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日中の春を待つ暖かさを忘れたかのようにとっぷりと夜が更ければぴんと張り詰めた鋭い寒さで頬が痛む。黒い画用紙に針で穴を開けたかのように、頭の上に浮かぶ小さな月だけがやけに明るく、重く武装した人々の吐く息の白さを際立たせる。
普段は寝静っているはずのこんな真夜中だというのに、城内は迸る緊張感とざわめきで溢れ返っていた。
というのもずっと危惧していた南国の動きがとうとうあったとラビから連絡を受けた後に国内ではすぐ様行動に移したからだ。
神田が伝えたその数時間後にはマリが率いる武装兵や支援兵達は攻戦の用意を済ませて速やかに広場にがやがやと集まっていた。
我が国の軍からすれば、かねてからずっとすんでのところでひりつく諍いが起こるかどうかの最中続きだったものだから、漸く待ち侘びていた戦いの火蓋が切って落ちると耳に入る頃には、既に用意周到に物資も不足無く皆一様に肩を鳴らしている。

寒さを諸共せず兵達一同やっと合戦の時が来たかと気合いを入れる咆哮を背後に、戦闘服を身に纏った神田は改めて気を引き締める為に慣れた手つきで髪を高く結い上げる。
その姿を少し離れた所で佇む名無しの方をちらと見やれば、やっぱり予測せずとも何時ものようにまた不安げに揺れる潤んだ瞳とぶつかる。 それは神田にとってあまりに予想通りだったものだからなんだか少し笑いそうになるも、本人は至って真剣に泣き出しそうな赤い頬をしたままそっと駆け寄ってきた。


「心配です。行かないでって言えたらいいのに」

「んなことでへばるかよ」


呆れ顔のまま横目で一瞥して再び前を向く彼へ一瞬手を伸ばすも、ひとつ触れてしまえばそれだけで自分の中で何かが決壊してしまいそうで。宙ぶらりんの指先は空を切り、名無しはそっと引っ込める。
するとその躊躇いを見ていなかったはずの背中が振り向きざまにパシッと戻しかけた手を掴みそのまま引き寄せた。よろけた名無しはその勢いのままに、彼の鍛えられた胸板にぶつかる。
目まぐるしい視界の変化に着いて行けずに驚き固まるも、はたと見上げると眉間に皺を寄せたまま仏頂面の神田と視線が絡まった。


「わざわざんな顔すんな。必ず戻る」

「っはい……」


悔しい程に須らくお見通しだ。
今までならただの雑用係だったからなんだか遠くで起こった話で、人伝いに聞くだけであまりピンと来なかったのに。
近くでずっと色んな顔を見てきた大切な人を目の前で送り出すことがこんなにも不安だったなんて、知らなかった。
ぎゅっと心が苦しく堪らなくなってその温かい胸へそっと耳を寄せれば、安全な所で待つだけの自分なんかよりも遥かに落ち着いたリズムで刻む彼の拍動。
大丈夫、いつも無事に帰ってこられるのだから。
勝利を収めたとて悦びもせずに淡々と仕事だと割り切って帰還する彼の強さは絶対的だから。

神田は俯き表情の見えない名無しに静かに目線を落としたまま、もうそれ以上何も言わずにポンと乱雑に骨ばった手のひらを頭に乗せる。
どこか優しく慈しむように触れる親指の先が名無しの額を何度も往復して撫で、さらさらと彼女の前髪が流れた。
……なんだか情けないな。
その触れる温度に、言葉こそ紡がないが心配させてるのはこっちの方だ。

名無しは今にも零れ落ちそうになった眼窩に溜まる涙を裾で拭うと、せめてもの精一杯でなんとか笑顔を浮かべて「ご武運をお祈り致します」と告げた。
彼はそれを凪いたように静かな瞳でじっと焼き付けるようにこちらを見つめ「ああ」と頷くと、踵を返して砂利を踏み締め歩み行く。名無しは深く頭を下げて、彼の凛とした背中を見送った。







