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すっかり春を待ち侘びる土の香りは、こちらの悩みなんて関係ないとばかりにやわらかくひたすらに滾り生を直に感じる。
毎日水やりには足を運んでいたが、植え替えた苗もその土壌に馴染んだのか愛らしい蕾をこさえて今か今かと時が盈ちるのを待ちつつふっくらと膨らんでいる。

中庭へ進み、出迎えてくれる花々の小路を通り過ぎてテラスの方を見やると独り占めかと思いきや先客が居られたようで、そこには懐かしい背中がお見えになった。何となく邪魔してはいけないような気がして、息を殺してほんの少し足音を忍ばせる。

年季の入ったコートを着られた少し猫背の背中は、庭の観賞を楽しまれているようで近付いても気付かれていないようだ。
名無しはそうっと声を掛けると、振り返った彼はいつもの慈しむような瞳を瞠目したのちに優しく微笑んでやあ、と優しい声をかけその貫禄を刻んだ手で頭を掻いた。


「お久しぶりです、ティエドール様。お元気そうで何よりです」

「やあ名無し、ただいま。ユーくんと一緒じゃないんだね?」

「まだ何方に居るのかわからなく、すみません。探します」

「いや構わないよ。
恐らく鍛錬でもしてるんじゃないかな、彼は嫌なことがあると何時も彼処へ行くからね」

「……そ、そうですね」


今しがた戻られた所だろうのに、神田さまが不機嫌な事までまるでお見通しだ。
にこりと笑うその眼鏡の奥の瞳は優しいのだが鋭い光が一閃煌めく。
彼の観察眼はいつも凄くてとても敵わない。

こちらはただの一臣下というのに、率いる沢山の臣下全員を記憶されているし、にこやかでぼんやりしているようでどこまで筒抜けなのだろうと偶にドキッとすることもある。
名無しがどぎまぎしているのを知ってか知らずかティエドールが思い出したように紡ぎ名無しを見つめながら自らの胸元を人差し指でトントンと軽く叩いて、


「それはいつもユーくんにやってもらってるのかな?」

「!」


それを聞いた途端、恥ずかしさのあまり倉皇する名無しに慈愛を含んだ瞳でふっと微笑む。
この人には一体どこまで見抜かれているのだろう。

名無しは一気に赤く頬を染め後ろめたい気持ちに苛まれて、居心地悪く身動ぎして為す術なく頭を下げた。
そしてもう誰かに指摘されないように、こっそりと手元に集中して通してゆき、リボンを結い上げた。

人間こういう窮地に陥った方がうまくいく事が多いらしい、こんな時に限って今迄で1番の出来で装飾を付けることが出来た。そしてこれでもう馬鹿にされないぞ!装飾問題も卒業だと小さく胸を弾ませた。

ティエドールは心做しか急に胸を張った名無しにふっとやわらかく笑いかけると、流れるように慣れた手つきでガタリと音を立てて大きな鞄からイーゼルを取り出して、テラスに据えてあるガーデンチェアへ座り込んだ。
そして腰に吊したオモニエールから鉛筆を数本取り出すと、乾いた擦れる音を立てて花を見つめデッサンを始めた。

名無しはいきなり何が始まったのかと突然の事に呆気にとられてその動作を茫然と見つめるが、彼はそんなこと気にも留めず手元に集中して視線を落としたまま、優しい声で名無しへ問い掛ける。


「名無し、いつも庭の手入れを綺麗にしているね」

「いえ、とんでもないです……」

「私は季節によって変わる中庭の絵を描くのが楽しみでね、春の匂いがしたから描くために帰ってきたんだ。
これも君がしっかり世話してくれているからだ」

「勿体ないお言葉、ありがとうございます」

「ところでユーくんのことどうおもっているの?」

「えっ!!」


あまりに突拍子も無く急旋回で肝胆を突き刺す質問に驚き瞠目すれば、ちらと一瞬此方を見やる眼鏡の奥の瞳とぶつかる。
その真意を量る声音や質問に、名無しは自らの奥底を探られるような不安に気後れしてたじろいだ。

どう思ってる?勿論心の奥から慕っている。
しかし先日その当事者からその言葉について酷く叱咤されたばかりでいて、そう軽々しくは言えなかった。
じゃあこの感情は一体何なのだろう?
自分はただの側近で、彼は一国を統べる王なのだから絶対に天変地異が起こったとてこの関係は崩れることも無く、ましてやもし解任されれば今後交わる事も無いただの他人だ。
でももし身分がこんなにも違っていなかったらなんて、何度も何度も想像しては心がぎゅっと苦しくなった。
決して出てこないように心の奥深くに雁字搦めにしてしまいこんだのは、いつか必ず現れる妃様を、その方に微笑む貴方を見届けられる日が訪れる事を、一番望んで一番憎んでいる私だった。
しかしそんな分不相応な失礼な事、ティエドール様に言えるはずが無い。

言葉を紡ごうと口を開いては違うと噤んで懊悩する名無しの返答を暫く待っているのか、ティエドールは静かに沈黙をしており、ただ鉛筆が走る音だけが広い中庭に響く。
何か言わねばと気まずさ故に名無しは乾いた喉へ生唾を飲み、スカートの裾をぐっと掴みながら恐る恐る声をこぼした。


「あの、上手く言えないのですが……ただ、全てを投げ打ってでも傍で遣えられればと思っております」

「そうか。君も同じなら良かった」

「お、同じ……?」

「あの子天邪鬼だから誤解されやすいけどね、私から見ると君のことすごく好きなんだろうなと思うよ」

「!!」


好き?彼が?

