在る不幸な青年の記録

ただ飯を食いに行っただけなのに。
ジョニーは地獄の残業続きで何徹目かももはや数えられなくなり、今なお眠気がおぞましい程の大きさで背中にのしかかっている。

いまあさ?それともひるなのかな?

時間感覚も無くなる中、ジジが書類の山の隙間から死にそうな声で「だれか飯食うひとー?」とよれよれの手を伸ばし、タップと俺が同じく助けを求めるかのようにふらふらと挙手した。

栄養も摂っていないからか頭も回らないが故、今すぐ寝そべりたいと云う重い身体に鞭を打ち引き摺り、三人さながら残業の呪詛を吐くゾンビの行者で食堂へゆく。
しかしやっと顔を出した先には、疲れ過ぎて間違えて鍛錬場にでも来たのかと思った程の暴れっぷりが奥で繰り広げられていた。慌てて眼鏡を掛け直すもやはり状況は変わらず。

えっ!
驚き唖然とその喧騒を見やると神田が鬼の形相で誰かを殴っているではないか。
てっきりアレンとまた小さな事で喧嘩でもしてるのかと思いきや声も聞こえないしアレンなら仕返しの1発でもすぐやるはずなのにいつまで経ってもあの赤い腕も見えてこない。

相手は誰だろうと眠気なんて吹っ飛んでゆき、三人で一目散に直ぐ人混みを掻き分けてその喧嘩に飛び込む。
ようやく視界がはっきり見えた頃、相手はアレンでもなくファインダーのダズで、彼は気を失っているのか鼻血を出したまま既にぐったりしていた。そこには他に四人程倒れており、皆気絶して血を流している。どうも神田が手加減を忘れてかなり一方的にやっているようにみえる。

神田は無愛想で怒りっぽいけど、意味無くキレるような奴じゃないし怒っても手を出したりしない。それに自分の強さも分かってるから組手でも必ず加減をしていたはずだ。

だから今の神田は正気じゃないかのようだった。
静かに一言も発さずひたすら淡々と顔面に拳を入れている。
一頻り殴り気が済んだのかゆらァと立ち上がると、近くの席で震え上がっていた残りの一人の方を睨み付けてずんずんと歩み寄ってゆく。
恐れを成して動けなかったのか、足が竦んでいる彼の胸ぐらをゆっくりと掴み高く持ち挙げると振りかぶり一気に地面へ叩き付けた。その反動で何度か跳ね上がる身体の上に馬乗りになり、また黙ったまま思いっきり顔面を殴り付けた。肉骨の殴る鈍い音が響き続けその都度血が飛ぶ光景を暫く唖然と見つめていたが、これじゃいけないと声を掛けながら後ろから羽交い締めにするも、普段から鍛錬量も違うし背丈も負けてるしでものすごい力に全く敵わない。
振り回される俺の姿をみて慌ててジジとタップも片腕ずつ抑えて、我を忘れて聞こえていないんであろう神田の耳元で名前を叫んだ。


「神田!やめろ!!」

「!」


はたと我に返ったのか、青筋を立てた臨戦態勢で立ち向かう力を急にぴたりと止めて振り返った。
その瞳は怒りの色に染まり、ギッと鋭い眼光で血走っていた。今まで何度もキレた神田は見た事があるが、こんなにもこっちまでゾッとするような恐ろしい程の迫力で怒る姿は初めてだった。
本能的な恐怖か自ずと手が緩む。
神田は「……離せ」と強引に腕を振り払い、再び伸びているダズ達の元へゆっくりと行こうとするのを今度は周りのじゃじゃ馬達もこぞって一斉に団子のようになりながら引き止めた。喚きながらキレて暴れ倒す神田を止めるのは大量の怪我人が出る程大変だったし、俺もうっかり飯を食い損ねているのを忘れたまま縺れるように皆で室長室の元へ運び込んだ。






そして今である。


「神田くん、どうしてこんな事したの?」

「……関係ねえだろ」


しっちゃかめっちゃかお祭り騒ぎで無理矢理神田を輸送して、その最中でうっかりタイミングを逃して帰り損ねてしまい半ば証人として、ジョニーは神田の隣のソファに座らされていた。
コムイ室長は向かいに座り、両手を組んでそこへ顎を乗せたまま何度目か分からない溜息を吐く。
全く口を割る気配の無い彼との押し問答は暖簾に腕押しで、さっきから同じ質問を堂々巡りしていた。


「向こうは突然殴り掛かられたって言ってるよ、ファインダー達も医療班に運び込まれて治療されてる」

「殺さなかっただけましだろ」

「なんで手を出したんだ?ちゃんと本当のことを言ってくれ神田」

「だからお前に関係ないっつってんだよ」

「このままなら君に処罰を下さなきゃいけなくなるよ。それでもいいのか?」

「…………好きにしろ」


神田はイライラと目も合わせずに捨て台詞を吐き、室長の返事も待たずに立ち上がるやさっさと退室してしまった。
勢い良く閉めたのだろう、バターンッ!!と扉が大きな音をたてたのちに沈黙が落ちると、コムイさんはハァーとお腹の底から溜息をついた。「あの子はホントに……」とやり切れなさそうに頭を掻く。
たまたま居合わせただけだというのにすっかり置いていかれたし気まずい。ジョニーはついにその静けさに我慢ならず、あの!!と大きな声を出して立ち上がると深く頭を下げた。


「たっ確かに殴ったことは悪い事だけど……神田は理由なくあんな事絶対しないと思います!減罰してやってください!!」

「駄目だ。ファインダーのみんなもあの大怪我で数ヶ月は任務も出られないだろうしそれは重大な過失だ。ただ……」

「ただ……?」

「食堂に同席した子たちからの証言はいくつかあがってるんだよね。ずいぶん大きな声で話してたみたいだし」

「そ、そうなんですか……?」


俺達が来る前に何か神田が我を失う深刻な理由があったのだろう。コムイさんはどばどばと砂糖をいれたコーヒーを啜る。真剣な表情で眉間に皺を寄せたまま肩の力が抜けたのか、ドカッとソファの背もたれにその長身を預けた。
ただきっかけが終わってから巻き込まれただけなのでなんにも知らない証人で申し訳ないが、俺はとりあえず目の前に置かれたコーヒーでやるせなさと共に飲み込んだ。


「許せなかったんだろうね、やり方が悪いけど。
あとこの事が本当なら訊かなきゃいけない子がいる」

「誰ですか?」

「……本当に何も知らなかったんだねジョニー!ごめんね、もう戻って良いよ」

「…………ウッス」


アハハごめんね!と何時ものとんでも発明品を造る時の無邪気な笑顔のコムイさんに戻り、あっけらかんと言われて何も返す言葉もなく腑に落ちないまま俺は退席した。すっかりひとり食い損ねた飯を食らうために、再び食堂へ戻ることにする。




あれから結局神田は反省文を200枚程提出することになったらしい。とんでもない量の紙束を抱えてキレ散らかす神田が廊下を歩いているのを目撃した。

だが怪我したファインダー達のほうが何故か処分が重く、回復次第任務の上に非番の日は皿洗いや掃除といった総合班の手伝いが3ヶ月に加えて誰かとの共同任務禁止命令が下ったらしい。恐らくコムイさんが言った『訊かなきゃいけない子』なのだろうが、一体誰なんだろう。

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