穴があったら入りたい

人の口に戸は立てられぬとはいうものの、まさかこんな迅速に拡散するとは全く予想だにしなかった。

あの噂の次の日、神田が暴れた事件の目撃者のひとりのファインダーが、食事中のただの話題として同僚に面白可笑しく話していると、突然後ろからポンと肩を叩かれた。
はたと振り返ると、まるで天使のように美しく微笑む白髪のエクソシストの少年がひとり。

「ねえそれ、僕にも詳しく教えてもらえません?」
と慈愛を孕むような笑みでズイと顔を寄せて興味津々に尋ねられた。
星型の印象的な傷が頬に走る銀灰の瞳を細めて人懐っこい犬のような立ち振る舞いをする彼へ、驚きつつもとりあえず見聞きした全てを彼に話すと手短に感謝の言葉を告げて、スキップしながらさぞご機嫌に立ち去っていったという。
残された男達は軽い足取りで去っていく彼をしばらくぽかんと見ていたが、その中のひとりがぷっと吹き出して笑った。


「ありゃあ絶対直接聞きに行くな、アレン」

「アレンって、あの新入りエクソシストの?」

「アイツ初日から神田と喧嘩してたらしいじゃねえか、また面白くなりそうだな」

「まっこんなんどうせただの噂だろうがな!」

「あの神田だしな!ワハハ!」


どうせただの噂だ。
殺伐とした職場内でのゴシップなんて、所詮ただの束の間の娯楽でしかない。そこに信憑性が無くともどちらでも良いのだ、噂でしかないから。
彼自身があまりに浮ついた話から乖離した堅物野郎で、浮ついた野郎は出てけと散々他人には過激にキレていたのにもし誰かと恋仲だったらそれはそれで面白いからという理由だけで、余計に拡散しただけ。
ただそれだけだと誰しもが思っていた。








アレンは思わぬゴシップをファインダーから聞いてから、いつ神田を揶揄ってやろうかとこっそり心中で思案していた。

神田とは昼食時、お互い非番のときは何故かよく会うことが多かった。
僕は大食いだから大量に注文してお昼の一番繁忙期に厨房を塞ぐのは申し訳なかったし、神田なんてどうでも良いからあんまり考えたこと無かったけどまあ多分、人混みが嫌いだから混み合う時間帯を避けてぶつかるんだろう。

だからかよくダブって喧嘩ふっかけてきて揉めることも多い。まあやられっぱなしも癪だからこっちからも何度かはしたけど。(飯くらい静かに食わせろっつってんのはどっちなんですかこの野郎!)

今日は神田の野郎も残念ながら非番らしいので、まあ結局食堂でかち合うことにはなるだろうな、とは思ってたけど。
まさかの案の定というか予想通り過ぎて面白いくらい、あっさりと食堂に神田は居た。

どうせまたいつもの如く芸もない同じ蕎麦を頼んだのだろう、注文口のところで立っていて無愛想にぼけーっとその間抜け面を晒して立っている。
目が合ったらなんとなく腹も立つしまたあることない事で文句言われたらめんどくさいので、さきにありったけの昼食を注文する為にとりあえず何人か先に並んでいた人影に隠れて厨房に並ぶ。
まあ尤も、今日の僕には先程仕入れたての最強の切り札があるのだけど!

やっと順番が回ってきて片っ端から思い付いた食べたいモノを呪文の様につらつらと羅列していけば、ジェリーさんは「作りがいがあるわン」と言いながら既に作業して進める。もはや目が追いつかない程ハイスピードな手捌きで次々と仕上げてゆき、僕の目の前にほかほかの美味しそうなご飯が次々と積み上げられてゆく。
それが鼻腔を擽った途端に従順にぎゅるぎゅるとけたたましくお腹の虫が鳴り騒いだ。


「おまちどーん!美味しく食べてねン」

「いつもありがとうございます!ジェリーさん!」


見事な黄金バランスで全てを積み上げてくれた盆を両手に持ち上げてなんとかよろよろと慎重に運ぶ。
双方に聳え立つタワーの合間から辛うじて見えた近くの空席に置こうと忍び足でゆっくり歩んでゆけば、突然空気の読めないパッツンがスタスタと視界に現れたかと思いきや、なんとその席にすとんと座ったではないか。

危うくぶつかりそうになったにも関わらず、こちらを見もせずに食事にありつこうと割り箸をぱちんと気持ち良い音を立てて割る姿に我慢ならなくって、呑気なその後ろ姿に向かって唯一空いている足で思いっきり踵落としをかました。
こないだ新調したばかりのブーツの踵はしっかり仕事してくれたらしく、ゴン!という神田の空っぽの頭にぶつかると気持ち良い音と共に確実な手応えがある。

