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すっかり日も暮れて夜更けともなれば宴もたけなわとは言いますが、なんて言わずとも既に無惨な脱落者がちらほらと頭を下げて突っ伏していた。
とっぷりと満タンに深酒したのか愛おしそうに酒瓶を抱えて眠る者、大の字で大いびきをかく者、お互いに肩を寄せあって眠る仲良し達。皆それぞれが赤い顔をしていかにも幸せそうに眠っている。

人数も減りピーク時を越えた厨房はだんだんと手隙になってきて、名無しも手が空いてしまい寝息をたてる兵にそっと毛布を掛けてやっていれば後ろから「もう上がっていいよ」とお姉さんに声を掛けられた。みんなお腹も膨れたみたいだし、とにっこり笑うお姉さん。
いびきの合唱が響くこの幸せそうな光景に、お互い思わずふっと微笑み合うと、頭を軽く下げて名無しは部屋を立ち去った。



誰一人欠けるな。
珍しく王様がこう叫んだんだぜ!?有り得ないよな!とこの話を肴にされて酔った兵士達に何度も何度も口々におんなじ話をされてさんざん聞いたのだが、皆も思うのはまあ尤も私も同感だった。

ただ、あれはどういう意図だったの?なんて聞くまでもなくアレンもラビさまも戻られたというのに、この宴に一番肝心の王さまの姿だけが見えないままなので真相は不明だけど。


そそくさと部屋に戻り、淡々とシャワーを済ませて寝支度をして布団に潜り込む。
棚に置いている時計を見上げればまだ意外にも23時。
あんなにも目まぐるしくばたばたと忙しなくしていたものだからもっと夜も深いのかとすら思ってたけど、どうやらまだ日も跨いで居なかったらしい。

先程までと打って変わってしんと静まり返った閑静な自室へ戻ったというのに、鼓膜の中を走り回るのはまだあの賑やかな喧騒。
みんなの平和な笑顔を思い返してしまいひとりふふっと笑みを零すと、蝋台の火にふっと息を吹きかけておやすみなさいと呟き目を瞑った。






***






ふと、ガタガタと何かがぶつかるような聞き慣れない音に目が覚めた。
音の鳴る方へ目を遣れば、どうやら窓の方から聞こえているようだ。
深い眠気に目を擦りながら上半身を起こして、今晩はなんだか風が強いなあ、と窓を一瞥したのちに再び布団へすっぽりと納まり帰還するも、強風にしては窓以外はなんだか妙に静かだ。

勝手に落ちてくる瞼をなんとかこじ開けながらまともに動かない頭を悶々と回す。
もしも泥棒だとしたら金目の物目当てだろうしきっと屋敷の方へ向かうだろう、だとしたら鳥とか野生動物……?

どうにも眠たくってうとうとと夢うつつで考えてるうちに、デフォルメした可愛らしい青い鳥や睫毛の長い子猫が歌いながらこつんと窓を叩いて部屋に遊びに来るような妄想が勝手にふわふわと繰り広げられている。

あら鳥さん遊びに来たのね。なんて、ただただぼんやりとしたままさっきから不自然に揺れる窓の行末を見守っていれば、ついにカタンと小さな音と共にゆっくり開いたかと思いきや真っ暗がりに突如何かが静かにこの部屋へ転がり込んできた。

ん?なんだろうあれ。動物にしては大きいような。
例えば、大人の人くらいに。

ぼーっとその動く黒い影を見つめていれば、それはすっくと立ち上がる。
小鳥なんか比じゃない質量だしなんなら自分なんかよりも遥かに背が高くて、それはしっかりとした足取りで此方に向かってズカズカと歩み寄る足音を立てた。

違う!これ、ひっ、人だ!

漸く理解が追い付いて生存本能が咄嗟に警告を掻き鳴らしたその途端、睡気なんて吹っ飛んで慌てて肺いっぱいに息を吸い込む。
その侵入者もすぐに私の方へ飛びかかり、叫ぼうと大きく開いた口を慌ただしく温かい大きな手で塞いだ。不安と恐怖に慄いて、一気に鼓動がバクバクと身体の中で激しく跳ね上がる。
しかしぐっと距離が縮まったのと暗がりに目が馴染んできたのもあって、やっと目の前の影の姿が辛うじて薄ぼんやりと見えてきた。
まじまじと見つめていれば相手も此方へいっそう顔を寄せる。
よりはっきりとなった視界で、確信の背中を押すように薄く開いたままの窓から月明かりが細く差し込んで来て、ゆっくりと照らされたのは眉目秀麗で端正なお顔。
それは早く一目だけでも見たいと何度も焦がれていた神田さまだった。
こんな状況の元凶となった当事者は悪びれもせず真剣な双眸でまっすぐ貫くように見詰めている。
名無しはその瞳に捉えられたまま暫し何がなんやらで吃驚して固まったまま動けなかったが、神田は動揺する名無しを見てふっと狡猾な笑みを浮かべ、その薄く形の良い唇へ人差し指を添えてなるべく小さい声音で囁く。


