芳しい花に埋もれ安らかに眠れ。



fin