38


最悪過ぎる。

思わず肺の中がすっからかんになるデカい溜息をついてしまう。シュトレンには幸い聞こえていないらしく黒い鬣を靡かせながら軽快なステップで調子良く走っているが、俺の気分は最悪だった。

昨晩酷い事をした自覚があったからもっと落ち込んでんのかと思っていたのにボロ雑巾はさも平然としてやがり、すっかり肩透かしにあった。なんなんだよアイツ。
それと同時にまだ認めたくないが、いつの日か何処ぞの知らねえ男の隣であのふにゃりとした笑顔を浮かべる名無しを絶対に見たくないということに改めて気付いてしまった。
まあ一番固くて最も狡い、誰にも取られない方法はある。
自分の立場じゃいつでも命令すればアイツは馬鹿だし従順だからきっと聞くだろうが、それじゃ駄目なのは流石に分かる。

以前ラビに言われた、立場が違うと苦労するという言葉がふと頭に浮かんだ。
その時は惚れてるとかそんなつもり無くて直ぐに否定したが、実際んなもん俺にとっては関係など無かった。オヤジから押し付けられたような形で嫌々継承しただけで金や富、名声や権力なんか何も要らないんだから。文句を言う奴は斬れば良い、それに第一全てを捨てても良かった。アイツが居たらそれで……
ただ、こんだけ何度も手を出して散々嫌がらせしてもへこたれる事無く笑顔で嬉しそうに着いて来るアイツが何考えてんのか、ずっと一緒に居ても全く想像が付かなかった。
今更吐露したとしてアイツはどう思うのだろう。怖がって泣くかもしれねえな。もしかしたら何も考えていないかもしれない。鈍臭いし弱いし馬鹿だし。


手綱を握る手が自然と強まり、ギリと革が鳴る。
馬鹿みたいにどこまでも続く青空の下で、見慣れつつある大きな門が近付いてゆく。もうすぐ到着だ。
その時ふとあの夜音楽会の時に見やった犬野郎の挑発的な目を思い出してしまい、途端に苛立ってきて舌打ちをした。


『何処の馬の骨かも分からない』

カッとなり胸倉を掴んだあの時言われた台詞は、正直初めてでは無かった。
王を継承し任命されて直ぐ、戴冠式の時に国民共から散々投げやられたから。そりゃそうだろ、俺自身だってどこの誰か知りてえよ。
記憶ある時には既に孤児だった俺を、拾った物好きのオヤジがなにをとち狂ったか急に全権を譲り継承すると言った時、何言ってんだと正気を疑った。
周りの奴らが誰も止めなかったのも驚いたが正直どうせどっかで頓挫するだろうとぬるい目で見ていたものだから、決定した時は唖然として受け取る他無かった。
だが拾って貰った恩も無くはないかと仕方なく腹を括ったものの、演説なんかする柄でも無いし口も立たねえしそういう事自体うぜえし。
出来ることと云えばただ戦場に立ち背中を見せることしか無かったから、ひたすら国を守り戦い抜くことだけに専念してきた。だからこの今まさに南国との緊張の中で放棄して手を放すわけにもいかないと流石に思ってはいるから尚更面倒だった。



今だってそもそも国交なんぞやる気も無かったから名無しが掻き乱しさえしなきゃ、はなからこんな面倒な事するつもりも無かった。
名無しがあの男と喋ってるのを見たくないあまり咄嗟に電話を奪っただけで。
本当ならもう二度と掛けてくんなと突っぱねるつもりだったのだが、下から潤んだ視線がずーーーっと心配そうに突き刺さっているものだから声を荒げないようにこの俺が!わざわざ!務めてやっているうちに気付けば訪問することになってしまった。
んな下らねえ理由だから一人でさっさと終わらせるつもりなのに、ボロ雑巾が呑気に準備がどうとか並べるからすぐに拒否した。
言ってしまった手前、逃げ出したなんて思われたくも無いし売り言葉に買い言葉でここ迄来たが今も尚ダルくて溜息が出た。まあ直接もう関わんなって言ってやる良い機会だ、そう自らに言い聞かせながら厳かな重そうな門を潜り抜けた。















すっかり日が落ちて夕暮れに差し掛かり、赤い太陽がお別れを告げる時刻になっても神田さまは未だお戻りになっていなかった。
やっぱりどなたかにお声掛けするべきだったと深くどっと後悔が押し寄せる。無意味にそわそわウロウロしては邪魔だと使用人さん達に何度も叱られた。
ざわつく城内ではやはり迎えに行くべきでは?と心配する声がちらほらと上がり、マリさまも日が落ちる前に迎えに行こうと告げて馬の用意を始め出した。チャオジーさまも同行すると言いながら慌ててベルトを締め直している。

