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お見送りしてから忙しなくいつ戻られるのだろうと名無しは城内を右へ左へそわそわとしているものだから、彼女とすれ違う度に色んな使用人達からそんなすぐに戻るわけないだろと何度も再三注意されてしまいすっかり肩を落としていた。
目を潤ませたまましょんぼりする名無しに、とりあえず手でも動かせば気も変わるのではなんて厨房の方から食器を片付ける仕事を貰い、ひたすら拭いて仕舞ってゆく。
つるりと輝く白い皿に映る自分の顔は憂鬱ですと頬にしっかりと書いていて、周りの皆さんもなんとか平静を装っていると頭では分かってはいるのだがどうしても不安で不安で居てもらってもいられない。彼のじっと此方を見つめる瞳やその真っ直ぐ伸びた後ろ姿を思い出してはまた胸が苦しくなってうろうろとしてしまう。
だめだ、気が緩んだらまた割っちゃうかもしれないから集中しなきゃ。

キュッキュッとひたすら無心で磨いていれば、最初は幻聴かとも思ったのだがぼんやりと彼方より聞こえゆく大勢の足音が聞こえた。
微かな希望を抱いて息を止めて鼓膜に集中していれば、やがて少しずつはっきりとするその闊歩する音が確信に変わる前に名無しは乱雑に食器を置いて一番に外へ飛び出す。

必死に走って足が縺れてもはや躍り出るような勢いで音の方へ向かえば、見慣れた顔が並ぶ列が夜更けと共にこちらへ来るのが見えた。ザクザクと一斉に土を踏み締めるたくさんの足取りは各々が心做しか軽いようでいて、土埃で汚れているがすごく精悍な顔付きをしている。

突然一目散に走る名無しの背中を見送った使用人達もそのあまりに珍しい素早さにしばしの間瞠目していたが、もしやと目配せして懐疑的にゾロゾロと広場へ向かう。
すると勇敢に見送った男達が皆一様に寒さで頬を赤くしていたものだからその無事な姿をみて一様に安堵の溜息を零した。
皆が揃って正直もっと長期になるだろうと覚悟していたので拍子抜けする程の速さに正直驚いていたが、それは当の本人らも同様らしく兵はどことなく居心地悪いのか気恥しげに白い歯を見せている。

その温かい笑顔を見た途端、緊張の糸が切れたように大きな瞳からほろりと涙を落とした名無しを近くに居た大柄の兵が笑い飛ばす。


「皆様よくぞご無事に、ううっ、も、戻られて良かった、です……!」

「おーい名無し泣いてんぞ!誰か王様んとこ連れてってやれよー!」


大袈裟だと頭をぐりぐり撫でられ頭上でたくさんの豪快な笑い声が飛び交うのを名無しは交互に見上げていれば、突如後ろからモーゼの海さながらにゾロゾロと人集りが割れてゆく。
はたと目の前に現れたのは名無しが最も帰りを待ち望んでいた神田の姿だった。

勝利を収めたというにも関わらずいつもと温度の変わらないその気怠げな仏頂面を見つけた瞬間、再びわっと泣き出してしまい子供のように両手を広げて駆け出す彼女を、さも当たり前のように抱き留める。
すっぽり収まった腕の中は何時もの優しい石鹸の香りでは無く、なんとなく本能的に不穏さを感じる鉄のような匂いがした。
これは多分、血の匂い……!!

それが鼻腔をくすぐるや咄嗟にばっと身を引き離れた名無しは青い顔をしてぺたぺたと神田の身体中あちこち触れる。
こいつ何してんだ?と神田は怪訝そうに暫く見下ろしていたが焦燥し切った名無しの必死の形相が冗談では無いとすぐに分かる程で。
名無しはなんとか振り絞るように震える声でゆっくりと言葉を紡ぐ。


「あの、どこかお怪我は……?」

「なんともねえよ、いちいち気にすんじゃねえ」


でも、と必死で食い下がる前に神田の遮る手が名無しの頭を掴む方が速くて、あっさりと引き剥がされると誤魔化すようにそのまま乱雑に撫でくりまわした。
前も見え無くなる程の勢いにただひたすらされるがままの名無しはすっかりぐしゃぐしゃに乱された髪を手櫛で戻しながら、このどうしようもない王さまの横顔を迫力の欠けらも無い涙目のままこっそり睨む。神田さま、ホント強引な人。

