ジューンブライド
湿気を孕んだ鬱陶しい水無月の空気が、晒した二の腕の肌にびっしりと纏わりつく。
折角の非番だというのに外はすごい雨で、何処にも行けないまますっかり日も暮れてしまい、夜になってもどんよりとした空気とは裏腹に窓を叩く音だけがなんだか楽しそうだ。


俗に言うジューンブライド、なんて都合良い言葉はブライダル界隈が閑古鳥を撃ち落とす為に掲げ始めた勝手なジンクスなのだが、結果的に見ればそれに乗じてしまうことになった私達は、初めての必要書面を手に入れるというだけの初期も初期の時点で悪戦苦闘しながら戦っていた。いやいや既に幸先が悪すぎる。


こんな死戦で第一線を張る自分が誰かと籍を入れるなんて有り得ないし不可能だと思っていたが、教団に詳しい事務担当の御局のおばさんに出来るのかダメ元で確認してみるとなんと二つ返事で許可が下りて、なんならその場でにこやかにどうぞと三通の書類を渡された。

それに目を落とすと、それぞれに結婚届とかかれた書面が二通と、役所に提出する為の婚姻届が一通。
おお、紛うことなき本物だ。
なんだかこんなぺらい紙のくせして書類の重みが増してきてしまい、変な手汗がどっとかいてくる。

すると遅れてやって来た神田が何も言わずにスタスタと此方に歩み寄ると、当然のように私の後ろにすっと立った。
おばさんは一瞬別件で用があって並んで待っているのかと思われたようだが、それにしてはやたら近い距離と何気なくなまえの肩に置かれた手がまさにこの話の当事者なのだと点と線が繋がったように導き出されたのか、先程の笑顔がぱっと失われて彼を見上げたまま驚き固まっている。


「えっ!!?お相手って、か、神田!?」

「オイなまえ、テメェちゃんと言ってなかったのか?」

「そんなしっかりとした話をする程まだ時間経ってないよ」

「お前の方だったら手続きはすぐ出来るっつっただろ!
問題は俺の方だよな?なあババア?」

「神田言い方!メッ!」

「チッ!」

「えー……えっえっと……ちょ、ちょっと確認してきます!」


汗をかきながらくいと眼鏡を上げおばさんはバタバタと慌ただしく立ち去られてしまうと、後ろの部屋へ走り行き同僚達とガヤガヤとああてもないこうでもないと古いファイルをひっくり返したり書類を見せあっている。

その刹那、な?と言わんばかりの表情の神田とぱちりと目が合った。やっぱり彼が私に言った通り、そのざわつく大人達の渦中から聞こえてくるのは「戸籍はどうする?」と言うのが主題のようだった。するとやがてなんだなんだと同じ課の人だろう、どんどん集まって来てデカい話になってゆく。そして気付けばぽつんと残された私達は当事者だというのにすっかり置いてきぼりになってしまっていた。
隣でひとり、「面倒くせ」と大きな溜息を付く神田がなんだかすごくいたたまれなくなって、その引き締まった背中をポンと叩いた。


神田はこの教団で造られた。
だからただ戦う為に産まれただけの使徒に、わざわざきちんと役所に出生届とか出されてるわけないだろうな、なんて遠い目で言っていたが外れてくれればいいものの彼の予想は見事に当たり、まさに目の前のゴタゴタが正解を導き出している。


結婚の手続きをしたいとは言ったものの、そもそも結婚だって売り言葉に買い言葉みたいなもんで。
しかもそれもつい30分前くらいのはなしだし。

6月5日。
珍しく、神田のお誕生日前日に急遽お互い非番が重なったから折角だしと誘って一緒に夕食を摂っている時に、何気なく食事中の話題として私の同期の医療班の女の子がこないだ婚約した話をした。
そしてあー私もいつかしたいなー!って深い意味もなくぼんやり夢見る乙女のようにぼやいただけだったのだ。

すると隣で蕎麦を啜っていた神田がそれを聞いた途端、ギョッとしたような唖然とした瞳でなんとも言えない顔して無言でこっちを見つめてきたものだから、急に事の重みを理解して一気に汗が吹き上がりながら慌てて弁明した。
私達は恋人関係になってからそこそこ長かったから。