「しっ……騒ぐな、攫いに来たぞ」

「かっ、神田さま!?っ……むぐ!」

「だから静かにしろっつってんだろ」


いやなんでこんな方法で侵入をだとか、そもそもわざわざこんな事されなくても明日もいつも通り職務として朝から自室へ伺いますよ、だとか何故宴会に来られなかったのですか?だとか、とにかく山程言いたいことはあったがこの骨ばった手のひらに邪魔されてしまい、なにひとつ紡げないまま無理やり捩じ伏せられてしまった。


「どうせ暇だろ、俺と付き合え」

「えっ!な、なににです……?」

「良いから行くぞ」


まるで悪戯っ子のように唇がふっと三日月に弧を描き、未だに困惑する私の手をするりと取ると、軽々と引き寄せられた。
あっさりと引っ張られて無理やり立ち上がらされてしまい、何処にゆくのか分からないが『外に出るから寒くない格好しろ』と促されて、仕方無くクローゼットからごそごそと何時ものメイド服を取り出した。
それを見た神田さまは一瞬ぴくりと眉根を顰め、怪訝そうな顔をしてハンガーに掛かったままのメイド服をピッと指差す。


「仕事じゃねえんだからなんかこう……それ以外ねえのか?」

「えっ!あまり服を持ってなくて……」

「まじかよ……まあいい、また買ってやる」

「いえっそんなの申し訳ないです……」


いざ着替えようと服を掴んだが痛い程の視線を感じて振り向けば、壁に背を預けて腕を組んだままじっと何一つ取りこぼさないと至って真剣に見つめる瞳と合ってしまった。
なんだよ?とさも当然のように小首を傾げてまじまじと見てくる神田さまの元へ駆け寄り、両手を伸ばして締まった腰辺りを掴むと慌ててくるりと後ろへひっくり返す。


「は?なんでだよ」

「なんでって!恥ずかしいからですよ!」

「チッ……早くしろ」


悪いのは完全にそっちなのに何故か怒ってるからわたわたと慌ててメイド服に袖を通しているというのに、壁を向いたまま待つ彼の声が後ろからぼそりと「何回も見てんのに何が今更恥ずかしいんだよ」という毒のある独白が聞こえたような気がしたけど、もう知らない。王さまの馬鹿。

勤務外の真夜中なのに何時もの仕事着に袖を通し終えて「お待たせ致しました……」と控え目に彼の背中をトントンと軽く叩くと「やっとかよ」とため息混じりに呆れ顔で神田は振り返った。
射抜くようにじっと絡んだ視線が外れて下へ落ちる。
するとすっと躊躇い無く指先が伸びてきて、名無しの胸元のリボンに少しだけ触れれば軽く真っ直ぐに直した。身嗜みが気になってしまうのは癖にさせてしまったらしい。
少しだけ申し訳なさにぺこりと頭を下げたが、神田は気にもとめずに再び此方を見やるや行くぞ、と静かに告げる。

あれ?なにか約束していたかな?と錯誤してしまうくらい堂々とした態度なもんだから思わず疑問も持たずに普通にはいと肯定をしかけてしまった。ん?待って待って?


「いっいや、そうじゃなくて!
こんな夜分にどこへ向かうんですか?」

「いちいちうるせえな」

「でももう使用人棟の鍵も締まってますし……って、えっ!まっまさか、」

「ハッそのまさかだ」

「そんなあ!」


青い顔をして狼狽える名無しへ、いかにも悪そうな狡猾に口角を上げてにやと笑うと、ひょいと軽々しく名無しの身体を抱きかかえた。
ふわりと足元が地面から浮かんで、ワンテンポ遅れた名無しは驚いて慌てて神田の首元へ両手を回す。
それを確認する為にちらと名無しを一瞥すると、さも当然のように再び侵入してきた窓に足をかけた。

ああ、そういえば前にもこんな事があったな……
名無しの脳内で確かなデジャヴが走馬灯のようにキラキラと駆け巡る。
もはや何処かで諦めもあるが、苦し紛れにでもなんとか止めようと待って心の準備が!と王さまにしか聞こえないくらいの声量で懇願する。
まあやっぱり考え直して頂けるわけなんて当然ないのだけれど。
しっかりと前を見据えているやたらと整った横顔が、月明かりに照らされているのが余りにも様になるのがなんだかほんの少しだけ悔しい。