するとその拙くも生意気な目線に気付いたのか、引き寄せられるように再び落とされた神田の透き通る瞳とぱちりと視線が絡まった途端、名無しはハッとして時が止まったように全てを奪われた。

何かすごく大切な事を言いたげな色を孕んだ海はどこまでも深くて、捕らえられたまま沈んで動けない。
息が出来なくなってしまうほどその長い睫毛が縁取る瞳はあまりにも痛いくらい貫くように真っ直ぐで。
名無しは神田の今まで見た事もない程に真剣な雰囲気にすっかり気圧されてしまい、思わず小さく唾を飲んだ。

なに?一体ど、どうしたんでしょう……。

さっきから相反してどきどきと大きく主張する拍動をなんとか隠すように微笑みながら首を傾げてあっあの?と小さく問い掛けるも、後ろで盛り上がっていた大軍から「早速勝利の宴だー!」という誰かの兵の大きな叫びに、あっさりと掻き消されてしまった。

すると一瞬の沈黙のあと、その言葉を口切りに皆が一斉に歓喜の叫びに酒だ!祝いだ!と湧き上がりお祭り騒ぎが始まってしまった。
は?という素っ頓狂な声と共に名無しから視線を外した神田は振り返るももはやこのどんちゃん騒ぎは怖いもの無しなのか誰も聞きやしない。


「な!?待てっ、だれがんなこと、」

「王さまー!!!今日飲まずしていつ飲むのですかあー!!!!」

「ケチケチすんなバ神田ぁー!!お腹いっぱい食べさせろー!!!!」

「オイこのクソモヤシッ……!!」


ついにやいのやいのと騒ぎ立ち出したこの喧騒の中どさくさに紛れて野次を投げるアレン君の声には敏感なのか、クワッとキレてより殺気立つ神田さまをまあまあと落ち着き宥める。

さっき迄の真剣さは何処へやら。
もはや此方が本番だと言わんばかりにはしゃぐ兵達。
どうやらこの盛り上がりよう、彼らが所望する血が沸き肉踊る宴は始まらないと終わらないようだ。
暫くその喧騒を聞いていた神田はだんだんとうんざりとしたように眉根を寄せた顔を掌で伏せてはーっと肺の底から大きな溜息ひとつ付いた。

そおっと見上げた彼の表情は怒っているというよりも至極面倒そうで、しばし呆れて半目でそれを眺めていたが顎に手を当て何か考え込んだかと思いきやちらと一瞬だけ視線が合う。ぼんやりと神田の綺麗な横顔を見ていただけの名無しはその目線にはたと驚きしゃんと背筋を伸ばして見つめ返したが、彼はぱっと顔を逸らし再び燥ぐ兵に向きやって静かに「好きにしろ」とだけ告げた。

それを聞くや否やウオォと太い声が雄叫びを上げて最高潮に盛り上がる。あまりの単純さに使用人達も思わずふっと吹き出して笑うと、すぐにバタバタと音を立てて厨房に戻り宴の支度に取り掛かった。

祝杯という浮ついた仕事が舞い込んでさっさと準備を進める先輩方の後を慌てて着いてゆこうと歩みを進めると、当の王さまに逃がすかと言わんばかりにがっしりとメイド服の首根っこを掴まれてしまい、ぐへぇ!と情けない声が締まった喉の奥から漏れ出た。
思いっきり噎せながら反射的に浮かぶ涙目で上目遣いする名無しを、全く気にも留めていないようにこの容姿端麗な彼はなにか?と眉根ひとつ動かさずに見下す。
神田さま、なんか私の事ペットかなんかだと思ってやしませんかね?というか仮にそうだとしても雑過ぎやしませんかね?