神田は手に持っていたつゆがばしゃりと零れると同時に振り向きざまに怒号をあげながら立ち上がった。
その勢いで胸倉を掴まれたのでアレンもいよいよ頭に血が上り、感情のままに蕎麦の隣にガシャン!と音を立てて両手いっぱいの食事を全て置くと咄嗟に左手で神田のシャツの胸元を掴み返した。


「テメェ!何しやがんだクソモヤシが!!」

「アレンだっつってんでしょう!?
僕が必死に運んでるっていうのに席に割り込んで来ますか普通!?」

「お前なんかわざわざ見てるわけねえだろうが!
他の空いてる所行けばいいだろ馬鹿!」

「なんで僕が移動しなきゃなんないんですか!
そもそも思いやりってもんが無いからそんなに視界が狭いんじゃないですか?単細胞バ神田が!」

「お前こそ許容も無ェからいきなり蹴ってきたんだろ!似非紳士野郎が!」


白い額に幾つも青筋を立ててキレる神田のその無駄美形を思いっきりフルスイングで殴り付けたい衝動に駆られるも、邪魔なコイツの後ろには人質のように美味しそうなごはんが堆く積み上げられている。

これ以上空腹にも耐えられないし折角ひとつずつ丁寧に作ってもらった温かいごはん達をいち早く食べたいという欲の方が勝り、アレンはわざとらしく大きな溜息をひとつ付くとさっきまで憎しみを込めて胸倉を掴み上げていた手の力を緩めた。

神田も空気が変わった事を察知したのかピクリと一瞬眉を顰める。
それを見ながらパンパンと大袈裟に手袋を嵌めた手を叩いて払えば、急にニヤと意地悪に口角をあげてせせら笑った。


「君ってばそんな性格悪いのによく彼女出来ましたよね」

「は!?ち……ッ、…………もういい」


さっきまでの威勢はどこへやら、アレンが発した言葉を聞いた途端神田は一瞬はっとして怯んだように言葉を失うや、戦意喪失したのかアレン同様に襟首を捻り上げていた手を呆気なく離した。
そのあまりの効果の高さに切り札を切った張本人ですら吃驚してしばし固まってしまい、すっかり何も言わずに静かに席に着く神田の異様さをまじまじと見つめる。

えっ怖!なにその変貌!
幾らなんでもこのカード殺傷能力高過ぎやしませんか?

とはいえ残念ながら一時の感情で怒りのままに食事を蕎麦の隣に置いたものだから、必然的にこんな奴と一緒に食べることになってしまったことだけが少し引っ掛かるが、もう運ぶのも面倒で。
仕方なく2人共水を打ったように沈黙したまま、アレンの方は尚更にひたすらガツガツと胃に詰め込んでゆく。



やっと少しお腹が満たされて来た頃、そういえばあれからずっと大人しく蕎麦を啜る神田が、最後にこちらが投げた爆弾をまだ一度も否定して来ない事にふと気付いた。

あれ?
ってことは、彼女説は寧ろ肯定してるってことじゃ?

時間差でその事情に漸く理解が追い付くと、さっきまで必死に口に詰めていたごはんが喉に引っ掛かりげっほげっほと咳き込んで大きく噎せる。
隣で「きったねえな」とうざそうにボソリと零す神田にも腹が立たない程今更激しく動揺して、脳の処理が追い付かずに彼を二度見しながらなぜか急に立ち上がり椅子もガターン!と大きな音を立てて倒してしまった。


「えっ!!??まっまさか、本当なんですか!?」

「急になんだようるせえな、黙って食えよ」

「こんなバ神田なのに!?
誰ですかそんな変わり者は!??」

「…………あそこで飯食ってる奴」


手をワキワキさせたまま今にも噛み付く勢いでアレンが尋ねると、神田はこれでもかと眉根を顰めて一瞬ものすっごい嫌そうな顔をしたが、ぷいと顔を逸らしたあと面倒そうにピッと細い箸で指した。

その先には遠くの方の席でひとり、静かに食事を摂る華奢な女の子。

まじで居たのか……とアレンはすっかり何時もの紳士らしさすら忘れてあんぐりと口を開いて、その目線にも気付かず俯いている彼女をただただ見つめた。


しかし肝心の神田からすれば、そんな噂なんて全く価値のない事だった。
ただ、少し前になまえと話した時に自らが発した「噂への抑止力」とやらをより大きく齎す為だけに、何の気なしに軽い気持ちで肯定しただけっていうのが既にかなりタチが悪い。
その価値観の重みの差が犬猿の仲の二人を隔たる齟齬として甚大に発生していた。


