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「リンク様から、わ、私に……?」


彼の名前を聞いて思わず心臓が跳ねる。
振り返る神田の射抜く目線は名無しの心を見透かしているかのように冷たく見下ろしていた。刹那、息が止まる。長い睫毛に縁取られた氷色の瞳が静かに名無しを責め立てている。
分かっている、出るわけにいかない。
何か言わないと、震える声をなんとか絞り出した。


「あっあの、神田さまも積もるお話もありますでしょうし、同行願えませんでしょうか……?」

「…………そうだな」


射殺す視線が外れて、名無しを置いてすり抜ける一瞬、通り抜け様に背中をトンと叩かれた。どうやら正解したらしい。
刹那、一気に緊張で縺れる拍動を呼吸を繰り返して宥めながら、彼が立ち去る背中を目で追う。
傍から見ると自ら進んで話す姿勢を取った息子の成長に、ティエドールはにこりと微笑んだ。


「そうだねユーくんは謝っておいで」

「嫌です」


誰が謝るかよ。
神田が低くボソリと零した言葉は名無しにだけ届いたらしく、見送るティエドールの瞳の色は優しく暖かかった。

男性の使用人さんにティエドールさまがもう脱走しないよう任せて、先にスタスタと歩いてゆく彼の背中を追い掛け小走りで行けば、追い付いたのは瀟洒な壁紙が長く続く静まり返った廊下。
合わないちぐはぐな足音だけが響き、ふと2人きりになっていることに気付いた。
いつもなら隣に並んで歩くなんて当たり前だったというのに、なんだか部屋までの道のりがすごく長く感じている自分が居る。


君のことすごく好きなんだろうなと思うよ。

不意に先程仰っていたティエドールの言葉を反芻してしまい、名無しは一人でまた顔を真っ赤に染め上げた。
その台詞を意識してしまって今までどう過ごしていたのか忘れてしまうくらいに妙にどぎまぎしてしまい、過去の彼の言動や挙手を思い返してはあの時も?なんて都合の良い解釈ばかりしてしまう。
今はこんなにも拒絶されている気がしてならないというのに。

そんなことなんて露知らず、名無しの事なんて気にもしていないかのように神田は歩むペースも落とさずにさっさと先をゆく。
優しい光が入り込んだ廊下はとても目覚しくて明るいというのに、ふたりを取り巻く空気はなんだか沈んで重くて。朝日に輝く濡れたような結われた黒髪が揺れる背中をひたすら小走りで追う。
どうしよう、何か言わなきゃ……。


「あの、昨晩何故戻られなかったのですか?」

「……お前に関係ないだろ」

「そうですが…………」


やっと捻り出した質問も軽くあしらわれてしまい、名無しは肩を落とした。
気まずい。
今までどう過ごしていたっけ。思い出せない。

やっと隣に並び、彼の横顔をそうっと見上げれてみれば、神田もまたこちらを向いていたらしくぱちりと目が合った。
青く透き通るような綺麗な瞳が、おずおずと不安そうな自分を映している。いつもなら怪訝そうになんだよとか威嚇してくるというのに、バッとすぐに視線を逸らされてしまった。完璧な凛とした横顔を見つめながら少しだけチクリと胸が痛む。


ようやく電話前に到着して使用人さんが名無しへ受話器を渡す。ぺこりと会釈して受け取ると、使用人は用が済みすぐに立ち去ってしまった。またふたりきりだ。
緊張で手が震えるが、壁に据付られた電話口へとりあえず挨拶だけでもしようと息を吸い込んだ瞬間に、隣の壁にバン!と音を立て骨ばった手を着かれた。
前髪が風圧で浮く程の勢いに吃驚したまま瞠目して沈黙していると、後ろから伸びてきた先程と反対の手によってするりと受話器を奪われてしまった。
力も入っていなかった所為であっさりと彼の手に渡る。その刹那、一瞬だけ触れた神田の手は熱く、珍しくもほんの少しだけ汗ばんでいた。
壁と彼に挟まれたまま身動きが取れずに見上げると、口角を上げて悪い顔をした彼の低い声が降ってくる。


「よお、久しぶりだな犬野郎」


ぽかん。呆然とする名無しを見下ろしたまま、神田は敢えて電話先へ威圧をかけるように低い声で言った。目の前で開口一番での挑発に、名無しはわたわたと無力ながらも冷や汗が一筋こめかみに溢れ出した。

ちょっと!また早速喧嘩ふっかけてますよ……!ティエドールさまが知ったらなんと仰るのでしょう……。
止めておいたほうが、と怖々と見つめるもその目線の意図に気付いている神田はわざとべえっと舌を出して、口パクで「ざまあみろ」と名無しに伝えた。この人……!


「俺で悪かったな」なんて思ってもいない癖に、してやったり顔で話す彼の会話が頭上でなされている。
手を退かす事無くそのまま話し続けられているので、盗み聞きするつもりは無いのだけど如何せん挟まったまま解放してもらえる気配も無くて動けそうにない。

目の前にあるのは国を守る綺麗な手。

ほんの少しだけ触れている背中から、神田の息遣いや熱が伝わる。
彼の低いテノールの声が、微かに触れた所から響いてきて吐息が髪に掛かり、意識しないでおこうと思えば思う程集中してしまい次第に顔が熱くなり拍動が速くなる。

しかしこんな近くで居るのに、リンクの会話内容は分からずやきもきとするも意外にも神田はキレたり怒鳴ったりもせず、手短に会話は終了したらしい。受話器を置く手前に最後に彼が不機嫌そうな声音で言った、「じゃあ後で」という言葉に一瞬耳を疑う。なにか!約束を!なさられている!?
名無しは居ても立っても居られなくてすぐに振り返り彼の胸元に手を置いて、上目遣いで燦然とした瞳を向けた。暫時、神田がウッとその眩い期待に気まずそうに眉根を顰める。


