濡れた君のせい
こんなに底冷えするような気温だというのにとどめを刺すかの如く、篠突く雨。キンと突き刺すような冷たさに頬が痛む。
容赦ない曇天に目を細めて空を睨むもそんな事なんて知ったもんかと分厚い雲は切れ目すら見せずにひたすらざあざあと音を立てて降り注ぐ。
約束の集合場所の目印になったらしい背の高い瀟洒な時計塔はその小洒落た針でまもなく16時を告げている。
私達は無事殲滅したAKUMAの残骸を背後に残したまま先程任務完了の報告をし、教団へのゲート開門までの時間をゆく宛て無く潰していた。

私よりも先に胸元からゴーレムを取りだした神田に報告を丸投げして任せてしまったが、雨を凌げるもっと屋根の近い所を指定して貰えば良かったなんて私はこっそり後悔していた。
しかし隣で佇む男はそんなの大した事ないのだろう、素知らぬ顔してずぶ濡れになっているそのコートの背中で口を開くフードもお飾りなのか、被る事すらせずに頭からひたすら土砂降りの雨に打たれていた。

二人の間には沈黙と冷たい雨だけが降り注ぐ。
暫しの間彼に並び時計の針を見詰めながらぼんやりと過ごしていたが、いつまで経っても終わりを告げるあの見慣れた光は現れず、疲れも溜まっているしこのぐしょぐしょの団服の重さも相俟っていよいよその場に座り込みたい気持ちに駆られてきた。

それでも神はそんな可哀想な私に慈悲もくれず無情にもその雨脚をより強くしてきやがった。
バケツをひっくり返したような勢いで全身を隈無く叩かれてもはや痛みすら感じる程で、瞼にも当たれば反射的に目が瞑り開けない。垣間見る微かな視界すら真っ白く霞む程の土砂降り。しかも鼻先が悴むくらい寒い。

目の前の男はこんな大雨なのにさして気にも留めていないのか全く身動ぎひとつせずにさっきからずっと俯いている。
毛先からひっきりなしに滴るしっとりと濡れた黒髪は一層燦然と艶めき、美しい横顔にはつるりとした頬から次々と雨粒が星屑のように瞬き流れ落ちている。
なんでこんな一頻り降られても絵になるんだ。そして下着までびっしょりだろうになんでなんとも思ってないんだこの艶男は。

……ここまで打たれて我慢したのに今更で少し負けた気にもなるが、もう限界だ。
私はちらと時間だけ見やると憎らしいがまだ約束の時間まで少しあるのを確認し、もはや何の意味も無いのにフードを深く被り直して僅かでも濡れる面積が減るかもという足掻きで肩を窄めながら近くの小売店まで小走りで向かった。

同様に雨に打たれて小さな悲鳴を上げながら突入する様々な客達に売れ筋なのか、レジから一番目立つ所に置かれていた大きな傘を一本購入して元の場所まで戻るも、同じ服を纏う眉目秀麗なダビデ像は未だにそのまま立ち尽くしている。
全く状況が変わって居ないことに一瞬がっかりとして肺の底からはー、と溜息を着いてしまったが、自分ですら聞こえない程のざあざあ降り頻る大きな雨音にあっさりと掻き消された。

おろしたての艶のあるワインレッドの傘をぱん、と一気に開いて頭上へ掲げると一方的に壊れたシャワーの如く浴び続けていた鬱陶しさが無くなり一気になんとなくスッキリした気持ちになる。
篠突く雨のこの景色もなんだか俯瞰で見れる余裕が生まれてようやく少し落ち着くも、目の前に佇む神田が未だに無防備にざんざ降りに撃たれ続けているのがなんとなくいたたまれなくなり、私はえいと腕いっぱい空へ突き出してそっと傘を彼へ傾けた。

神田は一瞬はっと驚いて顔を上げるもすぐに眉根を顰めて怪訝そうにこちらをじっとり睨む。


「……なんのつもりだよ」

「こんな降られたら嫌にならない?狭いけど一緒に入ろうよ」

「いらねえ」

「まあまあそう仰らずに、ね?
折角自腹切ったんだし二人で使う方がオトクじゃん」

「意味わかんねえよ」


確かに彼の言う通りそれはそうだ。自分でも正直意味わからん。
でも何となく、飢えた子供たちの前で自分だけ食事が摂れないように、床掃除して下さってる方の目の前を土足で歩きづらいように、自腹で購入したとはいえずぶ濡れの人の前で自分だけ傘に入るのが申し訳なかったのだ。

