取り残された独り少女

本当は今すぐ大の字で眠ってしまいたいほど身体は鉛のように重たかったが、やっと大量の洗濯を終えて色んな汚れを落とす為軽くシャワーを浴びた。
命の洗濯とはよく言ったものだ、久しぶりのお湯に思わず涙が零れそうなくらい胸がいっぱいになった。


怪奇現象の出る沼地の探索。
それはもう最悪だった。へどろが纏わり着く重さと鼻を突く匂いもそうだが、なによりもあんなにもあんなにもたくさん鍛錬したのに、ダズとの任務と聞いてこうなるって分かっていたのに、全く歯が立たなかった。今でも悔しさと悲しさで吐き気がする。

途方の無い広さで船も漕げないような泥濘の沼地、人力で手分けしてひたすら手探りであるかも分からないイノセンスを捜索した。濁って底も見えない泥は重く体力の消耗も激しくて、私はほとほと疲れ果てていたというのに先輩方は慣れっこなのか夕刻も顔色が良くて腰が抜けそうな程驚いた。これがデフォルトなのかファインダー。
すっかり日が落ちると真っ暗になり作業もままならず、終わりも見えないが人里離れたこの沼地では致し方なくテントを張って野宿をする他無かった。


日中はひたすら泥濘を徘徊し続けて、気絶するように眠ることを繰り返した四日目。

とうとう完全に探索終了し、ハズレだと断定したものの夜遅くなってしまい日を跨いで帰団も危険な為宿泊することが決まり、テントで眠っている時に事が起きた。
汚いし臭いし寝ずらい中何度も寝帰りをうっていたとき、ダズ達はへらへら笑いながら土足で上がり込んで来た。
どこにそんな体力があるのだろうか。彼らは酒盛りをしていたらしくどうやって持ち込んでいたのか定かでは無いが呼気から既にアルコール臭のする酩酊した彼らの忍び寄る手から、ひたすら必死に抵抗した。だが酔っているとはいえ複数の男性の力には敵わない。
へらへらしながらコイツ必死だななんて嘲られるも神田さんに教えて頂いた護身術を思い返しながら最後まで闘い抜いたから、恐らくこいつらが想定していた悪事という最悪の事態にはならなかったのだと思う。
だが諦めきらないダズが最後の土産に顔を寄せられたときのあの、口臭や感触が気持ち悪くて。最悪だった。もう忘れたい。


やっとの思いでホームに戻れたとき、誰にも会わないようにまず一番に湖に行くと、歯を食いしばったまま唇が擦り切れて痛み血が出る程、私は願いを込めて何度も何度も記憶と共に流そうと必死で洗った。
ダズとその取り巻き達は門の前で笑いながらどさどさと臭くて汚い服を私の腕の上に積んで去っていってしまったし、引き受けた以上やるしか無いのでとにかく思考を停止してひたすら手を動かして洗う。

反芻する度に惨めで悔しくて、今にも勝手に涙が零れそうになるのを堪えていた。なのに。
急に神田さんが現れてわざわざ声を掛けてくれたものだから、彼の姿を眼窩に映した途端もう少しで本当に泣いてしまいそうになった。
ごめんなさい、あんなにたくさん教えて頂いたというのに私勝てませんでした、なんて。



ぼんやりした頭で食事を摂ろうとふらふらと食堂へ向かえば、足を踏み入れた途端に何故かザッとみんな振り返り一斉に視線を集中して浴びた。何もしてないというのに注目されているその異様な光景に、怯んでしまいたじろぐ。
えっなにか変な物でも着いている?なんてぺたぺたと手で顔を隠すも、その中からひとりの中堅ファインダーがこちらへ向かってきた。
顔色が悪いとか心配されて不要な事を聞かれたくないがために咄嗟に作り笑いを浮かべる。しかし彼はこちらの表情なんて気にもしてないのかすごい剣幕で話しはじめた。