「これから何かご予定が出来たのですか!?」

「チッ、アイツの所に行く。言っとくがお前は此処で留守番してろよ」

「はい勿論です!!」


これは!平和的解決!
一時はどうなることかとひやひやしたがなんと好転したらしい。ほっと安堵で胸を撫で下ろす。名無しは手を叩いて喜びたい衝動をなんとか堪えた。
「良かったぁ」なんて言いながら嬉しそうにふにゃりと完爾に笑う名無しを、暫くの間神田はじっと静かに見つめていたがぷいとそっぽを向いてすぐに「行くぞ」と呟いた。

今日は忙しい1日になりそうだ。
すぐに出発の準備をととりあえず臣下の方々に声を掛けるため離れようとしたら突如がっしと彼に肩を掴まれて動けなくなった。吃驚して振り返る。


「オイちょっと待て、どこ行く気だ?」

「これから出掛けられると伺ったので用意をしようかと」

「大した用事じゃないから要らない」

「そうなんです……?」


はて?と小首を傾げる名無しに神田は溜息をひとつ。

自分は行けないので同行される使用人さんのスケジュールに手土産の手配や馬の用意、キャビンの準備も必要だ。動くならなるたけ早い方が良いというのに。
頭の中で忙しなく予定を組んでぐるぐると目を回す彼女の両頬を大きな手のひらで掴み腰を屈めて目線を合わせると、神田は蒼の双眸でじっと見据えた。視界いっぱい仏頂面の端正なお顔しか見えないし、真面目な表情で見つめられ恥ずかしくて次第に触れられた頬からどんどん赤くなってゆく。


「落ち着け。1人で行くからお前は何もすんな」

「ええ!でももしなにか合ったらどうするんです……?」

「そん時は斬るだけだ」

「……物騒です」


近い距離で、伏せがちの長い睫毛と色香を孕んだ視線に、薄く整った唇の方へ自ずと視線が引き寄せられてしまう。重ねたら少しだけ固くて、優しい唇。

しかしパッと呆気なく手を離されて、なんとなく寂しいような不安が襲う。

い、いま私なにか下品な期待をしていた……?

なんだか恥ずかしくなり余計に身体が火照るのを悟られたくなくて、咄嗟に顔を逸らした。
林檎のように赤くなった横顔に察しがついたのか、彼は愉快そうな声音でその耳元へ吐息混じりに囁く。


「なんかして欲しいんなら言えよ」

「やっ別に!なんでも無いです!」

「へぇ?」


わしゃっと髪を乱雑に撫でられて、まるで子供扱いで窘められる。未だ赤い頬をしたまま、名無しは乱された髪を手櫛で治しながらその背中を追い掛けた。神田さま、人の気持ちを弄ぶホント狡い人。


先を行く彼の後を追いワードローブへ入ってゆくと、ご自分で乗馬用のブーツを取り出してさっさと慣れた手つきで紐をしっかり縛り履き替えられた。
なにか手伝おうにも邪魔だ要らないとぴしゃりと断られてしまい、ただわたわたとするしか出来ずにまた後ろを追いかける。


元より馬の扱いも上手で乗り慣れている神田さまは、城で飼っている馬小屋へとスタスタ向かったかと思うと御者さんの手も借りずにさっさと自分で乗馬の用意してしまった。

神田さまが選んだ子はうちでいる中で一番身体の大きい艶やかな黒い馬で、名前はシュトレンと言う。
触れられると嫌がる割とクールな子で御者さんや私もよく威嚇されるのだが、仕事は割り切っているのかキチンとこなす賢い馬だった。ただ似たもの同士お互い気が合うのか、王さまにだけはよく懐いている。

シュトレンは自分が久しぶりに王さまを乗せる事が嬉しいのか、自分が選ばれた事に心做しか自慢げに背筋を伸ばして闊歩していた。
ご機嫌だし今ならと私も撫でようと手を伸ばしたが、歯を剥き出しにしてキレてくるので慌てて謝る。そんな怒らなくても。

神田はその姿を鼻で笑って、シュトレンにポンポンと軽く叩くように撫でると、先程の事が無かったかのようにアーモンドのような目を細め喜んだ。
羨ましい、私も触れ合いたい……!


行くぞ、と手綱を引き門の方へ連れてゆくのを後ろから眺めて歩みゆきながらその光景を見てふと思い出した。
そういえば以前、側近任命された時に他人に身の回りの事をされるのが嫌って言ってたが、本当なんだろう。先程も断られたし、時々使用人さんが作業されているのを後ろでイライラしながら待ってるのを知っている。人を使うタイプじゃないのだろうな。


「じゃあ行ってくる」

「もっもうですか!?」

「んだよ文句あんのか?
火触ったり余計なことすんなよボロ雑巾」

「しませんよ!」


黒い馬に軽々と飛び乗って名無しを見下ろす。
その様だけでも格好良くて、国の女性が黄色い声援を上げるのも頷ける。口さえ開かなければ。

神田さまは動きやすいようにか下の方で髪を結わえて肌触りの良いシャツを着ており、その腰には愛刀だけが所持している。
訪問にしてはかなりラフな格好だが良いのだろうか?と一瞬考えたが装飾嫌いの彼に何を言っても無駄だろう。
じゃあな、と一言だけ名無しに掛けて、手網を掴み器用に扱えばシュトレンは意気揚々と駆け出した。