03


神田にとってあの花瓶は、まあ確かに高価なものではあったがあんなの何処の誰に貰ったかすら思い出せないようなくらいどうでも良い物であった。それを偶々あの馬鹿メイドが手を滑らせて割り、勝手に負い目を感じた彼女を自分の元に置いて暇つぶしする口実に過ぎなかったのである。

しかしまあそんなことなど全く知る由も無いメイドの名無しはおずおずとビビりながら側近、いや下僕として初の仕事を朝からこなしていた。



「お、おはようございます王さ……わあ!」

「はっ、随分と遅い朝だな」



控え目に寝室の扉を開けば、神田はもう既に起きて着替えている最中だった。
白いシャツから覗く胸板は昨日うっかり触れたときに思った通り逞しくて、滑らかそうな磁器の肌がすごく綺麗 ……な、なんて一瞬ちらと見えてしまっただけなのに無意識にばっちり確認している自分が物凄く嫌で恥ずかしい。は、はれんち!

かああと顔を真っ赤にして目を伏せれば服に腕を通していた神田がそれを見てにたりと意地悪に笑う。



「そんなんじゃ側近なんか務まらねえぞボロ雑巾」

「で、でも朝から刺激強いです……」

「じゃあ早く慣れねェとな?」

「ええっ!」

「…残ってるボタン、閉めろよ」



試すような声音で言うのは王の服についているまだ止まっていないボタン。
つまり側近の仕事。神田が何か良くないことを考えているのは分かるんだけど自分で着けてくださいなんて言えやしない。
無防備に近付くと昨日のようにまた悪戯にからかわれてしまうというのを学習した名無しは何時でも後退出来るように恐る恐る指先を突き出す。…も、既に神田のほうが先にすばやく腕を伸ばしていて、今更引き返す運動神経も無い名無しは神田の見え見えの策略によってぎゅむとあっさり捕まってしまった。しかもそれだけじゃなくってしゅるりと首筋を守るリボンまで解かれるというおまけ付きで。



「バカ、ノロいんだよ」

「かっ返してくださいよ!」



此方の反応をまるで楽しむような笑顔に何も言えなくて、兎に角取り返そうと慌てて両手を必死に伸ばすも神田のほうが遥かに背が高く、背伸びしてもぴょこぴょこ飛び跳ねたって届くはずがない。寧ろ逆効果な気すらするような。

(ま、またからかわれてる……!)

リボンの先くらいなら届くかと思えどもどんなに腕を伸ばしたってじれったく中指の先を撫でるだけで、諦めたらするするとゆっくり伺うように降ろされるの繰り返し。気が付けば意地になっている自分がいて、はっとして神田を見やればそれはそれは楽しそうに馬鹿にするような笑顔で見下げていた。この人なに楽しんでるんですか!



「お前本当馬鹿だな、此処がら空き」

「っひぁ!」



神田が指す先はひらひらと揺れる名無しの襟元。
それまでかっちりと首を隠していた襟は神田がリボンを解いたことによって名無しの白く透き通った首をさらけ出していた。これが目当てかと気付いた頃はもう遅く、大きな左手で両頬を掴まれて強制的に首を傾けさせられると神田が名無しの首筋に顔を埋めた。艶めかしい唇の感触が背中に衝撃を走らせ、直後にちくりとした痛み。思わず大きく顔をしかめるとなんだか少し満足げな神田が低く呟く。



「これ、下僕の証な」

「へっ?」



なにが起こったのかあまり理解出来ない名無しはぽけーっとした表情で神田をみつめると、神田が悪戯に赤く色づけた其処をつんつんとつついた。そして名無しを後頭部を掴むとぐっと寄せて耳元へ「このやらしい痕だよ」と囁く。
ぞくりとするような神田の低い声が吐息が鼓膜を溶かすように掛かった。



「!」

「お前は俺の玩具だから」

「なっ、わ、っ!」

「返事は」

「だってそんなぁ……っ」

「割 れ た 花 瓶」

「はぃい!」

「解ればいいんだ、解れば。……もうすぐ朝食の時間だ、ぼけっとすんな」



だっ誰の所為ですか!

そんなこと当然言えるわけがなく名無しは熟れた林檎のように赤くなった頬をぱたぱたと扇いでなんとか抑えながらこっそり睨むと「早くしろ」と一蹴されてしまった。なんでそんな何事も無かったかのように凛としてんだろう!今さっきまで思いっきりセクハラまがいなことしてたたよねこの人!
完全に弱みを握られている上に圧倒的な立場の違いに絶望を超えて清々しさすら覚える。何時までこんなイジメが続くんだろうか。



「今日は何の予定がある?」

「えっ、えっと、午後より国民へ王の演説会があります」

「チッ、面倒くせぇな」



鬱陶しそうに盛大な舌打ちをして颯爽と歩む神田の後ろにそろそろと着いて部屋を出る。はー、これから仕事へ向かってくれるからこれでようやく解放されるのか。長かった、本当に。
やっと一息安堵して掃除へ戻ろうとした途端に「待て、」と神田が後ろからがっしと名無しの肩を掴み、



「何処行く気だ、お前も来るんだよ」

「えぇ!はっはい…」



いや演説に私は関係無いような気が……

不満をもって見上げるも一瞬キッと凍てつくような瞳で睨まれてしゅるしゅると名無しの反抗心は萎んでゆく。

ああ、どうやらまだ自由にはならないようです。