これ以上押し問答をするのも労力の無駄だしそもそも立ち去るにもお互いゲート待ちなので何処にも行けやしない神田は四面楚歌でムスッとしたまま暫く黙りこくった後に「勝手にしろ」と低く唸るように呟くと、すっと大きな一歩が私の傘の中へ踏み込んで、ふたり紅く同じ色の影を落とした。

ぐんと一気に近付いた距離で急に視界いっぱいに神田の疎らに濡れた髪が張り付く団服でいっぱいになり、すぐに己の安直な考えに後悔した。
今まで相合傘なんてリナリーやミランダといった女の子としかした事がなかったからすっかり失念していたが筋肉質だが細身の神田とはいえ大の男だった。
傘という漢字には四人も人が入ってるというのに半分である二人でもこれはかなり狭い。
やたらと煩くなった拍動が必然的に触れ合ってしまう所から伝わってしまいそうでなんとか落ち着こうと深呼吸するも、濡れている事でより何時ものほんのりとしかしない石鹸の香りや彼自身の髪や肌の香りが強く芳しくってかえって神田をもっと異性と意識してしまいくらくらとしてしまう。

ああどうしよう。今更出て行ってなんて言えないし。
雨の所為で視界は白く曖昧でいて唯一輪郭がはっきりしているのは彼だけなもんだから、なんだか二人きりの空間に切り抜かれたように錯誤すらしてしまう。だんだんと恥ずかしさに頬が熱く紅潮しているのが自分でも分かる。

彼がいまどんな顔しているのか気まずくて見上げることすら出来ない。まあ尤も、意識してるのは私だけで神田は全くなーんにも気にもせずいつものようにフラットな仏頂面なんだろうけど!

居心地悪さにほんの少しだけ身動ぎしただけなのに、団服越しにでも伝わってくる引き締まった胸板にとすんと軽く肩がぶつかってしまい、その感触がはっきりと伝わって来た途端ただでさえ速い心臓がもっと煩く騒ぐ。
あっごめんね、と小さく振り絞った声も俯いてしまったままだと届かないのか神田からはなんの反応も無くて、容赦なく傘を叩く雨音の大きさだけがひたすら響く。

あとどのくらいの時間でゲートは開くのだろう。
生憎過ぎる悪い視界に時計塔は時間はおろかその輪郭すらぼんやりとしか確認出来ない。ポケットに懐中時計は入ってはいるが、もしも取り出そうと動いてこれ以上うっかり触れてしまえば私はもう面映ゆくて面映ゆくって爆発してしまいそうだ。
するとずっと守っていた沈黙を破り、不意に彼がこの距離でしか聞こえないくらいの声量で「おい、これ」とぼそりと呟いた。顔を上げるといつの間にか私の腕が下がってしまい、低く傘が落ちてきた彼は首を竦ませてなんとも迷惑そうに目を細めている。
切れ長の蒼い瞳とぱちりと視線が合えばさぞ鬱陶しそうにはーっと大袈裟に溜息をひとつ付かれた。
そして彼の長く細い指先が傘の骨を掴んで何時もの見慣れた凜然と背筋を伸ばせる所までぐーっと持ち上げると、呆気ない程すぐにぱっと手を離した。
吃驚して瞳を丸くしたままの私へ、なんとも小馬鹿にしたような狡猾な悪い笑みを浮かべて神田は此方を見下ろし軽く指を指す。


「お前が勝手にやるっつったんだろ、サボってんじゃねえよ」

「そだよねごめん!でも腕しんどいからちょっと1mくらい背縮んでくれない?」

「出来るわけねえだろ馬鹿」


なんせこの身長差だ。
悔しいので本当は認めたくないが神田より私は頭一つ分は背が低いんだからずっとめいいっぱい伸ばしていたらそりゃあ腕だってだるい。

仕方なく左右交互に持ち替えたり空いた方の手も痺れを取るためにゆらゆらと揺すったりしながらなんとか持ち上げてはいるつもりでもまただんだんと重くなった肘が下がってきては、「おい」と己の面積が狭まっている事を指摘されてはいはいとなんとか伸ばすことを繰り返す。

神田もちょっとは屈んでくれてもいいものを、とも一瞬頭をよぎってこっそり恨めしく思いつつちらりと見上げると、なんとも意地悪に口角を上げて心底愉快そうな視線とぶつかった。
こやつめ。これは確信犯だ、絶対ワザとだ。