***






よすがの主人が現れた途端に広場は一斉に低い歓声が響き渡った。当の本人は静かにうるせえと呟き、鬱陶しそうにただ眉根を顰めていたが。
所々に持つ灯火だけが揺らぐ真夜中の空気はこれから起こる嵐に、張り詰めたように冷たいはずだというのに何千もの男達の熱気で篭っている。
吹き曝す風も諸共せずに蒸気する武装した兵達が動く度に、擦れた金属音があちらこちらから聞こえる。
カチリ、城の外壁に備え付けられた時計が静かに約束の定刻を指した。「時が来たぞ!静かにしろ!」と叫ぶマリの号令により、水を打ったように静まり返った広場で前に立つ神田は改めて一人一人の顔を見渡した。
誰と共に戦うなんてことに全く興味の無い彼からすればかなり珍しいその行動に、傍目で見ていたマリは内心驚いたが当の本人はそんな事を気にもせず一気に凍てつく空気を肺いっぱいに吸い込むと腹の底から叫ぶ。


「ここで方をつけるぞ!死ぬなら下がれ!誰一人として欠けんな!」


一瞬の間が空いて沈黙のあと、御意!と一斉に大きな声が響き渡るや、皆一斉に士気を上げてずんずんと進軍してゆく。
歩み行く武装兵達は神田が珍しく言葉を叫んだことにもその内容もまた吃驚し過ぎて、もはや誰も雑談すらしなかった。それだけで無く一体どういう風の吹き回しだ……?と首を傾げる者さえも居た程に。
その中で、進みゆく流れに沿いながらもちょこちょこと寄ってきてマリに笑いかけたのは白髪の少年。



「こんばんはマリ!」

「アレン、居たのか。仕立て屋なのに戦地に行くのか?」

「こんな大事な時に服なんて作ってられませんよ、神田が着る服無くて裸でも僕は困りませんし。
それより神田なんだかすっごくやる気に漲ってますけどいつもあんななんです?」

「私も初めて見たよ。多分あれは……」


とそこまで言いかけて、マリははっと大きな手で口元を隠しアレンにバレないようにこっそりふっと笑みを溢した。またもや珍しい姿をきょとんと丸い銀灰の瞳が朧気な焔に揺らめき見上げている。
恐らく神田のやつ、瑠璃といる時間が長過ぎて随分と面倒見が良くなってしまったのだろうな。しかしそれをもし指摘したりアレンに伝えたらまた例の如く怒るだろう。
ならばと「まあ、そういう気分だったのだろうな」と遮るように紡ぎポンポンとその柔らかい白髪を撫でると、腑に落ちないのかムスッとしたまま唇を尖らせて「じゃあまた本人を弄るからいいです」と零し再び列に並び闊歩していった。


アレンの想像通り、神田は何時も戦地へ赴く前の最終号令では兵達へ向かい何かを告げるのが嫌いで毎度かなり手短だった。まるでなんで俺がなんてモロに顔に書いてあるような面倒げな表情をつら提げて、大概が「行くぞ」か「弱い奴は下がってろ」と言うのみ。
今回も例の如くそうだろうなんてしかと耳を澄ませる彼らに、相反して彼の声は後ろの方で立っていた兵にまで耳に届く程大きな声量が闇夜の静寂の中に響いたのだから驚きを隠せないのも無理は無い。


不思議な雰囲気の中、真っ直ぐと戦地へ赴く長い行列は真夜中を照らす煌煌と焼ける松明を掲げてどこまでも約束の地へと続いた。

向かう先には闇夜に馴染む見慣れた姿を初めとしたこちらよりもかなり少数の兵。
その最前で馬に跨るのは隣国の王子だ。
暗がりでもよく輝くその金髪が松明の朧気な焔に照らされて夜風に靡いている。
そのツンと澄ました顔を見るや神田は反射的に舌打ちをしそうになったが先日自らが連絡したことを思い返して何とか我慢するが、こちらを一瞥するや如何にも真面目そうな表情のまま淡々と言葉を綴った。