「おいなまえ、お前のせいで昼は大変だったんだぞ!」

「えっ何がです?」

「お前の男が暴れてオレたちみんな必死で担いで室長んとこまで運んだんだからな!」

「えっ……?なんのこと、でしょう……?」


くそ、まさかダズが武勇伝として私の事を自分の女だとかなんとも気持ち悪い事言いふらしやがったのだろうか、と頭をよぎり再び苛立ちで割れそうな程奥歯を噛み締めた。こうなったらアイツどんな卑怯な手を使ってでも後ろから刺してやろうかとドスの準備を脳内でしていたが、しかしそれなら今頃気持ちよくベラベラ喋り倒してるだろうに、暴れるとは一体どうしたのだろう?
イマイチ状況が掴めず疑問符を浮かべて首を傾げるも彼は愉快そうに笑いそのまま続ける。


「まさかお前が神田ととはな!どーやって落としたんだよワハハ」

「え!!なん、ちが、えっ!?」

「またまた!お前の事ぺちゃくちゃ喋るダズのことボコボコにしてやがったぜアイツ!
まさに可愛い彼女を取られた仕返しだったなありゃ」

「…………」


困った。どうしよう。

勝手な噂話とはいえ、思わぬ人物の名前を聞いて反射的に顔がかっかと熱くなる。……いや違う、いまはそんな場合じゃないと冷静になり改めて考えるも、どういう経緯なのかさっぱり分からないがダズと私のせいで神田さんにとんでもない迷惑がかかってしまったらしい。

私はその豪快に笑うファインダーのことも放置して、踵を返し室長室へ全速力で走って向かっていった。まだ思った様に体にあまり力が入らず疲れているのか何度も縺れて転びそうにながらなんとかその厳かな扉の前に辿り着くも、いざ目の前にした途端身体が緊張してしまい、手が震えて怖気付いてしまう。
どうしよう。とにかく走ってきたものの、何からどう話せば良いのだろう……いや悩んでる場合じゃない、きちんと話さなければ齟齬が発生しているかもしれない。

なまえは腹を括り扉を叩こうとすれば、不意に後ろから優しい声で「ああなまえ!丁度良かった!」と掛けられて驚き振り返ると、当のコムイさんが笑顔で立っていた。
彼の方からなんと探していてくれていたらしい。断じて仕事から逃げていたわけじゃないよ!とやたらと何度も念押しされたがそこは敢えて何も返事しないでおく。


「よく来たねなまえ、実は君に聞きたいことがあってね」

「あの、あれですよね。
さっき話を聞いたんです、神田さんが暴れたって……それ私が悪いんだと、思います、たぶん」


何から話していいのか分からないのですが、と枕詞を呟いた後になまえはぽつぽつとゆっくり話し、その間コムイさんはひたすら静かに聞いてくれた。

その場に居合わせた証人ジョニーの話と擦り合わせてゆくと、どうやら状況下として神田さんは私と湖で会った後食堂で偶然同時刻に食事を摂っていたダズの胸糞悪い話が聞こえてしまい揉めてしまったらしい。
本来なら私が呪いを込めて意趣返ししなきゃいけなかったのに、すっかり神田さんに仇討ちさせてしまった事にただただ心が傷んだ。
落ち込むなまえに対して慈愛を含む笑顔で話を続ける。


「リナリーからも聞いてたんだよ、だから気にかけてたんだけどまさか勝手に指導役を買って出てたとはね」

「かっ勝手に……!?私タイムスケジュールまで渡されてて、」

「……そうか、こりゃ思ったより根深いなあ。
よしダズは僕の新作コムリンの餌食……じゃない、試作になってもらおう!!」



ワハハハ!と悪魔のように高らかと笑いながら、処罰という目的とうっかり手に入った実験動物という手段を見誤る成人を見つめながらモルモットと化したダズを想像してしまい少し笑ってしまった。些か人工的ではあるが天誅だ。
するとふっと卒然慈愛を孕んだ笑みを浮かべて優しい瞳をこちらに向けると「ごめんね」と深々と頭を下げられてしまい、こんな下々の者だというのになぜ!?と恐れ戦いてたじろいでしまった。彼はわたわたと慌てるなまえを気にもせず続ける。


「どっどうしましたか!?」

「改めて、ごめんねなまえ。
謝って済むことじゃないけど、君が無事にホームに帰ってきてくれて本当に良かった。
これからは心配無く任務に行けるようにこっちがしっかり見張って手配するからね」