しんどい分余計になのかもしれないが体感ではかなり時間が経過したように思うのに、待てど暮らせど肝心のゲートは一向に現れないし、雨脚もこんなに降り注ぎ尽してるのにまだ在庫がたんまりなのか全然弱まる気配もないし。
いよいよなんだか少し不安に駆られてきて、私と相反して飄々としている神田の方を見上げた。
此方の視線に気付き降りしきる雨から目線を外し長い睫毛を落とした彼はなんだかすごい涼しい顔してやがる。
云うならばそう、なんの労力も使わずに雨宿りしているみたいな。
いつも性格上待てが出来ないのは神田のほうなのに、今日は何故か気が長いのかすぐブチ切れる短気も発揮せずに悠長にこの悪天候を待つ気兼ねがあるらしい。
そりゃそうか。私がマネージャーみたいになってるし。


「……ねえもしかして私達忘れられてない?」

「お前じゃあるまいしあるわけねえだろ」


とすっかり呆れた顔で返されてしまった。
うん、まあそれもそうか。と一瞬頷きかけるも、いやいやそれこんなにも尽して頂いてる相手に投げる言葉じゃなくない?

もう緊張とか羞恥とか感じないくらい疲れた私は『共に傘に入るならなるべく引っ付いている方が腕が楽だ』と苦難の末に編み出してから、もう神田の何処にぶつかろうがお構い無しに身体を寄せたまま腕を伸ばして耐え忍んでいた。
だけどたった今あーんな意地悪なことまで言われちゃったしいっそ全体重預けてやろうか、とも思ったのだが神田は絶対この乙女にデリカシーも無く『重い』だなんて平気で言ってのけるだろうから、仕方無く歯を食いしばって我慢することを選ぶ。

まるでひっくり返った虫が足掻くのを傍観するような残酷な遊びにもすっかり飽きたのか、ぷるぷると小刻みに震えながら頑張る私をひとしきり嘲笑していた神田はついに何度目の注意をした後に、突然すっと無言のまま私の傘を攫った。
あんなにも重く感じていたものがあっさり手元から離れてゆく事にはっと驚いて彼の方を見上げると、やはり無駄に格好良い面で静かに見下ろす瞳と束の間だけぶつかったかと思いきや、再び緩やかに逸らされた。


「どうしたの?急に気が変わった?」

「別に」

「ついに鬼の神田くんもやっと優しいとこ見せてくれたのかあ」

「減らず口が。いちいちうるせえな」


神田はなんだか表情を悟られまいとするかのように、目線を此方から外したまま半歩だけすっと後ろに下がると、少しだけ此方が濡れないように傘を傾けて掲げた。
はみ出てしまった彼の広い肩が再びざあざあと雨に叩かれている。その彼の不器用な優しさに思わずふっと笑みが溢れてしまった。

でもなんで今更わざわざ?と不審に思い、彼が傘を掴んでいる手の上からひたりと触れるように重ねて角度をまっすぐに調整して遠ざかった分だけそっと近寄ると、またさも当然のように半歩だけブーツをこつんと鳴らして下がられてしまった。
なんだこの押し問答は。


「なんで離れるの!濡れてるじゃん!」

「……、から」

「え?聞こえないよ」

「テメェ当たってんだよ!さっきから!」


ずっと私を視界に入れまいとそっぽ向いてたのが漸く目が合ったと思えば、ワッといきなり噛み付くようにキレられたものだから、温度差に吃驚し過ぎて思わず固まってしまった。

先程から傘の赤に染まっているのかと思っていたのだが、怒った勢いでより私の方へ傾けた所為で恩恵から外れてしまったのにまだ頬が紅潮しているのは、どうやら神田自身の血色だったらしい。
火勢良く怒っているのにその所為でなんだかあどけなくて、伝えれば絶対余計に叱られるだろうけどなんだか可愛くみえてしまう。


「人の気も知らねえでずっと押し付けてきやがって!ちゃんと自覚しろ馬鹿!」

「ごめん!ごめんなさい!」


無粋な神田も流石に言いづらいのか何処がとははっきり言明しなかったが、どうやら胸がずっと当たっていて我慢の限界が来たと叱咤されている。

それはもう極悪過ぎる痴女さながらの行動にひたすら猛省して何度もごめん!と謝っていたが、深く頭を下げた際にほんの一瞬だけちらと確認してしまったのは彼のロングコート越しに主張している下半身の膨らみ。

