07


ボンッ!

オーブンから爆音と異臭がもくもく煙を上げて溢れる。それももう何度目か分からない。



「ぎゃーなんで!?」



もくもくと上がる黒煙にあたふたとしていた名無しは泣きそうな顔でそのチョコパイとも言い難い残骸を見つめてしゅんと小さくしぼんだ。

きのう神田に頼まれてすぐ、名無しはレシピ片手にせっせととりあえずチョコパイというものを作ってみることにしたのだが何度やっても失敗に終わってしまい、名無しの周りにはどんどんと材料の集合体という名の屍、いや失敗作品が地獄絵図のようにのたまっている。



「レシピ通りだよね?……ちゃんと合ってるし」

「大丈夫ですよ、もう一度頑張りましょう。名無し自分でやるんでしょう?」

「うん……。ごっごめんねアレンくん」

「アレンで良いですってば」



アレンは優しく名無しの頭を撫でて微笑んだ。手袋越しにうるうるいまにも涙が零れてしまいそうな名無しの綺麗な瞳の眦を拭ってやれば、彼女は「ありがとう」とやや震えた声で呟く。その小さく細い身体は何時もより少しやつれているよう。

昨日からずっと名無しは一睡もせずに厨房のオーブンを貸し切っていた。しかし、とても料理を作っているとは思えないような異臭を放っているわ次々と爆発音は上がるわで失敗の連続記録ばかりを樹立してゆくものだから、見かねた料理人たちがお店顔負けなくらい見ているだけでほっぺが落ちそうな甘美なお菓子をつくり、香り良い茶葉を用意してお茶会の準備を全てやってのけたのだ。

「自分が鈍臭いばかりに……ごめんなさい」と目尻を下げた名無しは誰が見てももうやってあげたいくらい鈍くさいというのに、私が頼まれたからといって妙な正義感でその黒い塊を延々と製造し続けている。しかし何時まで経っても完成しないのでさっきまで見守っていた使用人たちももう各々ばらばらに自分の仕事へ戻ってしまった。
もう止めたら良いのに、と隣で見守るアレンは心の中で何度思ったことか。



「あーんなんでですかぁ!」

「もう一人遊びも良いでしょう?思い付く限りの失敗は制覇しましたよ」

「ひどい!好きで失敗してるわけじゃないですよぅ!」

「ふふ、冗談ですよ。頑張りましょっか」



泣きべそかいて赤くなった頬に付いたチョコをアレンの指先が掠め、ぺろりと舐めとった。ふわりと紳士的に笑う姿がなんだか眩しくて名無しは咄嗟にばっと目を逸らした。
なんだろ、なんかアレンくんってやっぱり綺麗に笑う。
しかしアレンはオーブンの方を見やった途端だんだん怪訝そうに曇らせてゆく。



「ねえ名無し、オーブンからまた妙な煙が……」

「っえ、嘘?」





ボカンッ!

再び凄い爆発音と共に今度は勢いでオーブンの扉までもが開いた。
そこからもわっと焦げたチョコの、喉を焼くような甘さ苦味の混じった匂いが厨房に広がる。けほけほ、小さな咳を繰り返してオーブンの目の前で居たため被爆し炭で汚れた名無しの顔は今度は涙で濁ることは無く、困ったように眉根の下げた愛らしい笑顔で。
アレンは「何度目ですか、もう」なんて茶化すように罵倒しながらも指で名無しの鼻先に付いた炭を優しく払った。

すると突然、



「……オイ、なにしてんだよ」

「おっ王さま!」



振り返れば厨房の壁に寄りかかる神田の姿。神田は相当腹がたっているのか漆黒の髪から覗く額には幾つか青筋が浮かび上がっていた。

名無しは途端になにか引っ掛かるような気持ちになり、脳裏を手探りで辿る。
あれ?私なにか忘れて……?



「どうしたんですか?」

「っああ!」



私、朝の仕事エスケープして…しまった……っ!

みるみる血の気が引いていってるのが自分でも分かるくらい足下から一気に体温が奪われてゆく。



「やっと気付いたか馬鹿雑巾。モヤシ、こいつ借りるぞ」

「は!?…ってちょっと!」



すっかり石化した名無しを悠々と担いだ神田は引き留めるアレンもさっくり無視して颯爽と厨房を飛び出した。神田の温かく固い肩が名無しのお腹辺りにごつごつと当たる。

背の小さな名無しからすれば神田の身長は今まで見たことないくらい高い。名無しは見慣れない高さから廊下を見下ろして鼻先で揺れるやわらかい黒髪を見つめながらぐるぐると悩んでいた。(こっこれは何処へゆくんでしょう……?)
徐々に不安に煽られ体温を下げてゆく名無しに、突然神田から無機質な声が突き立てられた。