アレンからするとそんな事なんてつゆ知らず、こんな重大爆弾発言をさもありなんと平気で言ってのける神田により苛立ちを募らせる。

クソッ神田の野郎、てっきり日頃の行いが祟って妙な噂を流されただけだろうと揶揄ってやったのに出任せでも無くはっきりとコイツだと指しやがったってことは実在してるようだし、ましてや離れていても雰囲気だけで分かる。あの子は絶対可愛い!
なんか寧ろ腹が立ってきた。
前に僕と談話室で浮ついた奴は出てけ!っていきなり喧嘩振ってきたのはどこのどいつですか?自分だけ黙ってこっそりすっごい可愛い彼女こさえやがって。


「ちょっと!!?僕と喧嘩したの忘れてなにちゃっかり抜け駆けしてるんですか!!」

「はぁ!?ふざけんな!テメェなんかとそんな約束した覚えねえよ!!」

「どんな狡い手を使ったのか知りませんが君なんかにあの子は勿体無いです!ちょっと僕が彼女と話してきます!」

「なっ、!!?……やめろクソモヤシ!!!」

「あっまさか後ろめたいんですか!?
ってことはもしやただの思い込み野郎ですか!うわっ気持ち悪っ!」

「ちげーよ!モヤシ如きのクセにアイツと喋んじゃねえよ切り刻むぞ!!」


すっかりヒートアップした二人の怒声はこのだだっ広い食堂にしっかりと響き渡り、しかも疎らだった人数もいつの間にか日が上りきった真っ昼間の繁忙期に差し掛かったのもあり、その内容が内容なだけに傾聴者があまりに多過ぎた。
しかし肝心の当の本人らは胸ぐらを掴み合い眼を付け合っていて、お互いしか見えていない。
その狭過ぎる視界の喧騒の外では、本人らの意志とは関係なくその噂が真実だとはっきり明白にしたようなもので、不本意ながらより効力を上げて「あの噂ってやっぱり……?」「まさかアレ本当だったのか……」なんてザワザワ小声が漏れる中、面白いくらいにどんどん周囲へと拡散してゆく。

なにより、無関係にひとりで昼食を摂っていただけのなまえもまたその当事者として突如踊り出されて後ろ指を指され、もはや看過できないほどに厭でも聞こえるその大声での喧嘩の内容がもう恥ずかしくて恥ずかしくて。

あのー神田さん、噂なんてどうでもいいとは言ってたもののそれってば自ら拡散してるようなもんですよ!?と立ち上がって叫びたい衝動に駆られるが、今あの中に乱入して同類とも思われたくない。

いつの間にか騒ぎを聞きつけたんであろうにやけ顔のファインダー仲間の先輩達がホールドするように両隣に座っていて、なまえをヒューヒューと冷やかし肘で小突いた。

ああもう、これが本当の穴があったら入りたいだな。


「というか!もしほんとに付き合ってんなら普通一緒に食事したりするものじゃないんですか!?」

「あ?誰がんなこと決めたんだよ?
メシくらいひとりで食わせろ」

「うわあこの人配慮に欠ける……」

「テメェさっきから黙って聞いてりゃ色々勝手に言いやがって!ゼッテー切り刻む!」

「そんなに心も狭くて気も短かったら折角出来た彼女にもすぐ見切られますよどうせ!」


ガシャーン!!

遂にすごい音を立てて大きな喧嘩に発展した途端に、厨房の奥からジェリーさんが顔を出すや鬼気迫る迫力で「アンタ達!いい加減にしなさい!!!」と大きな雷がピシャリ。

そして驚き固まってしまった二人の元にズンズンと重い歩みでジェリーさんがやって来るや、何時もとは想像もつかない程になんとも末恐ろしい顔をしたまま、目の前に並んだ愚か者達の頭に一発ずつ火花が散るほどの粛清の拳骨をお見舞いした。



さっきまでの威勢も失い、ただただ厨房へとズルズル引き摺られてゆく二人の死骸を見送りながら、この教団で一番怒らせてはいけない覇権を持つ実力者はジェリーさんだ……と一連の流れを固唾を飲んで見守っていた野次馬達は皆一様にぞっと身震いしていた。
ただ、なまえだけはこれ以上の恥の上塗りを止めてくれたそのジェリーさんの優しさにそっと心の奥で手を合わせていたが。

prev  top  next