みな彼は強いから大丈夫だろうとは言うが、名無しはやっぱり不安のあまり鼻がつんとして視界が揺れる。すると隣で居たお姉さんが私の顔を覗き込むと、何泣いてるのよーなんて言いながら肩を抱いてくれてあっけらかんと笑い飛ばした。


「名無し、もし誰かに同行してもらおうって言ったとしてあの王がアンタの言うこと訊くと思う?」

「それは無いでしょうけど……っ」

「じゃあ今出来ることは待つことだけだし、名無しは戻られた時に笑顔で出迎えるためにもう泣かないこと!」

「うう……」

「好きな子泣かせた方があの人も気が悪いでしょ?」

「私なんかそんなんじゃないですよ……」

「何言ってんの、誰が見てもそうじゃん!使用人みんなそー思ってるし分かって無いのアンタだけ!!」

「え!!」


驚き彼女を見つめた途端、突然マリさまが何かに気付いたのかしっ!と人差し指を口元に添えた。
皆がしんと沈黙すると、どこからか遠くから微かに蹄鉄の蹴る音が聞こえてくる。
耳をすまして一斉に城の入り口へ目を向けると、その音は踊るように疲れを感じさせない軽い足取りで、徐々にはっきり聞こえる程大きくなってきた。そして彼方から楽しそうなシュトレンの姿がだんだんと見えてきた。
嘸かし嬉しそうに走る姿は、艶やかな黒い身体が夕焼けに赤く染まっている。上に乗ってる主人の顔は翳りよく見えないが。

ようやく到着した彼を見て皆一様に安堵の息を漏らした。シュトレンだけがまだ走れますよと言わんばかりに燦然と輝く瞳で周りをキョロキョロさせながら、主人を乗せていることを自慢げにはしゃいでいる。
余っ程嬉しいのかはたまた忘れているのか、触れても怒ることの無い彼を今だとここぞとばかりに一頻り撫で回して、ぱっと見上げるとムスッとした顔をしている神田さまが飛び降りて来た。
庭先に集合している臣下たちを見渡し、勝手に言いやがってだとか怒ってくるのかと思いきや、無言のままだしどことなくとろんと目が座っているような。ん?


「神田さま、みんな心配してましたよ。ご無事に戻られて良かったです」

「そうか、悪かったな。帰ったからもうもろれ」

「神田お前……」


マリさまが何か言いかける前に、神田さまはこれ以上なにも言うなとばかりに睨むがその眼光はいつもより迫力が無い。それに呂律も回っていない。

そして頬が赤いのも夕焼けに染まっているのかと思いきや、どうやら本当に熱を帯びているらしい。
もしかして体調不良かと心配して、嫌がられるだろうと思いながらもそっとその額へ触れようと腕を伸ばすと彼の熱い手のひらに掴まれて、咄嗟にピシャリと弾かれるかと思いきや握ったままそっと自らの頬へ持っていったものだから、異常な反応にひたすら驚き過ぎて時が止まった。そして彼に導かれてひたりと触れた先の艶のある頬もまた、同様に熱くてうっすら汗で湿っていた。


「……えっ!だっ、大丈夫ですか本当に!?」

「近くでデカい声だすな……頭ガンガンする……」

「名無し、心配するな。多分酔ってるだけだろう」

「マリてめえ……」

「何があったか知らんが、とにかく頭冷やせ神田」

「チッ」


溜息をつきながらごもっともな指摘をマリさまより受けて、返す言葉も無くうんざりしたように頭を抱えてどこか覚束無い足取りで自室に帰ろうとする神田さま。
そのまま追い掛けようと足を踏み出すと、お姉さんに後ろからがばっと首に腕を回されて、耳元で「あとは頼んだよ」と声を掛けられた。
もちろん介抱くらいなら出来ると振り返り頷けば、周りを見渡すと他の使用人さんも同じように安心しきった笑顔でにこやかに送り出された。自分のいない間に皆さんの中で何か深刻な勘違いをされているような気がする。

しかし誤解をとく前に、今は一番重要タスクとしてあのふらふらな彼を寝かし付けることだ……なんて名無しはいつもよりよろけている少しだけ頼りない背中を見つめた。