「どこ行く気だよ。お前はちょっと来い」

「で、でも宴の用意が……」


抵抗なんて虚しいというかもはや強制的に襟首を掴まれたままずるずると引き摺られてされるが侭に何処かへ連行されていれば、飲めや騒げやのパーティ会場と貸した部屋の中からひょこっと顔を出したのは赤髪の隻眼だった。
側から見れば完全に人攫いにしか見えないその異様な光景にぎょっとして暫しお互い無言で見つめていたが、滞在していた期間が長かったからか違和感も仕事せずにすっかり慣れてしまったようで「またやってんのかお二人さん」なんて言いながらいつもの眩い人懐っこい笑顔を浮かべる。いやちょっと!少しは違和感覚えてくださいよ!

すると名無しから意識が逸れたからか、ふっと神田の手の力がほんの少しだけ緩み襟首の解放感を察してちらとこっそり見上げると、彼は隠す素振りも見せずにいかにもゲッと嫌そうに顔を顰めているではないか。
いやいや、あんなに散々助太刀して頂いておいてなんとも失礼な……なんて立場も弁えずに些か頭をよぎるも、そんな事お構い無しに彼はめんどくせ、とぼそりと独白した後に気怠げに重い口を開いた。


「ちょっと大将!どこ行くんさ!!」

「…………んだよ、関係ねえだろ」

「大将が居なくってどうするんさ!ほらさっさと行かねえと」

「は?誰が行くか、ってオイやめろ!」


まあまあ良いから!なんて言われて今度は無理矢理ラビが神田の空いた方の腕を掴んでそのまま名無しごと部屋へ連行しようと引っ張る。彼も負けじと振りほどこうと頭上で織り成すこの男二人の揉め合いはその力強さも相俟って、しっちゃかめっちゃかに振り回されてしまっている名無しはすっかり酔ってしまい吐きそうになっていた。
うう、このままではやばい誰か……と白目を剥き青い顔をしたままただ無心で神に祈っていると何してるんですか、と一縷の望みと共に鶴の一声と云うにはあまりに汚い暴言が舞い降りた。


「ラビ、そんな頑張らなくても僕は神田さまの顔見る方が食欲失せるんで連れて来なくても大丈夫ですよ」


パッと視線だけ上げると、そこに立っていたのは、皆と同じく戦線で闘っていたのだろう、頬に煤けた汚れを着けたままのアレンだった。
ラビさまから矛先が変わり同様にというかより強く火力を上げて睨みつける王さまの、そのあまりに怖い顔ったら。
というかこの人達疲れ知らずすぎやしませんか?


「あ?テメェこそいつもドカ食いしやがってちったァその無駄食い減らした方が財務も喜ぶぜ、金食い虫が」

「なんですか、君は自分の配下もおなかいっぱいにさせてやれない雑魚王さまですもんね」

「表出ろよモヤシ、その馬鹿頭叩き直してやるよ」

「君の方こそですよ単細胞野郎」


怒りのボルテージが振り切ったのか、ラビを払い除けて名無しの首根っこもあっさりと手放した神田は感情のままにアレンの胸倉を乱雑に掴み上げた。
一歩も引けをとらずその銀灰の瞳を細めて犬歯を覗かせる彼も同様に鋭い眼光で睨み合う二人は今にも一触即発の空気のままついに外へ飛び出してしまった。
アレンがまるで飼い犬のリードのように次いでにそのマフラーを引っ張ったものだからおまけのようにラビまでも脱兎も間に合わずその喧嘩の犠牲になったらしい。
なんで俺までぇ?という情けない声と共に先程までの自分のように引き摺られて連行されていってしまった。

目まぐるしい程の嵐が過ぎ去り、ぽつんとひとり残された名無しは乱れた髪を手櫛で直すとぱんぱんとメイド服を軽くはたいて立ち上がり最高潮に盛り上がる会場の手伝いにようやく向かうことにした。
同僚に声を掛けてその愉快な喧騒の駆け回る中に馴染むも、ふと脳裏に過るのは彼の真摯な瞳だった。
何時もそんなにこちらに何か伝えようと躍起になったりしないのに、珍しくやたらと執着していた神田さまのことは少し気がかりだったが酒をもっと持ってきてくれーと叫ぶ声にはっと意識を引き戻されて名無しはただいま!と配膳へと遣った。