「さっき何してた?」

「すみません!わっ私お茶会の準備ばっか考えてて、その、」

「違う」



そこじゃないだろ。

神田の言葉は酷く冷たくて突き放すような声音で。

……ああそうだ、まるで初めて逢ったときの距離みたい。
王さまははじめからずっと私には届くはずのないような遠い人で、こんな使用人の端くれの鈍臭い私なんかを切らないだけでも有り難いのに仲良くなれるんじゃなんて自惚れちゃダメだよね。

名無しの瞳にじんわりと涙が溜まってゆく。



「……絶対泣くなよ。命令だ」

「!」



……びっくりした。

ぐずぐずとしゃくり上げたり声を出してもいないし、ましてや神田の角度からじゃ名無しの表情なんて見えるはず無いのに。
まるで面倒なことだから先回りして叱責するような神田の言葉に、名無しは何も言えなくてぐっと下唇を噛んで今にも零れそうな涙を堪える。



「わかって、ま、す」

「んな声出しても無駄」

「ち、が……っ」



やっと下ろされたのは名無しが大切に育てた花が咲き乱れる中庭。
まるで落とされるようにぞんざいに手を放され、ふらりとよろめきバランスを崩すも直ぐに神田の腕が名無しを攫って一気に強く壁へ押し付けられた。
どんっ、一瞬息が止まるくらいの力で背中を打ち付けられて慣れない強さに名無しはびっくりするも、キッと神田の覇気を放つ切れ長の瞳に捕らえられごくんと言葉を飲み込む。



「……誰にでも尻尾振りやがって」

「な、何がですか?」

「煩い。黙れ」



それ以上言葉を紡がせないと言わんばかりに、神田の唇に塞がれた。少し固い、それはオトコノコの唇で。

神田は名無しが動けないのを良いことに身勝手に主導権を握り、ちゅっちゅ、わざとリップノイズをたて何度も角度を変え繰り返す。こんなところでやらしいことしてるという背徳感も理性も激しく吸い付くような接吻に全て奪われてゆく。

絶え間ないキスに、呼吸の仕方がわからない名無しは酸素が足りなくなって些か口を開いた途端、待っていたかのように隙間から神田の紅蓮の舌が侵入した。名無しはあからさまに戸惑ってびくっと大きく肩を跳ねさすも、神田は無視してつつ、とやらしく歯裏をなぞりちろちろと悪戯に舌先で弄ぶ。

思わず腰が砕けてズルッと膝から崩れ落ちるも「なに休憩してんだよ」と神田に腕を抱えられ引き起こされてしまい、再び乱暴に唇を奪われた。



「あ、ふっ、んん、」

「顔に似合わず男好きなんだな、お前」

「やだっ、違……いま、す」

「なにがだよ」



至近距離で睨むような神田の視線に堪えきれなくて咄嗟に顔を逸らせば、今度はかぷりと耳を噛まれ名無しの口から甘美な声が漏れる。すると神田がにやりと狡猾に笑い名無しの弱い耳をいじめるようにわざと吐息混じりに囁いた。



「…ほら、喜んでるじゃねえか」

「っ、」

「モヤシとふたりでさぞ楽しかっただろうな」

「そんな……っ、あの時はたまたまふたりだっただけで、」

「さあ?どうだか」



神田ははっと冷たく鼻で笑う仕草だけをして名無しから離れた。咄嗟に神田のその纏う王族衣装を掴んで縋るもぱしっと拒絶され振り払われる。

どうしよう、このままじゃ王さまが行ってしまう。

怖くって身体が震えるし本当はすぐにでも逃げてしまいたい。
だけど、それじゃあなんにもならないから。なんとかして誤解を解かなくちゃだめだから。
胸の前でぎゅっと自分の手を握って、億劫に萎んだ声帯を絞り出す。



「王さま!」

「あ?」

「わっ、私は…神田さまが、大切です。とても」

「…………」

「だから、そんなに拒絶ばかりされると……悲しいです」

「…………」



神田は驚いたように一瞬切れ長の瞳を大きく見開いて丸くした。が、しゅんと小さくなって不安で不安で堪らないかのように今にも涙を零しそうな名無しに気付いた途端直ぐににやりと何時もの狡猾な笑顔を浮かべた。
(あ……厭なことを考えているときの悪い顔だ)



「なら俺から絶対離れんなよ。もし次またあったら……殺す」

「っはい!」


この人の場合本気で冗談では済まない発言に、名無しは半ば必死で何度もこくこく首を頷く。


……王さま、やっぱり怖いです


この瞬間、「仕事を忘れたら処刑」という方程式が名無しの中で勝手に導かれた。