02
「あの子ったらなんで何処にも居ないんだい!」
「ん……」
まだ霞も降りる早朝というのに、屋敷内はやけに賑やか。
何時も専ら掃除や庭園の植物の世話係の名無しは昼しか仕事はないのだが自然と目が覚めてしまった。扉の向こうではさっきからずっと右へ左へ昨日の手伝いさんの剣幕ある声がして、ふと王のにやりとした黒い笑顔を思い出してしまい朝からゾッと背筋を凍らせる。ああもう、何度反芻しても恐ろしい!
昨日は窮地に追い込まれ、思わず勢いで王に何でもするとは言ってしまったが自分が底抜けに不器用なことは知っていた。しかしもし次に「能無し」と言われれば確実にクビは免れれることは出来ないだろう。絶対に逢いたくない。
とりあえず昼までまだ時間があるしもう少し眠ろう、と頭まで深くシーツにくるまった瞬間、
ばたんっ!
使用人室の扉が勢いのあまり跳ね返るまで開かれたと思えば、
「はーあ、アンタ何時まで寝てんだい早くおし!王さま直々の御命令だよ!」
「えっ、は、ええ!!」
入口で仁王立ちをして怒鳴り散らすのは昨日の雇われ手伝いのおばさん。
名無しは色んな意味で慌ててベッドから転げ落ちた。
「し、失礼ですが御命令とは?」
「王がアンタなんか小娘ひとりの為に待ってんだよ!何処に居るのかと思ったら何時までもぐうたらして!無駄口はいいから早くしな!」
ひーっ!な、何で!?
早速の指名にびくびくと震えながら適当に用意を済ましてさっと髪を結い、何時もの黒をあしらった大人しめのメイド服に着替えて直ぐ様部屋を後にした。
「っあー、はぁ、は」
長い廊下を走り漸く辿り着いた部屋の前でぜいぜいと乱れる息を整える。
震える手で二回ノックをすれば「入れ」と低いテノールの無機質な返事。
「しっ、失礼します……」
「遅い」
「わあ!すっ、すみません!」
「早くしろ」
名無しは扉を開くとただっ広い寝室では20人くらい使用人がおり、対岸ではつまらなそうに神田がベッドに腰を下ろしていた。何時も下で結われていた絹のような髪は今は自由に解かれていて、寝具なのかラフなシャツすらも秀麗に着こなしている。
慌てて深く礼をすると不機嫌そうに眉間に皺を寄せた神田はちらと名無しを射抜くように一瞥したと思えば「こっちに来い」と言い放ち、直ぐにまた窓の外へと目をやったが、いまの一瞬やられた鋭い視線だけでも名無しの心臓にはばくばくと悪かった。
今すぐにでも逃げ出してしまいたくなるような神田のぴんと張り詰めた雰囲気に名無しは怖じ気づいて涙目で俯くも腹を括り神田との距離を縮めてゆく。
「お、王さま一体どのようなご用件で?」
「ああ」
と神田は小さく頷き、「お前ら、よく聞け」と周りで佇む使用人を気鋭ある瞳でぐるりと見回した。その凛乎とした低い声が室内に響くだけで一気に空気が緊迫する。神田はベッドからすくっと立ち上がりブーツを鳴らしながらゆっくりと名無しの方へ近付いた。
(うわあっこ、こっち来たよー!ああどうしようっ、昨日のことだ絶対!)
様々な最悪のパターンが頭をよぎり恐怖に瞳を閉じると、いきなり神田の太い腕が腰に回ったかと思いきやすっと引き寄せられた。
ぽん、とほんの少し当たった胸板は予想よりずっと固くって、名無しの顔が赤く染まってしまうには十分すぎる距離で。神田はちらと一瞬名無しを見るも直ぐに前を向き、
「本日よりこの者を側近とする。他の奴は全員雑用に回れ」
「ええっ!(わ、私が側近ですか!ひとりで!?)」
「なっ!?そ、そんな意味がわからない、」
「文句があんなら前に出ろ。切り刻む」
今まで王の身嗜み係だった使用人たちが一気にざわめいていたのも神田のその一言でぴたりと押し黙った。
元は仕立て屋やデザイナーなど、様々なプロであろうその使用人たちは自分よりずっとお洒落で華やかであり、名無しは何故自分のような凡才の者を傍に置くのかが全く理解出来なかった。
「以上だ。下がれ」
「はっ」
ずらっと並んでいた使用人が全員退室し、広い寝室に残されるは名無しと神田のふたりきり。
「お、王……本当に良かったのですか?」
「どうでも良い。いちいちあんなにぞろぞろ並ばれたらうぜェんだよ」
「…………」
どうやら名無しはただ使用人たちを納得させるための見せ物だっただけのようで、神田はどうでもよさそうに冷めた瞳を空に漂わせ扱い易そうな真っ直ぐの髪を髪紐で高くに結っていた。
「しかし私そういうことを一切学んでいないため本当に出来ないですよ?」
「……だろうな。鈍臭ェし馬鹿そうだし」
「ぐっ」
あっさり肯定された辛辣な言葉が名無しにぐっさりとダメージを与えた。
その発言に少し落ち込む名無しを神田は心なしか悪戯を楽しむ子供のように見つめ、またベッドに腰を下ろす。
「おい、ボロ雑巾」
「え?、は、う、」
「お ま え だ」
「はっはい!」
ぼ、ボロ雑巾……!
慌てて身支度したくしゃくしゃの髪によれたメイド服。まさにボロ雑巾を彷彿させるであろう。何時の間にかついた貧相な渾名に名無しは思いっきり凹むも神田は素知らぬ顔で続ける。
「大体最初からお前にはそんな期待していない」
「ひ、ひどい……」
「側近なんつうもの要らないんだよ」
「じゃあどうして私なんかが、」
「下僕だから」
「えええ!」
飄々と下僕宣言され名無しはあまりの衝撃に呆気にとられる。
するといきなり神田の長い腕が名無しを攫って、ぐいと強く抱き寄せた。王の突然の行動にバランスを崩した名無しは、ベッドに座る神田の膝の上に馬乗り状態で腕の中にすっぽりと収まってしまった。
「うわっ、す、すみません!私ぼうっとしてて、」
「バカ、わざとだ」
整った顔も切れ長の瞳もこんなに間近で見るのは初めてで、神田が名無しをからかってるのは明瞭なのだがふたりきりでこんな状況という背徳感に頬がどんどん熱くなってゆく。
「な、なんでこんな……っ」
「つまんねェんだよ」
「だからって、」
「言ったじゃねえか、『俺の近くに置いてほしい』って」
「あ、あれは……」
「あ?昨日あんなヘマして今更取り消すなんて言わないよな?」
「…………っ」
今更もぞもぞと抵抗しようにも腰辺りに回った神田の腕ががっちりと名無しを捕らえていて、離れる気配が無い。
負い目もある上にこの国の長の言葉は絶対。否応無しの命令に名無しは俯いた。