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「どうしてこんなことになったんです?」


薄暗い廊下を歩きながら、珍しくふらつき歩く神田の初めて見せた隙のある横顔を見上げた。揺らめく蝋燭の明かりが照らす紅潮した頬は、光り艶があってなんだかとっても可愛らしい。言ったら怒られそうなので言わないけど。
名無しは彼のいつもピリと人を寄せつけまいとした迫力が無くなった、その締まった背中を労わるように擦ると、近くからふわりとアルコールの甘い香りがした。よほど浴びるくらい飲んで来られたんだろうか、途端に身体の心配もしてしまう。
彼は声を出して話すのすらもうんざりと言わんばかりに頭を抱えて、追憶をしているのかダルそうに言葉を紡ぐ。


「甘いものが出てきて、んなもん食うかっつったら……なんか、酒が出てきて……」

「うーん、それにしても飲みすぎじゃないですか?」

「飲み比べっつうから……」

「そんなの受けて立たなくても……」

「こんなんで負けてたまるかよ」

「ふふ、なにか賭けたりしてたわけじゃないでしょう?」


争い事は必ず勝たねば気が済まないのか、リンクさまと小競り合いしながら飲み進める神田さまの姿を想像してしまい思わず笑みがこぼれる。すると笑う私にムッとして「笑うなよ」と言いながら拗ねたように少し睨むも、赤らめた頬でとろんとした瞳の今の神田さまはあまり怖くなかった。


「……お前のことでアイツと言い合いになったんらよ」

「わっ私!?」


先日あんな別れ方をしたので一体どんな会話されたのかと思いきやまさか私が話題にのぼるなんて驚き、その理由が訊きたくて聞き返すも気付けば部屋の前に到着してしまい、へべれけの彼はさっきまでの話題を忘れたのかよろけながら扉を開き入室してゆく。この様子ならすぐ眠ってしまうだろうからそうなればすぐに出て行こうと思いながら後を追い、一緒に部屋へ入った。

そっと音を立てないように両手でゆっくり扉を閉めてそのまま振り返ると、窓から覗く月明かりにぼんやり照らされた彼は先程と打って変わって急に真剣な顔付きでこっちを見つめていたので、吃驚してしまい何故か咄嗟に改まってしゃんと背筋を伸ばした。


「ど、どうかされましたか……?
お疲れでしょうしこのままお眠りください」

「寝たらお前出てくんだろ」

「まあそれはそうですが……
あっ!お水もご用意しておりますよ?」

「要らない」


されるがままいつもより熱い手に引かれると、彼の腕の中に収まり強く抱き締められた。
引き締まった胸元へ耳を寄せた先の、血が巡るドクンドクンという拍動は酩酊状態だからなのか速く大きく聞こえる。
「行くな」と呟くどこか宙ぶらりんの彼の声は小さくて、こんなに近くなければ聞こえない程だった。
離したくないという明確な意思がこちらにまでヒシヒシと感じて切なくなってしまうくらい、ぎゅうっと腕の力が強まる。
神田の黒髪がさらさらと頬を撫でて、花の優しい香りに包まれた。酒のせいなのか高い体温の熱が、こちらにまで移りゆく。


「お前が朝まで来ないのが、恋しくて仕方ねェんだよ」

「か、神田さま……随分酔ってらっしゃいますか?私、そんなこと言われたら真に受けてしまいますよ」


ふふ、と照れ笑いしてしまいつつその腕の中からそっと離れると、長い睫毛が縁取る切れ長の瞳はなんとも愛おしそうに細められてじっと此方を見つめられているものだから、きゅうっと胸が詰まって苦しくなってしまい思わず目を伏せた。
珍しく恥ずかしいことを仰るものだからこっちが慣れていなくて、明日になればきっと忘れてしまうって頭では分かっているのに振り回されてしまう。本当、狡い人。

かなり酔ってるのであろう、暫くぽーっとしたまま名無しの頭をわしゃわしゃ撫でていたが、神田はなにか思い出したかのように急にふらふらと歩み出したのでその姿を目で追っていれば、吸い込まれるように飾り棚の方へ向かっていった。

本人も邪魔だと言っていた飾り棚には余白の方が多くて臣下としては掃除しやすくて助かるくらいあまり物が置かれていない。
彼が躊躇いなく触れる先には、数少ない物の中でも随分前の戴冠式の時に継承なさられていた時以来置いたままにされていた沢山の宝石がぎゅっと詰まった燦然と輝く王冠がある。
それを片手でヒョイと摘み上げるやすたすたとこっち迄持ってやれば、何を思ったか突然名無しの頭にちょこんと軽く乗せ置いた。
ほう、これって小さく見えるのに予想よりも重たいのだな、とぼんやり思うのと同時にその計り知れない価値の高さの物がこんな平民身分の自分が触れてしまったことにすぐ硬直する。

やや、いくら何でもこれは誰かに見られれば絶対怒られるっ!