「ありがとうございます……」


そうか、心配してくれてたのを無碍にしてたのは私の方だったのか。リナリーもあんなに何度も声を掛けてくれてたというのに、自分でなんとかしなきゃと倉皇するばかりで一人躍起になっていた。
あとで謝らないと。
それと、一番迷惑掛かってしまった彼にもだ。


「あの、神田さんは今どこに?」

「神田くんはね、いま反省文200枚書いてもらってるよ〜」

「にひゃっ!?」


学生時代でも聞いたことのない量の用紙に頭を抱えてしまう。もはや文豪の原稿さながらの数字にひとつの大作が完成してしまうのでは?そしてそれはもはや処罰というより膨大な資源の無駄では?と次々疑問が浮かんでは消えた。
そんな目眩がする程の書類の量だ、ここからそう遠くへは離れては行けないはずだと部屋を出て彼がよく坐禅を組んでいる鍛錬室へ向かうと、やはり予想通り面倒そうに鉛筆を回す彼の後ろ姿がすぐに見つかった。
器用に回る鉛筆は彼の掌の上で踊るも彼の目線は上の空で珍しくぼんやりとしている。苛立ちも越えて無我の境地なのだろう。
そりゃこれだけあればネタも切れるだろうし目の前に天高く積み上がる紙束は裁断したてのブロックさながらにぴしっと綺麗に角が揃っている。
まだ書いてない方が多いのだろう、折り目も無くかなり真新しい山に比べて、少し寄れた紙はほんの数枚しか乗っかっていない。

ストレスによりピリピリとした背中に声を掛けるのは些か気が引けたが諸悪の根源は私であることだけは明白だ。
肺いっぱい一気に息を吸い込むと、腹を決めて声を掛ければ、はっとしてこちらの姿を見据えるとすぐムスッとした表情に戻り手元に目線を落とした。


「あの、神田さん……」

「!……んだよお前か。何しに来た」


落とされた視線の先につられてその用紙に目をやれば淡々とした文面で癖の無い文字が同じようなことをひたすら羅列している。そりゃそうだネタも切れるに決まってる。
静かな空間にまるで断罪されているかのような沈黙が気まずくて、口の中がからからに渇きゆく。


「あの、私の所為でこんな事になってしまったんですよね……?すみません。その……」

「思い上がんな。お前の為なんかじゃない」


此方が言い終える前にぴしゃりと顔を見ることすら無く静かに告げる。
吐き捨てるような台詞は突き放すように冷たい声音で、これ以上有無を言わさない迫力もあった。
美しい横顔を見つめたまま私はすっかり萎縮してしまい居心地悪く身動ぎする他無く、彼の鉛筆の音にすら掻き消されそうな声で謝るしか出来なかった。
しかしではまた、なんてこのまま帰れるくらい図太い神経も持ち合わせておらず「……手伝いましょうか?」とおずおずお伺い立てると、切れ長の瞳がなまえをちらと一瞥したものの返事も返って来なかった。

しんと鼓膜が劈くような長い沈黙があまりにも気まず過ぎて逃げ出したい衝突に駆られるも、私は一番深刻な問題を彼に報告していなかったが為に動けなかった。
いやでも言ったら血を見るかもしれない。
怖いがもし誰かの噂で間接的に訊いた方が絶対拗れる気がするが、再び逃げ出したいなんて愚かにも全力で本能が騒ぐ。
黙っていても事態が好転することがあるはずも無い。意を決して背筋を伸ばすと黙って鉛筆を動かす彼へ言葉を紡いだ。


「…………あのですね、まだ言ってないことがありまして」

「んだよまだあんのか、さっさと言えよ」

「!」


ギッと鋭い眼光でうざったそうに睨まれて息が止まる。やっぱ怖い言えない!