「彼方から見えてましたよ、君達はまるで遠足のように随分賑やかですが闇討ちの意味が分かってるんですか?」

「いちいちうるせえよ、こいつらに言え」

「貴方が当主なんだからご自分で指揮を取るべきでしょう。指導を放棄しないでください」

「ちょいそこ二人また喧嘩すんなさ〜」


はたと不穏に張り詰めた雰囲気をほんの少し弛めた声が断つ。同じような表情が並んでピリピリと眉間に皺を寄せたまま2人同時に振り返ると、頭の後ろで手を組んだままこの戦場にそぐわない笑顔を浮かべたラビの姿が見えた。
自分から連絡を寄越したくせに中々来ないと思っていたら、道中でいつの間にかこちら側の兵に紛れ込んでいたらしい。まあどうでもよかったが。
神田は一瞬だけ瞠目するもすぐに彼の腰に据えられた見慣れない武器を見るやハッと不敵に口角を上げて続けた。


「やっと来たのかよ。慣れないモンぶら下げて怖いなら下がってていいんだぜ?」

「ハハッご冗談がキツいさユウは」

「貴方も来られたのですか、ブックマン」

「いちおこれも仕事なもんでね」


ピースをしながら胡散臭く笑う隻眼を、そうですかと返事をするも、さして気にも留めていないのか赤髪の彼の背後に屯う軍を見渡してルビーの瞳を細めた。
ここへ来るまでに何をやったのか知らないがどうやら武装兵や支援軍も含め士気は割と上がっているようだ。一人一人の表情も良く団結しているように見える。そして一見おどけているように見える彼もまたあの日お茶会で見た動きの素早さからしてもかなり戦力になるだろう。
リンクは几帳面にしっかりと手袋を嵌め直すと胸元から懐中時計を取り出し、秒針がかちりと定刻を指すのを確認した。
時間ですね、とぼそり短く言葉を呟くと手綱を扱い馬に進むよう指示を出す。
それを見ていた神田がオイ、と彼へ目もくれずにぶっきらぼうに呼び掛けるとリンクは如何にも不機嫌そうに振り向いた。それにつられてラビも声の主の方へ向く。


「最初に言っとくがお前らがどうしようが俺は助けねェからな」

「仲間なのにユウってば辛辣さぁ」

「それとお前に言っとくが、」

「…………」


神田がラビから視線を外して真っ直ぐにリンクを睨み付けると彼も同様に静かに厳しい視線を寄越した。二人の間にビュウと大きな音を立てて強い風が隔つように冷たく吹き曝す。
おふたりさん今から共闘するんだから仲良くしろって、とぶんぶんと手を振りながら慌てて軽い口調で窘める隻眼の苦労人の声も当然いまの彼らに届くはずもない。

暫時の沈黙の中、腰に据えた刀へ手を添えたまま紡ぐ覚悟を決めた声はどこまでも凛としていて、これ以上有無を言わさないようなはっきりと決断した強い声音だった。


「何があってもアイツは絶対に渡さない」

「……彼女は物じゃありませんし、そもそも本人の意思を優先すべきです」

「だとしても名無しは譲らない」


何を引き換えにしようと。
瞳の色は本気だった。たとえ何を引き換えにしようが絶対に手放さ無いという意志の現れだった。
暫くの間二人は静かに睨み合っていたが、先にリンクが呆れたように定刻ですさっさと行きましょうと淡々した声音で催促しその空気を断ち切った。
オイオイ大丈夫なんか?とラビは頬を掻きながら思わず苦笑いをしながら進軍する列に並び南国へと重い足取りを引き摺りながら進む他なかった。

どこまでもコイツら仲悪いな、先行き不安しかねえわと溜息を付きながら。