04


しばらく神田からの悪戯や「ボロ雑巾」などと散々な罵詈雑言にほとほと虐められ、心身共に死にそうになりながらも名無しは身嗜みやお茶汲みなど側近として最低限の仕事を果たした。そして解放されたのは王が漸く面倒そうに舌打ちして演説会へ向かった頃。名無しの口からは大きな安堵の溜め息が零れる。
側近、(いや寧ろ下僕と言ったほうが正しいのかな?)とはいえ殆どそのような仕事は皆無で、演説会やスピーチの文を作成したりするのではなくどうやら本当にただ王の苛立ちの捌け口なだけらしい。


名無しは遠くから響く「ユウさまー!」という最早叫び声に近い女性の黄色い声と、大きな国民の息の合った言葉を聞きながら様々な色に染まる庭園の花の世話をしていた。
当の神田の演説は熱狂している国民の声で掻き消され何一つ聞こえやしないが多分面倒そうに適当な言葉でこの国の未来でも語っているのだろう。

普段から口数の少ない神田は演説を嫌う為滅多にこんなことはしない。だから珍しく神田が大衆の前に立つと聞いた国中の女が黙っているわけがない上に、男性陣も神田が王の座に着いた途端大きく勢力を上げたという実力を買っており、この国の団結力は凄まじいものであった。当の本人は全く気にもしていないが国民からの支持は右肩上がりの一途を辿っている。

もう!みんな早く気付いてよ、この国の王は従者に「ボロ雑巾」だなんて罵詈雑言を吐く王なんですよ!その美形な仮面に騙されちゃいけませんよっ!


なんだかキリキリとしていると思わず力が入ってしまい、大きく膨らんだ薔薇の蕾の棘がちくり、名無しの白魚のような指先を傷付けた。
すぐに傷口から真紅の玉がぷっくりと浮かび上がってゆく。



「い、痛っ」



此処ではこんな怪我をしたって誰にも心配や注意をされたりしない。
美しく咲き乱れた多種多様な花に包まれるこの広い庭園の世話は、全て名無しが行っていた。何をやらせても鈍臭い彼女は唯一植物の世話だけが群を抜いて上手く、この宮殿の植物の世話は偶に大きな木を斬ってもらう為に呼ぶ庭師くらいで、あとの面倒は全て彼女ひとりで見ていた。

でもやっとこそ任せてもらった仕事でも失敗ばかりなんて……。

名無しは溜め息をひとつ零して指先をゆっくり口元へ運びやる。
すると突然素早く名無しの手が横から掠め取られて、持ち上げられるとやわらかい唇が玉のような血が舐めとった。ちろりとわざと堪能するように温かい舌が敏感な指先をゆっくりなぞらえ、びくっ!と背中を震わせて過剰に反応してしまう。驚きのあまり咄嗟に見上げれば、



「なっ……ん、あ、」

「お前鈍臭過ぎだろ。怪我なんかしやがって」



べえっと舌を出してあっけらかんと挑発するは先程まで国務を真っ当していたはずの神田で。
「菌が侵入すれば化膿する、早く消毒しておけ」と言い放ち背中を強く押された。ふらり、細い名無しの身体がバランスを崩すも神田の腕が腰に回ってそのままずんずんと歩き出した。どうやら医務室へ連れて行ってくれるらしい。……が、


(あれっ?なっ、なんで!今さっきまで演説してたのに!?)


脳裏でたくさんの疑問がぷかぷか浮かぶもどうやら全部顔に出てしまっていたらしく、神田は「間抜け面」と鼻で笑い平然と続けた。



「面倒だから抜けてきた」

「えええ!だっダメですよぅ!民も王見たさに遙々来た方も少なくないですし怒られますよ?」

「どうでも良い。アイツらロクに話も聞いちゃいねえし、馴れ馴れしく名前呼びやがって。全員切り刻んでやろうか」

「…………」



うわー絶対話聞かない云々じゃなくて名前呼びばっかされたから帰ってきたんだ……!