泡を食ったように驚いたまま動けず固まる名無しに、にこりとまた優しい色に戻った瞳はなんだか嬉しそうに細められた。
そして彼は「若いって良いね」なんて愉快そうな声で独り言のようにぼやき、何事も無かったかのように再びデッサンの作業に戻ってしまわれた。


春の訪れを知らせるように暖かい風が二人の間をすり抜けて、そうっと頬を撫でる。
軽やかな鉛筆の擦れる音だけが揺らいで無垢に花がそよいでいた。















ティエドールの予測通り夜通し鍛錬場にて過ごしていた神田は、食堂へ向かおうと中庭の渡り廊下を通り抜けている所、ちらと何気なくテラスに目をやれば名無しの背中が見えた。
昨日散々当たり散らしたあの時の涙を思い出して心臓が跳ね、気まずさ故なのか一瞬ピクリと眉を動かす。
本当はそのまま無視して行こうかと思ったのだが、そのちっさい後ろ姿の奥には長らく逃亡していたもじゃもじゃ頭が視界に入り、驚き思わず足が止まった。

は?なんでいやがる……?


「クソオヤジ……ッ!」


もうなりふり構うことも出来ずにズンズンと不機嫌に歩み寄り、その機嫌の悪さを隠すこと無く元国王へ「お久しぶりです」と低いトーンで声を掛けた。
ティエドールはキャンパスから顔を上げ愛しい息子の姿を確認すると、久方振りの感動の再会に「ユーくんじゃないか!ほらおいで」と愛する息子を抱擁しようと腕を大きく広げたが、当の本人は来るなとばかりに後退りして怒りを剥き出しにして牽制する。ティエドールはそんなこと気にせずに淡々と言葉を紡いだ。


「ユーくん、聞いたよ。隣国で喧嘩して来たんだってね」

「なんで貴方が知ってるんですか、というか今まで何処行ってたんですか」

「イスタンブールだよ。美しくて良い町だった」

「……ハァ。アンタが居ない間に報告する事が山積みです」


長く務める臣下からすると、ああまた始まったなんて何時ものお決まりの仲良い親子喧嘩が目の前で繰り広げられている。
名無しはこれがかの有名な名物として色んな使用人さん方から聞いていたやりとりか!と微笑ましく眺めていたが当の神田からすると本当に迷惑らしく、その表情もかなりムスッとしていた。
振り回されている王さまの新鮮な姿が可笑しくて、ふふと思わず笑うと般若を背負った鋭い眼光がギッとこちらまで飛んできて、恐ろしさのあまり慌てて頭を下げてなんとか視線を外す。
こんな怖い勢いなのにあっけらかんとしているティエドール様、流石です。

とうとう一通り拒否され諦めたのか、ティエドールは一旦広げていた腕を下ろした。そして飄々としたまま残念だなんて軽い口調で言いながら、再び椅子に腰掛けて描きかけのキャンパスに向かい、半ばぼやきのように手元を見ながら注意する。


「なら隣国にちゃんとごめんなさいしてきなさい」

「はっ!?」

「ちゃんと言えないなら私も一緒に謝りに行くから」

「それだけは絶対!イヤだ!!」


神田からしたら鬱陶しいわ今までどこほつき歩いてやがったんだという怒りで頭は満タンだ。しかし傍から見るとごねているのは完全に神田の方だからなんだか少し気の毒だ。
次は笑ったら刻まれるかもしれないのでにやけないように唇を噛み締めて、ぷいと明後日の方向をむいた。
しかし後頭部に突き刺さる視線が余りに痛いものでついコソッと神田の方を見遣れば、案の定思いっきり殺意を込めてこっちを睨んでいた。バレている!怖い!


「すみません笑ってないです!
あの、私はただ、先程ラビさまが帰られるというのをお聞きしましたので報告させて頂こうと思いまして」

「テメェ性懲りも無く……それもアイツにやらせたのか?」

「えっ」


神田がキレた顔のまま自らの胸元を指先でトントンと叩き、名無しへ指し示す。恐怖で縮み機能を停止する脳をなんとか回してなんの事か一瞬考え、胸元のリボンのことを指しているのかとやっと気付き弁明しようと口を開いたら先に話をされたのは意外にもティエドール様だった。


「ああ、あれ名無しが自分で治せたんだよ、ユーくんのお楽しみ減らしたんならごめんね」

「ッはぁ!??んなわけねえだろ!!」

「いえ毎回私が迷惑ばかりで!!!すみません!!!」


名無しは必死で謝りながら、今にも元国王様の胸ぐらを掴みかかる勢いでキレる神田を後ろからひしっと抱き着いて飛び出て行くのを抑えた。
それをみて「羨ましいなあ」なんて微笑ましく見つめるティエドールをみてなに笑ってんだと神田は黒いオーラを漏らして余計に苛立っている。

ちょっと!誰か!!収集付きませんて!
心中で助け舟を求めていると願いが叶ったのか、突然1人の男性の臣下がバタバタ小走りで慌ててテラスへと駆け付け、礼儀正しく深く頭を下げた後に淡々と話す。
彼の顔を見てほっとしたのもひと時で、彼の言葉に名無しは再び固まった。


「失礼します!隣国のリンク様からお電話頂戴しております。
それも……あの、恐く聞き間違いでは無いと思うのですが名無し宛……なのですが……」