いやいつかじゃん!夢だよ夢!と慌てて両手をぶんぶん振る私に神田は唸るように低い声で「……誰とだよ?」と訊かれた。
ウッと虚をつかれた私は改めて自らの発言についてきちんと考えるも、彼以外ととか全く眼中に無いしなんて返答すれば良いのか分からなくなったのだ。
そしてどうしよう……と長い長い沈黙の果てに(神田もなぜか箸を置いてじっとこっち見て待ってるし!)のっぴきならなくなり、半ばやけくそに大きな声で神田とだよ!と叫んだのがこの事態の始まりである。

可愛い可愛い彼女が一大決心で愛の告白をしたのにも関わらず、表情ひとつ変えずに淡々と「じゃあ今から届とか貰いに行くぞ」と言い出したが最後、いきなり「はよメシ食え」とか「まだかよ」など散々急かされた挙句、いざゆかんと立ち上がった瞬間リーバーさんに報告書の不備で神田は呼び止められてしまい、不愉快全開のでっかい舌打ちをした後に先行ってろと追い立てるように食堂をつまみ出されて今である。
待って、展開が早すぎる急過ぎる生き急ぎ過ぎてるぞ神田くんよ。
んで今思えばあれがプロポーズということになるのか?えっ残念過ぎる。もっとこう……あっただろなんか。夜景が見えるレストランで……とまでは言わなくってもさあ……。


それにしてもいつものように面倒くさいの限界が来て私に呆れたように「もう良いだろ」と言い出さないのは意外だった。
神田は珍しくいつまでも待つ気兼ねだけはあるらしく、ああだこうだ言ってる人達を酷く冷めた目でずっと見ている。


「な、なんかごめん……あの私、神田を困らせたい訳でも無いし、絶対結婚したい!って言った訳じゃなくて、するなら貴方以外考えられないなっていうか「でも手続きしたらお前と居れるんだろ?」

「えっ!……そ、そりゃ当たり前に」

「ならそれだけで充分だろ。出来るかは分かんねーけどな」


言い出しっぺ故に申し訳なさに彼の方をちらりと見上げると、こちらになんとも狡いくらい格好良い顔を向けて自嘲を孕んだようにハッと鼻で笑う。思わずふっと笑い返すと、同時にまた部屋の奥での渦中に目をやった。
奥ではそもそもなんて誰かが言い出して熱い議論が交わされ出していよいよ全く収集つきそうにも無くなってきた。
こんなカオスで終わりも見えないというのにいつもと違ってずーーっと待っている神田にこっちの方がなんだか居心地悪くなってきて、そっと声をかけた。


「……神田、せっかく久しぶりの非番なんだから時間も勿体無いしゆっくりするなり鍛錬なり好きなことしたら?
結果が出たらまた私からそっちに報告しに行くし」

「いやいい。これは俺の事だ」

「でもそんな無理しなくても……」

「してねえよ。っつうかお前こそ、余命幾許も無いような俺と籍なんか入れていいのかよ?」

「いいの!神田と少しでも共に居れたって証拠が残るし、なにより嬉しいから!」


なぜか急にムキになってこんな場所で本音をぶつけてしまい、大声で言い切った途端に恥ずかしさでどんな顔したら良いのかわかんなくてへへへと気持ち悪い声を出しながらにやりと変に頬が緩んでしまう。向こうの人達も吃驚したのか視線がやたら痛い。ああー他人だらけのこんな所で今言うことじゃないよな恥ずかしい。
神田は一瞬驚いたような表情をして暫時固まっていたが、すぐきなにかを悟ったようにまた挑発的にニィと口角を上げて犬歯を覗かせた。

すると卒然、神田の胸元で寝ていたゴーレムからけたたましく呼び出し音が鳴り、すぐに耳慣れた男性の声がノイズと共に流れた。


「神田くんヤッホー!聞いたよ結婚おめでとー!このこの!隅に置けない奴ー!」

「うるせえぞコムイ!用がねえなら切るぞ」

「待って待って!
いまさっき総務から連絡来たんだけどゴタゴタは全部こっちで責任持ってなんとかするよ!
あとは事務員に貰った書類記入してまた渡しにきてね〜」


あ。
感謝の言葉を告げるよりも早く、その通信はブツッという音と共に切れてしまった。
……コムイさんは何時もヘラヘラしてるしよく逃亡しては確保されているのでつい忘れがちだが、こんな多忙の合間を縫ってでも下からの相談を受けてすぐに判断してくれたその仕事の速さは流石としか言いようがなかった。