しっかり捕まっとけよ、と言い終える前にはもう神田さまは既に窓から飛び降りていた。

あ、とひとつ間が空いて。
腹を括る時間すら与えられず、はたと気付けば宙。
ほんの一瞬だけふわっと重力を奪われたと思えば、すぐさまもの凄い速度で一気に落下してゆき、轟々と風を切る音だけが鼓膜を支配していっそう強くなる。
ひえええ!と情けなく勝手に漏れ出た名無しの素っ頓狂な声だけがしんとした闇夜に響く。


こんな非日常、二度目とはいえ慣れる訳なんて当然無い。
落とさないようにだろうさっきよりしっかりと抱きしめられてはいるけど、地面が加速するのがひたすら怖くって強く目を瞑る。
そしてただただこの浮遊感が早く終われと命綱のように首に回した腕の力を強めた。

とすん!と微かな衝撃が来てようやく固く瞑っていた瞼を開いて見上げるも抱えられたままでなかなか降ろしてもらえない。


「も、もう大丈夫です!だから、あの、」

「お前と歩いたら夜が明けるだろ」

「そんなこと無いですよ!それにそもそも恥ずかしいし……」

「うるせえな、黙って捕まっとけ」


スゥ、精神統一させるように息を少し吸ってゆっくりと重心を低くしたと思えば、神田は強く地面を蹴って一飛びする。
さっき落ちた時の速度と変わらないのではと錯誤してしまうくらい、速く速く見慣れた道を何処までも軽い足音と共に駆け抜けてゆく。
彼の一定のリズムで走る足並みに合わせて揺れる視界。

人間ってこんなに速く動けるのかなんて呑気な事を考えるも、自分なら絶対出来ないスピードが怖くって再び彼の首に回す腕の力をぎゅっと強めた。
さながら馬車から見るような速い景色は下手すれば死すら彷彿してしまうほどで、必死で振り落とされないように両手で掴んで揺られていると上から息一つ乱されない、いつも通りの冷静な声が落ちてきた。


「もうすぐ着くぞ」

「な、何をそんなにお急ぎになられているんです?明日も勤務はございますし、」

「いや、すぐがいい」

「ええっ!?」


何時もより何故か頑固な彼に少し戸惑いつつも、名無しもようやくこの速過ぎる送迎に少し慣れてきて、ちらと横目に流れゆく景色を見遣ればどうやらあっという間に城下町辺りまでやって来ているらしい。
夜の街は燦然と輝いていて遠くから繁華街の喧騒が楽しそうにここまで聞こえてくる。
音の出処であるそのメイン通りからひとつ隣に道は外れているのか抱えられたまま駆けゆくこの土道は、すれ違う人も誰ひとり居らず、仄かに暗かった。

今宵の彼は戦果を挙げた立派な英雄だ。
当然目立つに決まってるのも理解しているのだろう、誰かと出くわさないようにきっと敢えてこの道を選んでいる。
じゃあこんな夜更けにわざわざこんな召使いなんかと出掛けるなんて、どうして?
本当は今すぐ訊ねたいけれど、王さまの切羽詰まったような焦りがピリピリと肌から吐息から痛い程伝わってきて、何も言えそうになんてなくて。

遠くから聞こえる楽しげな音を聴きながらぼんやりとされるが侭に揺られていれば、神田さまは此方をちらと一瞥だけ寄越すと静かに着いたぞと告げてやっとストンと降ろされた。


まず視界に飛び込んだのは、夜のなかを月夜だけがそっと照らす大きな噴水。
さらさらと水の流れる優しい音だけがただただ響く静かな公園だった。
隣には穏やかな川が流れていて、その水を循環しているらしい。そこを架ける小さな橋には細やかで瀟洒な彫刻が掘られていてすごく美しい。
川に反射するランタンの朧気な光がゆらゆらと幾重にも揺らめいていて、なんだかここだけが現世から切り取られたかのように煌めき幻想的だった。
……そういえばあまり休暇の時も出かけなかったから、故郷を離れてこの街に勤めていたとはいえこんなところがあるなんて初めて知った。

噴水は愛くるしい天使達が楽しげに水浴びしている彫刻が施されていた。燥ぐその姿は今にも笑い声が聞こえてきそうなくらい写実的で、きっとこれも前国王が手掛けたのだろう沢山のこだわりが垣間見える。
その迫力にただ息を飲んで圧巻されていれば、すっと神田が隣に並び立ち尽くす名無しを覗き込んだ。


