初めて人間になったんだ
ああ、ああ。
世の秩序とは実に曖昧で複雑、小さな皿に無理矢理積み上げたものだからバランスを少しでも崩せば一気に壊れるこの世界。
人間はとても高知能な生物、然しそれ故とても脆く、グループから弾かれたり少し鬱に為れば簡単にその命くしゃりと丸めゴミ箱に捨てる。
人間は好き嫌い激しい、共感を得ようとする、他人の目を直ぐ気にする。
実にエゴイズム生物だ。
つまり、私はあまり人間が好きでは無い。所詮簡単に裏切り作り笑いの裏で電卓を叩き自分の利益を計算するご利益主義な所が。

然し嫌いだからといって一生関わらずに生きていけるかといえば、其れは出来ない。私もまたご利益主義人間なのであろうから。


只、例外も無いと言ったら嘘に為る。私には大切に思える人はいた。
何処に惹かれたのかは自分でも分かる筈も無く、ただただ気付けばその人の隣に居るのが息をするよりも当たり前であり楽に為っていったの。
彼もまたこんな私を受け止め全てを認めてくれた。
初めて人に寄り添い依存してしまっていた。


だからなのだろうか、私はこんなに弱くなり脆くなった。
彼に依存することで私自身がより人間味を増したのだ。
気付いたとき、落ち込んだり自分を蔑んだりはしなかった、寧ろ心地よいとすら思えた。
この事を彼に話せば、まるで神様のような笑顔を此方へ向けて、



「それはとても良かったです。君は笑えば可愛いのに前はずっと仏頂面だったから」



なんてすっとんきょうな事を言ってのける。彼は本当に褒め上手で話し上手だった。だから鏡の前で笑顔の練習したり髪を伸ばそうとして彼に相応しい人間に為ろうとひたすら努力を重ねる日々。
気持ちというのはこんなにも荒々しく其れでいてとても優しいものとは知らなかったのだ。

私が確実に人間に成りかけていた時に、天罰が落ちた。

前々から気付いていた、もうひとりの自分の存在。
そいつは酷く誰かを恨み感情が激しく荒ぶる奴。





そいつは、「ノア」と名乗った。





ノア――…私達聖職者の敵、消さないといけない存在。

弱い高知能生物の私に悪魔の囁き、蝕むノアのメモリー。細胞ひとつひとつが、私の記憶が、消されてゆく。

待って、まだ待ってよ、私が彼のお陰でやっと。やっと人間になれたの、彼、



アレン……



私は彼の迷惑に為ってはいけないのだ。そうでしょう?
ああ、ああ、そんなことならばいっそのこと貴方の手で私を殺して。



「出来ません、僕には出来ないですよ」



彼は大粒の涙をはらはらとこぼし私を抱きしめた。
そんなに泣かなくてもいいのに。
私が此処から居なくなったとてこの世界は何一つ変わらず廻るのだ。エゴイズム生物は滅びることなど無く、今日もまた笑顔の裏で電卓を叩くのだ。誰も困る事など無い。
彼にそう伝えれば彼は「僕が困ります」とだけこぼし私に接吻を重ねた。
額に現れたノアの紋章を忌々しそうに撫で、何度も私の至るところに唇を落とした。

さよならアレン、貴方が初めて私を「人間」にしてくれた。
貴方が初めて愛しく思った「人間」だったんだよありがとう。



『アレンのその手で殺されるなら私は本望だよ。さあ、早く』

「僕は……僕には出来ないよ!!」

『お願い、もう駄目だから。早く』



早く。家族のみんなが迎えに来てしまうんだよ。
アレンはとても優しい人間だから何度も躊躇し涙を流してくれた。ああ、勿体無い。



『じゃあ此方に来て、』

「……はい?」



連れてきたのは教団の外。足がすくむ程の高さがあり、下なんてもう見えないくらい。
強い風が髪を乱せる。



『背中を押して頂戴』



声が震えているのが自分でも分かる。情けない限りだ。今更生きたいなんて思ってしまうだなんて。
アレンは目を瞑り、決心したように真剣な瞳を此方へ向けた。



「……なまえ、愛していました。
貴方と居るのが当たり前過ぎて言えなかったんだ」

『私も、初めて人間を好きに為った。愛してる』



彼がもう一度私を抱きしめる。さっきよりも腕の力が強く、強く。
このままもうひとつになれば良いのに。君の隣で一生を添い遂げたかった。
私の方から深い接吻を求める。君の最後の思い出頂戴。

もうなにも怖くない。


私は人間に為れたのだ。
世界で一番の幸せ者。
ご利益主義なんかじゃあない、リアル人間だ。

背中をそっと撫でるアレン。
イノセンスの所為かぴりぴりと其処が痛む。

早く、早く押して。
まだ現世に未練を持ってしまう前に。



「さようなら、なまえ。来世こそは……一緒に居ましょう。なまえが嫌だと言っても一生離しませんからね」

『当たり前よ。さようなら、アレン。愛してる』



初めてこんなに胸が苦しかった。涙をこんなにもこぼした。私にも涙腺というものが存在したんだ。思わず苦笑する。
温度と想いを確かめるように頬を寄せあった。
どちらのものか分からない涙が頬を濡らす。



彼の哀咽が後ろ髪をひく。
ぽん、両手で世界を手放された。
彼の左手の優しさがひどく背中が愛しく痛める。


ふわり、空中へと飛び立った。


「なまえ!」私を呼び止める愛しい彼の声。

にこり、涙でくしゃくしゃだろうけど精一杯の笑顔をだんだん小さくなってゆく彼に向け、届くかわからないけど大声で『ありがとう!』と叫んだ。

彼が崩れて私に何かを言っているが死に導く風の音だけが鼓膜を支配していた。


要らないよ、その言葉は来世で聞かせて?



次は戦争なんか無い平和な世界でふたり、皺だらけになる迄……。




fin