なんとも肩透かしにあったようなウルトラCの呆気ない解決の仕方に、お互いに何も言葉を発することも出来なくってしまい、とりあえずどちらからも示さずとも神田の自室へ一緒に向かっていた。

私よりも余程吃驚しているのはそりゃ当然神田だろう。
きっと自分の出生を知ってしまってからずっと色んなことを諦め続けて生きてきた人だから、こんな本来当たり前の小さな自由を得られたことにすらなにか思うことがあるのか部屋に着いてもしばらく何も発さなかった。

心配になりそっと背中を擦りながら顔を覗き込むと、初めてみるような胸が詰まったような切ない表情をしていた。それを見た途端思わずこっちまできゅうと胸が苦しくなり、咄嗟に強く抱き締める。するとはっとしたように肩がが跳ね、眉間に皺が刻まれてゆきいつもの見慣れた仏頂面に睨まれてしまった。


「おいバカ止めろ」

「ふふ、これからよろしくね神田」

「…………お前も一緒の苗字名乗るんだろ」

「たしかに。えっなんか恥ずかしいな!」


実感がようやく遅れてやって来て、いつかなんて遠い遠い夢物語だったのが、目の前のこんな薄い紙切れが現実の出来事へと引っ張ってくれるなんてなんだか不思議だ。

提出日と書かれた欄が入籍日になるらしいので、諸々の手続きは此方で行うから好きな日を記入して良いと事務員に説明を受けたので、私は早速「明日だし神田の誕生日に入籍したい!」とビシッと真っ直ぐ挙手した。
するとさっきまで黙々とペンを動かしていた神田は此方に顔をあげるといかにも面倒そうで正気か?と頬に書いてる顔をしていた。なんだよその顔!プロポーズもなんも無いんだからこんなん可愛い要望じゃん!

そして彼の書き進めていた用紙に目を落とすと、案の定わざわざそんな事に拘る性格でもない現実主義の神田は普通に今日の日付を書きかけているではないか。
ちょっと待って、これから毎年祝うんだぞ!?ちょっとはお互いに相談しようよ!?


「はぁ!?なんで俺の誕生日に合わせんだよ?そもそも明日だって誕生日じゃなくて、」

「目が覚めた日でしょう?知ってるよ。
それでも、私にとって貴方が目覚めてくれたのは特別なことで嬉しくて仕方がないの! 」

「……ならお前の誕生日でも良かったじゃねえか」

「違うよ、神田がそんなんだから今日を結婚記念日にしたらぞんざいに扱わなくなるかもだし!ね?」

「ハーッ……好きにしろ」


神田は乱雑にシャッシャと訂正線を引き、提出日の欄には6月6日とボールペンが謳う。これで明日は彼の誕生日とそして二人の結婚記念日になる日だ。

その書類に目を落として空欄を埋めてゆく美しい横顔はいつもと変わらない鹿爪顔だが、不意にぱちりと目が合うとその透き通る蒼い瞳を細め長い伏せがちの睫毛が艶やかに輝き、とけてしまいそうな温度でじっとこちらを見つめた。もう、急にそんな顔して狡い。

途端に頬が熱くなってゆき、悟られないように慌てて視線を外すと自分の白いままの用紙にペンを走らせた。
分からない所は神田の用紙をカンニングしながらもなんとか出来た!と笑って見せたら、神田は刹那だけふっと少しだけ微笑んだ。すぐに私の視線に気付いたのか隠すように真顔に戻るもずっとどことなく嬉しそうで、無言のまま私の書いた紙をするりと奪ってゆくとなにか物思いに耽っているのか穴が空く程じっと見つめていた。


「少し早いけどお誕生日おめでとう、神田。
これから末永くよろしくね」

「馬鹿なまえ。後悔すんなよ」


明日は大切な記念日になる予定だから非番ならどこかに食事でも行こうよ!と軽口を叩く私をいなすことも無く珍しくあっさりと頷くと、急に強く強く抱きしめられた。


神田、産まれてきてくれてありがとう。
お誕生日おめでとう。