「お前、こないだアイツの国で馬鹿みたいな顔して噴水見てただろ。だから連れてきた」

「あの、こんな綺麗な所……私なんかを連れてきて下さってありがとうございます……。
でもわざわざそんな急がなくとも……」

「いや、国交やらが一旦落ち着いた今が良い。まあこれは俺の都合だが……お前に頼みがある」

「えっ私にですか?
そんな改まらなくても、側近なんですからいつでもなんなり……」

「違う、お前自身にだ」


その言葉に驚いて彼の方を咄嗟に振り向けば、神田の水面のような青い瞳が燦然とした眩さを反射させて真っ直ぐ見詰める。
なんだか今日は彼の態度が何時もと違う事ばっか続いていて、不安に揺らぐ名無しは張り詰めたような神田の空気につられてふわふわと弛んでいた笑顔をぎこちなく引っ込めた。


「……お前、この国は好きか?」

「はっ、はい!もちろんです」

「なら側近辞めろ」

「そっ、そんな!?えっどっどうして、」


突然言い渡されたクビ宣告に、一瞬冷水を掛けられたように時が止まり吃驚した後、じんわりと衷心へ刺された刃の痛みが広がりゆく。
思考を置いてきぼりにしてゆらゆらと視界が揺らめき熱くなってしまい、大粒の涙がほろりとひとつ溢れてゆくのを神田ははっとしたように驚いて慌てて拭うと、すぐに真正面から強く強く抱き締めた。
ぼふっと音が立つくらいの勢いにただ驚いていたら、上からなんだか少し反省の色濃い声が落ちてくる。


「わりィ、今のは俺の言い方が悪かった。
だっ、だから泣くな」

「ぐすっ……すみませ……」

「いや、俺が言いたかったのは、」


優しく抱き寄せていた腕をそっと緩めると、改まったように視線を合わせて双肩に手を置く。
潤んで涙を溜め込む名無しをじっと見やると何かを言い淀んで一瞬だけ顔を逸らすも、再びキッと覚悟を決めたのか珍しく真面目そうな表情をぱっと此方に向けると、その透き通る真摯な瞳に射抜かれた。
硝子細工のような艶やかな蒼には、心配そうに眉根を下げた小さな名無しの姿が映る。


「妃として、俺の元に来い」

「ッ!?」


えっ!それって、け、結婚ってこと……?

何かいま自分の都合の良い聞き間違いが聞こえたかもしれない……と見詰め返すも、どうやらそれが本気なんだとその真っ直ぐな視線も掌の温度も余裕の無い態度も神田さまの全てからひしひしと伝わってきて、硬直したまますっかり引っ込んでしまった声に代わり何度もこくこくと頷いた。
すると名無しの反応を見た途端にほんの一瞬だけだったが、神田はなんとも嬉しそうにふっと目を細めて口角を上げた。

そ、そんな笑顔狡い……。
尖った犬歯がちらと零れたその爽やかな笑みに、胸の奥底からキュンと高鳴りすっかり掴まれてしまった。
神田さまがこんな顔をして笑う所を見たのは初めてで、本当に愛おしそうに見つめられるその視線がなんだかすごくくすぐったくて恥ずかしい。


「なら早速明日発表するぞ」

「で、でもそもそもこんな立場の差も甚だしいのに、国民の皆様が納得して頂けるようには思えないのですが大丈夫ですかね……?」

「王族の純血だとかそんなの全く関係ないような、孤児院上がりの俺に今更んなことガタガタ言わねえだろうし、まず絶対言わせない」


ふわふわと空をも歩けそうな嬉しさのなかにも暗く残る不安をおずおずと差し出したが、神田さまの低く威嚇するような声音で呟いた『絶対』の部分に強い信念が込められていてこっちまでひやりと身震いしてしまう。

本当に、本当に良いんですか?
まさか夢のようで何度も彼に確認したくなるも、目の前の仏頂面が隠しきれずに緩んでいる様子を見てしまったらもう、こちらまで幸せが伝染してしまいひたひたと身体中が満たされてゆく。


「ボロ雑巾みたいな格好すんなよ、名無し」

「な……名前……初めて言われ……!?」


こんなにもずっと一緒に居たけど、今初めて名前を呼ばれた……?
はっと瞠目した後、高鳴る拍動が欣然として駆け巡るなか、もう一度それを聞きたくってねだろうと咄嗟に口を開くよりも早く、先程名を紡いでくれた形の良い唇に塞がれてしまった。
温かく優しいキスには沢山の愛が込められているのが、触れた唇の先から痺れるくらいひしひしと伝わる。
ありあまる程の幸福に蕩けそうな意識の中、改めて確かめるようにぎゅっと強く抱き締められた。 頬へ瞼へ額へと順番に啄むように降り注ぐたくさんの愛情をひたすら受け入れて、その引き締まった背中に腕を回す。

ああ、世界一の幸せをくださってありがとう。
こんな不束者ですが、これからも末永くよろしくお願いします。
そっと耳元で囁くと、返事のように腕の力が強まった。