しかし払い退けることも当然失礼極まりない。
固まったまま名無しは不敬にならぬよう慎重に首を動かさないように目で訴え掛けたが、神田は王冠を被る名無しを涼しい顔をしたまま顎に手を当てじっと真剣になにか考えながら見つめており、全く気にも留めていない様子で。

どっと変な汗を身体中にかきながら、もし一歩間違えたら首が飛ぶだけでは済まない代物が頭上に乗っている途轍も無い緊張感の中、国家を賭けた莫大な価値の宝を下ろして頂くようアワアワと懇願する他ない。


「かっ神田さま!?
これは私なんぞが触れて良いものじゃ無いしましてや被るなんて言語道断でして!!」

「こんなモンただの金の塊だろ」

「いやいや私にそんな価値なんて無くてですね……!?」

「ボロ雑巾のクセに……なんか違和感ねえな、ムカつく」

「ちょっと!何がですか!?」


随分酩酊状態の彼はなんともまあ自由奔放になってしまったらしい。
外してもらう事はおろか、彼にそのまま先程までのように再び抱き寄せられた。鍛え抜かれた固い胸の中はいつもの優しい香りがして肌に馴染む着慣れている彼のリネンシャツが頬を撫でる。
さっきまでバランスを崩さないようにばかりひたすら集中していた名無しはすっかり油断していて、慌てふためいていたが神田は気にもせずにそのまま華奢な肩を掴んで形の良い自らの唇を倉皇する白い耳元へ寄せれば、どこか棘が抜け落ちたような声音で小さくぼそりと呟く。


「……本当は国なんかどうでもいいんだ、俺は」

「……かん、」

「知ってるだろお前も。俺は血族でも何でもねえ。
あの金髪野郎の言ってたことだって一理ある」

「…………」

「そんな立場の奴が後から何言っても無駄なんだよ。
言葉はいつも、役に立たない」


後頭部を抑えられ胸の中に収まっているから今どんな表情をしているかわからないが、きっとあどけない顔をしてるんじゃないかと考えれずに居られないような、そんな寂しい声だった。
いつも孤高を貫く強さしか見せない彼のほんの少しだけ垣間見えた弱音が、まるで小さな少年のようで。

田舎の娘だった私でさえ王さま任命の時の話は辺鄙な村でも大きく話題になり周りの大人からよく聞いたものだったから、その境遇の大変さは一応知ってはいた。
口下手で普段一切弱みを見せない彼は一度もそんな素振りを見せたことが無く、任命当初は一部の血族崇拝の国民達から批難されようが我関せず貫き通すその姿を見つめていたのだが、彼もまた孤独でも必死で戦っていたのか。
ああ神田さまもまた一人の人間なのだななんて愛しさが込み上げてしまいその広い背中にそうっと腕を回した。

少しでも寄り添いたい。貴方の支えになりたい。


「私はずっと貴方の傍で一番貴方を見ていたから、如何に真摯に国の事を考えられていたか存じ上げておりますよ」

「……ふん」

「だって事実です、本当に慕っているのですから。それに、」

「……」

「もし神田さまが王じゃなくっても私は何処までも共にゆきますよ。鈍臭いですけどね」

「そうだな」

「ちょっと!!そこは否定してもいいんじゃないですか!?」


神田が低く喉を鳴らしてふっと笑う感覚が背中越しにも伝わる。そして腕を緩めて解放され、ずっと全神経を集中していた王冠をやっと下ろしてもらうと一気に肩の荷が降りた。そして王冠には用が無くなったのかポイと乱雑にベッドに放り投げているのは見なかった事として目を瞑ることにするけど。

少しお話したお陰なのか、なにか納得したように彼は漸くベッドへ腰を下ろしたのでそうっと離れようとしたら、するりと骨ばった大きな手が名無しの細い腰へ触れて行く手を阻む。
瞠目して顔を見れば、こっちを見上げてくる彼の上目遣いはアルコールの所為なのかその瞳は少し潤んでいて、どこまでも深く澄み渡る海のように綺麗で、儚くて。そして、なんとも狡い。
そんな目で見つめられたら離れづらくなるじゃないですか。
そのままゆっくりと伸びてきた手に両頬を包み込まれ導かれて、その海に溺れるように惹き込まれてゆけば、そっと優しく唇へ引き寄せられた。触れるだけのキスがやわく甘美な感触に、全身へ愛しさが巡りゆく。触れた先の火照って熱い唇が、なにかを確かめるようにはむ、と名無しの唇を柔らかく啄む。
大切にされてるというのが伝わってきて恥ずかしさのあまり身を引くと、愛らしい子犬を彷彿とさせるどこか縋るような目線が絡まった。


「……ダメか?」

「ウッ……ダメ、じゃないです……」

「なら離れんなよ」


くるりと視界が反転して気付けばベッドへ組み敷かれる。
あんなにふらふらだったというのにまだ男の人の力には勝てなくて、うつらうつらとされているというのに手探りでぎゅっと抱き寄せられた。
もう寝たら良いのにななんて無意識に笑みが溢れると、神田はそのまま名無しの頭に顔を埋めて、静かに一定のリズムを刻み安らかな寝息をたて始めた。限界が来たのだろう。
おやすみなさいとそっと囁くと、その口元がほんの少しだけ綻んだように見えた。