……とはいえ、流石にこの長すぎる沈黙により口の中が乾ききった代わりにその水分が手のひらに一斉に集合する程しっかり握り込んだ拳をいよいよ弛めて一呼吸置く。
煩雑そうに進みの悪い鉛筆が歩く原稿用紙がようやっと三枚目に突入した頃、何時までも埒が明かない無言の圧力を破る覚悟が出来た私は情けない程震え上がった声をなんとか絞り出した。


「あの、えっと……実は、ま、周りの方々が、今回の件は神田さんがこっ恋人…………の、意趣返しにやられたのだと勘違いされておりまして」

「は?」


やっと顔を上げることが出来たが肝心の彼のあまりの眼光の鋭さに、ノミの心臓を針で一突きされた私は覚悟も虚しく呆気なくも呼吸が停止した。
突き放す彼の声音は「は」というたった一文字だというのに今の私にはあまりに残酷で迫力があり過ぎた。

怖い。怖すぎる。
もし私が草食動物なら脊髄反射で飛び上がって逃げる程に本能がダイレクトに死を感じている。

しかし動物でも何でもなく無駄に大脳が育った唯の一人間であるが故に本能よりも建前が勝ってしまい、このままこの爆弾を放置して逃げ遂せることすらも出来ずに硬直したままどうやったら許して貰えるかをひたすらぐるぐると懊悩していた。

ああもう、いっそのこと頭でも丸めようか。
いやいやそんな派手なだけのパフォーマンスしようが事態が好転するわけでも無い、彼も自分が心底気の重い宿題をしてる隣で女が突然気が狂ったかのように自髪を撒き散らして汚されたら普通に迷惑被るだろう。それは気持ち悪過ぎる。
じゃあどうしたらいい?ああ神様この場からどうか掬い上げて助けて下さい。

すると無慈悲な神は愚かな人間に救いの手を差し伸べてはくれなかったが、なんとこの目の前に鎮座する今にも火でも噴きそうな阿修羅こそがさも当然のようにしれっと呟いた。


「なんだよもったいぶりやがって。
んなもん勝手に言わせとけ」

「……へ?」


……拍子抜けとはまさにこの事だ。

すっかり肩透かしに合ってしまい思わずあんぐり口を開いた間抜け面のまま彼を呆然と見つめる。

一時は彼の隣で何時でも手が届くように置かれていた如何にも切れ味良さげなあの刀の餌食になる事すらも覚悟していたのだが、なんともあっけない返答にひたすら驚いてしまい、今度はへなへなと腰が抜けて思わずその場に座り込んでしまった。
それを見て神田さんはほんの一瞬だけぎょっと顔を顰め狼狽したがすぐに何時もの仏頂面に戻り、淡々と言葉を紡ぐ。


「噂なんかどうでもいい」

「そ、そうなんですか……?」

「それで抑止力になるんなら、これ以上胸糞悪い話も聞かなくて済むしお前も好都合だろ」


ふにゃりと情けなくへたり込んだ私の姿にもう慣れたのか既に視線を外し、あっけらかんと言葉を紡ぎながら再び原稿に取り掛かる彼は本当に心底どうでも良さげだった。

どうやら想像していたよりも遥かに他人の目線は全く気にしない主義なのだろう。お陰様で首の皮一枚繋がった。

こんなに切腹でもする勢いで悩み抜いた事が杞憂だったなんてやっと頭が追いついてきて理解はしたけれども中々体には力が入らず、私はとりあえず三角座りに態勢を変えた。
しかし幾ら何でもその僥倖に厚かましく乗っかり続けるわけにもなるまい。
なまえはおずおずと頼りなく小さな手を弄り持て余しながらそっとお伺いを立てる。


「でもご迷惑じゃないですか……?」

「さっきからごちゃごちゃうるせえんだよ。
むしろ今のが迷惑だ、さっさとどっか行け」

「はい!すみません!」


とにかくいまの贖罪は陳謝することではなく一刻も早く立ち去ることだと一喝され、ほぼというか間違い無く追い出されるような形で私は転がるようにその場を離れた。
姿形は違えども(いや阿修羅の方かも)これか最後の仏の顔かも知れない。
無理やり愚鈍な自らの足へ鞭打ってなんとか必死に走りながら、さっきまで同席していた神田の居た方角に両手を合わせて適当に十字を切ってとにかくこの命が今日も存在することだけを感謝することにした。
あとはもうしらない。明日のことは明日考えればいい。

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