私たち臣下にも名前呼びを禁ずる程の徹底ぶりで、神田にそれは絶対的な禁句。

しかしこういうときってどうして人は累乗して腹が立つんだろう。般若でも見えそうなおぞましいぴりぴりしたオーラが王から滲み出る。どうやらさっきのことを思い出した神田はまた機嫌が悪くなったらしい。



「チッ、胸糞悪い。おいボロ雑巾後でちょっと来い」

「ひぃ!いや、その」

「んだよ?」

「あ、あの、怪我も小さいんでわざわざお供して頂かなくても、」

「あ?お前に指図される筋合いなんかねえだろうが」

「でもそんなぁ……」

「それにお前逃げるつもりだろ。さっきも沃さ下がりやがって」

「うっ!」



やはりこっそり庭園に向かったことに腹を立てているらしい。居心地の悪さが容赦なく名無しを襲った途端やっと着いた医務室に逃げ込むようにさっさと入室した。

日頃厳しい鍛錬で怪我する臣下らの治療の為に設けられたこの部屋には専属の医者もおり、無意味なくらい広く綺麗。
名無しは戸棚からガーゼや消毒液を取り出すと、さっさと手短に消毒を済まして絆創膏を貼り付けた。神田は奇異なものを見るように難しい顔をして少し離れたベッドで脚を組んでこっちを眺めている。



「オイ終わったか?」

「へ?えっ、ああはい」

「じゃあ行くぞ」

「ぐえっ!」



神田はいきなり立ち上がったかと思いきやがっしと名無しの首根っこを掴みずるずると歩んで、止める医者も振り払い医務室を後にした。メイド服の固く白い襟元を持ち上げられたまま長い廊下をひたすら連行される。
必然的にぎりぎりと締まる襟が呼吸をせき止めているものだから何度も手足をばたばたさせて神田に助けを求めるも全く気付かれていないのかはたまた敢えて無視なのか無情にもそのまま引き摺られてゆく。……あ、だめだこれ私死ぬかもしれない。ごめんねお兄ちゃん…。



「ほら、入れよ」

「げぇ!」



ようやく自由になった途端かしゃんという施錠した閉鎖音が響いた。ずっと首根っこを摘まれ廊下の絨毯を眺め俯いていた状態から顔を上げれば、どうやら此処は王の寝室のよう。
ってあれ、こっこれは……!
だんだんさあーっと一気に色を失い振り返ると神田はしてやったり顔でにやりと口端を吊り上げた。何時もの悪いことをするときの顔だ。



「これで存分に躾れるな」

「えっちょっ、待ってくださいっ!」



恐怖におののく小さな名無しを嘲笑うかのように神田はじりじりとその距離を縮めてゆく。最早罪人のような形相で見下ろす神田は王にあるまじき表情で。やだ、私もう取って食われるのかもしれない……!
名無しもまた一定の距離を保とうと引き下がるも、とすんとベッドにぶつかった刹那足元を掬われ、やわらかいベッドに崩れ落ちる。
神田は「ばーか」と喉を鳴らして笑い、あっさりと名無しを組み敷いた。ギシッと二人分の重みにベッドが悲鳴を上げるように軋む。



「なっなんでですかぁ!」

「コッチは苛立ってんだよ」

「でっでもこんなの誤解されちゃいますよぅ!」

「…今は俺とお前、ふたりしか居ねェけど?」

「!」



「誰にされるんだ?」と飄々と零した神田の言葉にはっきりと状況を示唆され、名無しの頬は一気に赤く染まる。とにかくじたばた暴れる名無しの頬を軽々と掴んで神田はぐいと強制的に制圧した。息を呑むほど綺麗な切れ長の整った瞳に捕らえられ手繰り寄せられる。



「目くらい閉じろよ」

「わわわっ!王さまっ、っあ、ちょっ待って、」

「煩せえな、黙んねえと舌噛むぞ」

「んぅ……っ」



だめ、反抗の言葉を紡ごうと開いた唇にちゅぷと卑猥な音をたて神田の舌が侵入した。逃げる名無しを捕まえて無理矢理絡め、やや強引にキスを繰り返す。何度も啄むように唇を奪われて、意識もとろけてしまいそうな接吻に痺れてくらくらと錯乱する。神田の苛立ちに任せた激しいそれにだんだんと名無しは抵抗出来なくなりくてんと力が抜け出した頃、ようやく神田の気も治まったのか自由にされた。つぅ、と神田の舌から引く糸がやっ、やらしい……



「はぁっ、は、」

「ひょっとして初めてか?下手くそ」

「っ!だってこんなことしたことなくって、」

「まあ良い。じき慣れる」

「えぇっ!?」



なっ慣れるって……!
まだこれから何度もこういうことがあるんですか!

涼しい顔して言ってのけた神田の言葉に名無しは硬直した。
名無しにとって初めての接吻だったのに、襲われて無理矢理の上に愛なんて全く感じないようなこんな八つ当たりのキス。
あまりに呆気なく奪われた自分の初めてに、名無しは衝撃と絶望が相俟ったような喪失感を覚えていた。