彼もすぐに気付かれないように身体ごと向こうへ背いたので見えなくなってしまったが、私も長らく死線をくぐり抜けて叩き上げで鍛えられた動体視力が完璧にそれを捉えてしまったものだから、舌の根も乾かぬうちに次は悪い好奇心が黒く膨らんだ。えっ待って待って、今のって……。

神田もギクリと少し気まずそうに暫時狼狽えるも、私の心底愉快そうに口角を上げて子どものような興味津々の瞳に、不味いと感じ取ったのか咄嗟に大きな手のひらがこっちへ伸びてきたと思えば、冷えた手に双眸を覆われてしまった。
真っ暗になった視界に、意地でも覗こうと躍起する私も必死でその桎梏を払い除けようと神田の手首を掴み離そうと拮抗する。


「オイ馬鹿見んな!悪ィけど男は勝手にこうなんだよ!」

「一瞬でいいから!ね!お願い!!ね!?」

「やっやめろ!寧ろ何がお前をそこまでさせるんだ!?」

「好奇心ですね」

「ふざけんなテメェ後で覚えとけよ!」


二人でプライドと好奇心を賭けた決死の取っ組み合いをするも、男女の力の差は歴然でいて全く歯が立たない。
暫く『見せろ嫌だ』で言い争っていたがまあ勝ち目もほぼ無いし瞬間接着剤でも着けたかと錯誤する程に全く目元から神田の手はかたくなに離れないし、力も結構入ってるもんだからちょっと眼圧掛けられててしんどいし、致し方なく抗うのをやめて、私はふっと神田の手首から手を離した。

しかし力こそ少しは抜けたもののいつまで経っても私の目を塞ぐあてがわれた手を解放してはくれなくて、どうしたのかと見えやしないのに暗がりのまま彼を見上げる。
散々暴れ合ってすっかり温かくなった手は日頃の鍛錬により固くなっていて神田の優しい匂いがする。

違和感と不安で何か話そうと口を開けば、じゃりと足下で踏み締める音がして彼が躙り寄る気配と共に私の額に彼の髪が冷たく触れた。

いま神田がどんな表情をしているのかも全然見えない中で、雨もすっかり止んで上がったのか急にしんと静まり返った空気に、どこか苦しそうな切なく低い声音が落ちてくる。


「お前にはこんな状態で我慢する辛さなんかわかんねえだろうがな」

「それは……」


視界が奪われた分なのか他の五感が研ぎ澄まされて、触れられた所から彼の荒い息遣いが耳元へ掛かった。
運動による息が上がった時とはまた少し違う激しい呼吸はのぼせからくるのか、なんとか平静を保とうとするように浅く速い吐息の間に、きっとあの尖った喉仏を鳴らしているのだろうか、ごくりと生唾を飲む音がした。

初めてみる神田の何処か余裕の無さそうな雰囲気が肌からひしひしと伝わる。

そうか、勃つってことは興奮してるっていう……?
さっきまで散々詰ったというのに改めてきちんと理解が追いついた途端に恥ずかしさが込み上げてきて、身体中が一気にぼんと音を立てて熱を帯びる。
どうしたら良いのか分かんなくてそっと手探りで触れようとすれば、すぐ様ぱしりと音を鳴らして手首を掴まれてしまった。
支えが無くなった傘がタン、と音を立てて跳ねる音がする。

吃驚してされるがままに硬直していれば、突然パッと手を離されて一気に視界が開けた。
急な明るさに何度も瞼を瞬かせていれば、ムッと怒ったような神田の顔がぐっと寄せられたかと思いきやその空いた手が回り、ぎゅっと強く肩を抱き寄せられた。
そして吐息混じりの声に低く脅すように囁かれる。


「分かんねえのか?次やったら襲う」

「ご、ごめ」


震える声で謝罪を最後まで言いかけた頃に、ようやっとゲートの開く音が聞こえて突如として私は全てを解放された。
びっくりするくらい真っ赤な顔してこんなにもどぎまぎしたままの私を放置して、呆気なく離れた神田はすぐに踵を返して方舟へスタスタと歩みを進めてゆく。

今までのは夢だった?と錯誤してしまう程にいつも通りの神田の背中を追いかけることも出来ずに、ただただぼんやりと見送ることしか出来なかった。

でも肩に残る神田の掌の熱も、持ち主を失い開いたまま落ちていた傘も現実だよと告げているようで、私はやっとハッとして傘を拾い上げると先をゆく凛呼と伸ばされた彼の背中を追い掛けて小走りで向かった。